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◾️花村美咲 2025年10月2日木曜日

 翌日、私のシフトは十時から十九時までだった。一時間の休憩を入れて実働八時間。昨日はたくさん残業したので、溜まっていた仕事を片付けることができた。

 ちなみに、朝七時入りの日は、娘は夫が保育園に連れて行ってくれることになっている。保育士の子どもは優先的に保育園に入れるようになっているが、我が子を自分の保育園で見ると要らぬ心配が増えるので、別の保育園で見てもらっている。なんとも皮肉なことだが、そうするしかないのだ。


 夕真くんを教室で目にした私は、彼がカプセルトイを手にしていないところを見てほっとする。連絡帳を見ると、保護者から保育士への連絡欄は空欄になっていた。灰谷さんがきちんと読んでくれたのか不安になったが、夕真くんがカプセルトイを持っていないところを見ると、一応読んではくれているらしかった。


 朝のあいさつを終えると、他の保育士たちと一緒に子どもたちを連れて園庭に出る。走ったり遊具で遊んだり、思い思いの遊びをさせてから教室に戻ると、泥だらけになった子どもたちの手を洗う作業が待っている。四歳なので自分でできる子がほとんどだが、それでももたもたしてしまうので、手伝えるところは手伝うようにしていた。

 全員が手を洗って、給食の準備をしていたときだ。

 一人の先生——綾瀬(あやせ)先生が「あれ?」と首を傾げていた。


「どうしたんですか、綾瀬先生」


 綾瀬先生は私よりも十歳年上の女性だ。彼女自身、中学生のお子さんがいることもあり、子どもたちをあやすのがとても上手だ。そんな綾瀬先生のことを、私も尊敬していた。彼女は私を見て「夕真くんがね」と近くにいた彼の肩に触れていた。


「また人形を持ってきているみたいなの。確か昨日、花村先生が注意してくれたはずよね?」


「は、はい。連絡帳にも書いて、今朝持ってないことを確認したのですが」


「それが、鞄のポケットの中に入ってたのよお。本人が取り出してきて、また持ってきたんだってびっくりしちゃった」


「そうだったんですか。それは……すみません。私の確認不足です」


 鞄のポケットまで確認していなかった。朝は夕真くんのお母さんに会っていないし、もうすこしよく確認しておくべきだった。


「いや、仕方ないわね。灰谷さんっていつも朝も夜も忙しそうでしょ? あんまり長く話せないでしょうし」


「はあ。じつはそうなんですよね。昨日のお迎えの時もちゃんと話せてなくて……」


 いくら忙しいとはいえ、呼び止めたらさすがに無視されることはないだろう。夕真くんのお母さんは人柄は良いのだし。ひとの話はきちんと聞いてくれるタイプだ。ただ単に本当にいつも忙しいというだけで。


「今日はどう? 話せそうかしら」


「はい。すぐお帰りになられるかと思いますが、呼び止めてみます」


「助かるわ。あんまり無視されるようだったら、園長から話してもらうように相談しましょう」


「分かりました。ありがとうございます」


 綾瀬先生のおかげで、夕真くんのカプセルトイの問題について、自分のせいではないと思うことができてほっとする。なんでもかんでも自分だけのせいにしてしまうのが私の悪いところだ。


「ゆうまくん、それ見せて!」


 なのはな組の中で一番気が強い女の子、えまちゃんが夕真くんのカプセルトイを指差した。反射的に夕真くんは人形を腕の中に隠すようにして抱え込む。


「ぼくにも見せてー!」

「おれも!」

「ここちゃんも見たい!」


 えまちゃんの声に反応して、他の園児たちがわらわらと集まってくる。昨日はみんな、単に好奇心で近づいてきているだけだったが、今日はどことなく目が本気な子が多い気がする。


「ちょっとみんな、夕真くんの人形だから、ね?」


 取り合いにならないようになんとか宥めに入る。が、そもそも私物を持ち込んではいけないというルールを破っているのは夕真くんである。「夕真くんはわるいことしてるんだから、ちょっとぐらいいじゃん!」と賢い子どもたちがムキになって叫ぶ。


「みんな、やめなさい」


 綾瀬先生が、ぴしゃりと鋭い声を放った。その瞬間、教室内の空気がぴたりと静まり返る。


「これはね、夕真くんが間違えて持ってきちゃったものなの。だからみんな勝手に触ったらダメよ。夕真くんも、明日こそおうちに置いてきてね」


 厳しくも愛のある指導に、みんなの気持ちも少しだけ和らいだのか、「はあい」と返事をして夕真くんの周りから離れて行った。


「夕真くん、大事なものだってことは先生たちも分かってるけど、だからこそ家に置いてきてほしいの。先生たちの言うこと、分かるわよね?」


 威圧的にならにように、夕真くんに優しい口調で諭すように伝える。彼は震えながらも、「ごめんなさい」と小さくつぶやいた。


「分かってくれたならいいのよ。先生たちこそ強く言ってしまってごめんね」


「だいじょうぶ」


 普段寂しい思いをしている彼の要望にはできるだけ応えてあげたいけれど、他の子と差別するようなことはできない。守らなくてはいけないことはきっちりと守って、その上で彼にはいっぱい甘えてほしいと思った。


 十九時、最後に残っている夕真くんは私に見られていると感じたのか、カプセルトイの人形は鞄にしまいこんで、教室にあるブロックで遊んでいた。小さな背中を見て、なんだか切ない気持ちにさせられる。家でもあんなふうにひとりで遊んでいるのだろうか。娘の美奈も、つい家事で忙しいときには部屋でひとりで遊ばせることが多い。申し訳ないと思いつつ、どうしてもつきっきりで遊んであげられないのが歯痒かった。


「夕真くん、先生と何か作ろうか」


 たまらずに声をかけると、夕真くんの表情がほんのり楽しげに和らいだ。


「何作る?」


「ぼく、お城を作りたい」


「いいね。じゃあ先生はお城に住む人間を作ろうかな」


「それならこの人形があるから、これでいいよ」


 夕真くんはそう言うと、再び例の人形を取り出した。


「夕真くん、それは……」


 また注意しなければならないのかとため息を吐く。が、今は夕真くん以外他に誰もいないし、まあ大目に見ようと思った。

 カプセルトイ、私も昔ハマったなあ。

 何が出てくるか分からないドキドキ感が楽しいんよね。それに、つい全種類集めたくなっちゃう。カプセルトイを回す瞬間のあの幸せな気持ちを思い出していたところで、「預かり室」の扉がガラガラと開いた。


「先生、今日も遅くなってすみません」


 扉の向こうでぺこりと頭を下げていたのは紛れもなく夕真くんのお母さんだった。


「ママ!」


 夕真くんが嬉しそうにお母さんに飛びつく。


「遅くなってごめんねえ。今日も楽しかった?」


「うん、先生が遊んでくれた」


「そっか。良かったわねえ」


 夕真くんの頭を愛しそうに撫でるお母さんは、心底ほっとした様子だった。昨日はどういうわけか、お母さんの身長が低く見えたけれど、今日は普通だ。勘違いだろうと、無理やり自分を納得させた。

 ただ、心なしか顔色は悪いように見える。仕事と育児で疲れが溜まっているのだろうか。すこし心配になった。


「あ、あの、灰谷さん」


 すぐに去っていこうとする夕真くんのお母さんを後ろから呼び止める。彼女は「なんでしょうか」と振り返った。


「連絡帳にも書いたのですが、じつは昨日から夕真くんが人形を持ってきてるようなんです。カプセルトイの。私物は持ってきてはいけないルールなので、明日からはご自宅に置いてきていただけないでしょうか? 他の子たちが気になるようで、取られたりなくしたりしたら大変なので……」

 

 私の注意を聞いたその刹那、夕真くんのお母さんははっと表情をこわばらせ、どういうわけかきょろきょろと辺りを見回したあと、「すみません!」と勢いよく頭を下げた。


「昨日連絡帳を見て、持ってこないように夕真にも言ったつもりなのですが、今日も持ってきていたのですね……。本当に申し訳ありません。明日から持ってこないように注意します」


 心底申し訳なさそうに何度も頭を下げる夕真くんのお母さん。私は、逆に自分が見当違いな指摘をしているような気持ちにさせられて、「いえ、ご注意いただけるのでしたらいいんです」と自分の中で熱が引いていくのを感じた。

 良かった……やっぱり灰谷さんは良いひとだ。たぶん、仕事と育児の疲れが溜まっているせいで、カプセルトイが鞄に入っているかどうかというところまで気が回らなかったのだろう。明日からは注意してくれるはずだ。夕真くんに「さようなら」と告げると、彼はなんだか寂しそうに「ばいばい」と小さく手を振ってくれた。

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