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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

黒衣の魔女

作者: 曲尾 仁庵
掲載日:2026/02/01

 黒衣の魔女は、糸のように細い月の夜に現れる。




 窓からまだ少し冷たい風が吹き込んでくる。穏やかな日差しが降り注ぎ、朝露に濡れた庭の草花が気持ちの良さそうに揺れている。ベッドの上で半身を起こし、一人の少女が窓から外を見ていた。肌は白すぎるほどに白く、身体は痩せて骨が浮いている。頬はこけ、憂いを帯びた表情に生気はない。眠れていないのだろうか、目の下は濃く黒ずんでいる。


――ふぅ


 疲れたように目を閉じ、少女はため息を吐く。未だ帰らぬ人を待ち、待ち続けて、窓の外を見つめ続ける日々は、彼女を確実に蝕んでいるようだった。


 戦争が始まって、一年。恋人は前線に発ち、その後の音信はない。




 少女は都から遠いこの村で生まれ、この村で育った。派手なものなど何もない田舎の農村は、しかし少女にとって穏やかで幸せな場所だった。外に出るなど思いつくこともなく、ずっとこの村で生きていくのだと、そう思っていた。

 彼女には幼馴染の男の子がいた。生まれた日が一日しか違わず、彼女が持つもっとも古い記憶の中にはすでに彼がいた。当然のように隣にいて、当然のように共にいるのだと、そう思っていた。年月が経ち、その想いが恋心に変わっても、彼が隣にいることを彼女が疑うことはなかった。しかし彼の想いは、彼女とは少し違うようだった。


「兵隊に志願しようと思う」


 国境に不穏な気配が強まり、国は志願兵を募っていた。彼は彼女の手を握り、まっすぐに見つめて言った。


「こんな田舎じゃいつまで経っても生活は楽にならない。志願して手柄を立てれば、今よりずっといい生活ができる。君をもっと幸せにすることができるんだ」


 二人の未来を見つめる彼の言葉を、彼女は否定することができなかった。離れることなど想像もしていなかった。贅沢などいらない。危険なことはやめて。その言葉を飲み込み、彼女は笑って彼を見送った。すぐに帰ってくる。無事に帰ってくる。そう自分に言い聞かせながら。


 しかし、ひと月が経ち、ふた月が経っても、彼は帰ってこなかった。それどころか、手紙も、電報さえ届かない。こちらから手紙を書いても返事はなく、彼が今、どこで何をしているのかさえ、機密という名目によって、知らされることはなかった。新聞は戦争の華々しい戦果を伝え――紙面の端に小さく死者数を載せる。その一つ一つの数字に全て人生があることを隠すように。


――西に送られた連中は、全滅だと。

――新兵がロクな訓練もなく前線に送られてるらしいぞ。

――ひでぇ話だ。まるで無駄死にじゃねぇか。


 新聞が伝えない凄惨な戦場の噂を聞くにつれ、彼女の中に不安が渦巻く。今日は彼の死亡通知が届くのではないか。不安は堆積し、膨れ、やがて溢れた。眠れず、食事ものどを通らぬ日々が続くようになり、やがて彼女はベッドから起き上がることもできぬほどに衰弱した。ベッドの上で彼女は彼の帰りを待つ。日が昇り、中天を過ぎ、山の端に姿を消しても、彼女はずっと窓から外を見ていた。


 日が沈み、冷たい夜風がカーテンを揺らす。空には糸のように細い月が頼りなく世界を照らしていた。星も姿を隠した蒼い闇を少女は見上げる。寒さを感じていないのだろうか、窓は開け放たれたままだった。


「こんばんは」


 窓の外から掛けられた声に驚き、少女は空から視線を下ろした。いつの間にか、窓辺に闇を濃縮したような黒衣に身を包んだ女が立っていた。腰まである艶やかな黒髪に黒真珠のような瞳。女は冷たい微笑を浮かべ、無感情に少女を見ていた。少女はシーツを握りしめ、わずかに身体を震わせる。目の前にいるこの女は、村に伝わる昔話の――


「――魔女」


 少女はかすれた声でつぶやく。村には遥か昔から語り継がれる伝承があった。黒衣の魔女は、糸のように細い月の夜に現れる。そしてその姿を見た者は、魂を喰われて死んでしまうのだと。女は『魔女』と呼ばれても表情を変えない。人の形をしていながら体温を感じない女の視線に射抜かれ、彼女の震えが徐々に大きくなる。彼女の様子を気にも留めず、女は口を開いた。


「あなたの想い人は今、ここから遥か西の国境沿いの村にいる」


 えっ、と思わず驚きが口をつく。どうして魔女が彼のことを知っているの? いいえ、そんなことはどうでもいい。彼は今、どうしているの? 少女は身を乗り出して魔女を見る。魔女は淡々と言葉を続ける。


「仲間をかばって代わりに銃弾を受けたのだそうよ。皆が彼を讃え、勇者だとか真の英雄だとか呼んでいる。すごいわね」


 言葉とは裏腹に、女の声に称賛はない。少女の白い顔からさらに血の気が引く。銃弾を受けた? それは、どういう――


「彼は今、生死の境を彷徨っている。うわごとであなたの名前を呼びながらね。きっともう助からない。もってあと数日だと、医者が言っていたわ」


 少女が目を見開き、両手を胸の前で握る。女の言葉が浸透していくにつれ、少女の目から涙が溢れて頬を伝った。瞬きもせず、声もなく少女は泣く。女は冷淡に彼女を見つめ、そして言った。


「それで?」


 女の問いの意味を図りかね、少女は魔女を見る。黒真珠の瞳が細く月光を宿している。


「あなたは泣いているだけ? 彼はまだ生きているのに。あなたを呼んでいるのに」


 少女は戸惑いに瞬きをする。


「……だって、国境は、遠くて」


 国境沿いの村に行くには、ここから少なくとも一週間はかかる。それではもう絶対に間に合わないじゃない。私にできることは、何もないじゃない。


「そう」


 女は興味の無さそうに言った。


「それは、可哀そうね」


 女の声に微かな感情が混じる。それは愚者に対する嘲笑だった。少女が女をにらみ、声を荒らげる。


「わ、わたしに、何ができるって」

「できることがなければ何もしないのね。当たり前で、とても賢い選択だわ」


 女は見下げるように嗤った。


「そして彼はあなたに会えないまま死んでいく。とても賢い選択だわ」


 少女は屈辱に身を震わせ、目を伏せて拳を握った。


「わたしが、今まで、どんな思いで――」

「知らないわ」


 女は少女の言葉を遮り、切って捨てる。少女は女を再びにらみつけ、唇を噛んだ。


「しない言い訳など必要ないわ。私が興味があるのは、今とこれからだけ」


 女の声から感情が消える。


「会いたいか、会いたくないか、それだけを答えなさい」


 少女は目に憎悪を宿し、理不尽を詰るように叫んだ。


「会いたくないわけないでしょう! だけど、わたしは」

「言い訳は必要ないと言ったはずよ」


 冷厳な瞳で少女を制し、女は彼女に手を差し出す。


「答えが決まったのなら、私の手を取りなさい。彼に会うこと以上に大切なことが、あなたにないのならね」


 挑発めいた言葉に少女は不快そうに眉を寄せる。身体の震えはもう、止まっていた。弾くような勢いで少女は女の手を取る。女が、微かに笑った。




 国境に近い村で、一人の英雄が死んだ。仲間を銃弾からかばい、自ら傷を負ったその若者は、故郷に恋人を残して戦場に赴いたのだという。人々は彼の勇気を讃え、その悲劇に涙する。せめて最期に一目でも、恋人に会えたら――そんな人々の願いは、奇跡のような出来事によって叶えられた。いかなる手段か恋人が国境の村に現れ、彼の手を取り、その最期を看取ったのだという。しかしその恋人も彼の後を追うように数日後に亡くなり、若い二人を見舞った過酷な運命に、人々は心を痛め、哀悼を捧げたのだという。




 黒衣の魔女は、糸のように細い月の夜に現れる。とある地方に遥か昔からそう伝わる。魔女は死期の近付いた者の前に姿を現し、その魂を喰らうのだという。魔女の姿を見た者は皆死ぬため、魔女の目的も、想いも、誰も知る者はないのだという。

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