◾️花村美咲 2025年10月1日水曜日
最初におかしいな、と思ったのは夕真くんが登園をしてきて三十分後のことだった。
「花村先生、今日もよろしくお願いします」
灰谷夕真くんのお母さん、灰谷雪音さんはいつも、朝七時に夕真くんを預けに来る。四歳クラスである“なのはな組”の中ではいつもいちばん登園が早い。他にも朝七時台に来る子どもはいるが、七時ぴったりに来るのは夕真くんだけ。七時から八時まではそれぞれのクラスの教室ではなく、「預かり室」という一つの部屋で全員を見ている。朝は全部で十名ほどで、それぞれの教室に行くまで自由におもちゃで遊ばせている。
灰谷さんはシングルマザーで毎日働き詰めだそうだ。
朝一番に保育園に夕真くんを連れてきて、夜はぎりぎりの十九時に迎えに来る。私は、彼の境遇を思い、できるだけこまめに声をかけるようにしていた。
そんな夕真くんがその日普段は持っていないものを手にしていることに気づいたのは、七時半ごろだった。最初はブロックで遊んでいたはずの彼が、いつのまにか両手で何か丸い青色のボールのようなものを抱えているのに気づいた。保育園のおもちゃではないな、と思い近づいてみると、それはいわゆる“ガチャガチャ”——つまり、カプセルトイだった。
「夕真くん、それカプセルトイだよね。夕真くんの?」
私が尋ねると、夕真くんはこっくりと頷いた。
「そっか。ちょっと見せて?」
彼がそっと差し出してくれたカプセルトイを開けて、中に入っているものを取り出す。
これは……人形?
なんとも形容し難い、奇妙な人形だった。
子どもが持つ人形にしてはリアルすぎる。白いワンピースを着た黒髪の女のひとの人形だった。女の子、と表現しなかったのは、表情や顔のパーツがどうも子どもではなく大人らしかったからだ。肌の色は綺麗な肌色ではなく、くすんだ黄土色のよう。可愛らしさはかけらもなく、そういうリアルさを売りにした人形なのかもしれないとなんとか自分を納得させる。
それにしても……どうして夕真くんがこんなものを?
彼は普段、恐竜や○ケモンといった子どもらしいキャラクターを気に入っていたはずだ。そんな彼が、この人形を気に入っている理由が分からなかった。
「ねえ夕真くん、これ、好きなの?」
彼は再び頷いた。
「そうなんだ。でもね、保育園にはお気に入りのおもちゃを持ってきちゃいけない決まりなんだ。他の子が間違って取っちゃうかもしれないし、なくしたら悲しいでしょ? 先生も、夕真くんがお気に入りのおもちゃを持ってきてなくして悲しい思いをするのは嫌なの。だから、明日からおうちに置いてこようね」
子どもにも分かるようにゆっくりと彼の目を見つめながら軽く注意をすると、夕真くんは今度は小さく首を横に振った。
「……家に置いてたらママに捨てられちゃうから」
「ママに?」
はて、と首を傾げる。
夕真くんのお母さんはそんなに厳しいひとだっただろうか。
いつも夕真くんの送り迎えの際はバタバタとしていてあまり実のある会話ができたことはないが、それでも「いつも本当にありがとうございます」とへこへことこちらが恐縮してしまうぐらい頭を下げてくるところを見ると、腰が低くて優しい母親だと思う。夕真くんを迎えに来る際にも、「今日も遅くなってごめんね〜ただいま!」と笑顔で彼のことを抱きしめている。きっと、夕真くんに寂しい思いをさせていることに申し訳ないと思っているのだろう。
そんな灰谷さんのことだから、夕真くんのカプセルトイを家に置いていたら捨ててしまうというのはあまり理解できなかった。
もちろん、私が知らない母親の顔だってあると思うけれど……。
だが、夕真くん自身も、普段からふざけてはしゃぎ回ったりするようなタイプの子どもではない。危険な遊びをすることもないだろうに、捨てられるとはどういうことだろうか。
「ママ、おうちで厳しいの?」
今度は首を捻る。「厳しい」という言葉の意味がよく分からなかったようだ。
「えっと、ママはよくおうちで怒る?」
「ううん、いつもは怒らない。でもこの人形見たら怒る」
「そうなんだ。どうしてだろう? この人形を投げて遊んだりしたのかな」
「投げてない。ふつうに持ってるだけ」
「ふうん」
夕真くんの言葉をそのまま信じるなら、このカプセルトイの人形が気に食わなくて、夕真くんが持っていたら怒るということになる。
まあ確かに、気味が悪いと言えばそうだけど……。
でも、持っているだけで怒るほどのものだろうか。
目に障るなら夕真くんが見ていない隙にこっそり捨ててしまえばいいだけだろうに。
疑問に思ったが、それ以上夕真くんを問い詰めたところで、疑問が解消されることはないだろうと思って諦める。そのうち他の園児たちが登園してくると、彼らの面倒を見なければならなくなり、夕真くんのカプセルトイどころではなくなった。
その日、なのはな組ではみんな、夕真くんの持っているカプセルトイを見て「何これー?」と興味津々な様子だった。
人形を眺めては「変なのー」とおかしそうに笑う女の子や、「ぼくにも貸して」と夕真くんにお願いをする男の子がいた。私はできるだけ人形がなくなることのないように、隙あらば夕真くんのことを見守るようにしていたのだが、彼は四六時中人形を離さない。他の先生たちから注意されても、ポケットに入れて肌身離さず持っている。たまに彼の手の中にあるそれを見つめると、人形が私のほうをじっと見ているような気がしてすこしだけ背中が寒くなるような心地がした。
夕方になると、園児たちが次々と帰っていく。基本的には十六時までなので十六時にはクラスの三分の二の園児が降園していく。延長保育の子どもも十八時まではそれぞれのクラスで預かることになるが、十八時から十九時になると朝と同じ「預かり室」で一斉に見ることになる。「預かり室」で残っているのは現在五人だ。
ちなみに、保育士もシフト制で、朝一から入っている保育士は今日の私のように通常夜まで残ることはない。が、今日の私は溜まっている仕事が多かったので、園長に許可をもらった上で残業というかたちで最後まで残っていた。
夕真くんのお母さんは、やっぱり今日も一番最後に迎えにやってきた。
「遅くなってすみません」
十八時五十七分。ぎりぎりのお迎え時間で、彼女の額には汗が浮かんでいる。髪の毛は頬に張り付いていて、ここまで走ってきたことが窺えた。
「いえいえーいつもお疲れ様です」
ふと、違和感に気づく。
夕真くんのお母さん……こんなに身長が低かったっけ。
私の身長は158cmで、成人女性ではわりと平均的なほうだ。一方、夕真くんのお母さんは推定165cmほどある長身の女性だった。だが、なんとなく今日は私と同じくらいか、私よりほんの少しだけ大きいぐらいに見える。
気のせいだろうか、と彼女をじっと見つめる。夕真くんに「お靴履いて」としゃがんで靴を履かせるところを見ても違和感は覚えない。だけど、ひとたび立ち上がるとやっぱり前より身長が縮んでいるような気がするから不思議だった。
が、さすがにそんなことを本人に尋ねるわけにはいかず、私は今日のカプセルトイについての話をしようとした。
しかし、灰谷さんは思いの外急いでいる様子で「今日もありがとうございました。それでは失礼します」と足早に去っていった。去っていく夕真くんのポケットは膨らんでいて、そこにカプセルトイが入っていることは一目瞭然だった。
注意しそびれてしまった。
でもまあ、連絡帳にも書いたから大丈夫か。
うちの園では保護者との間で連絡帳をやりとりしていて、そこに毎日それぞれの園児たちの様子を書き込むようにしている。
お昼寝の時間に、夕真くんがカプセルトイを持ってきていることを書いておいた。家に帰ったらお母さんがその連絡帳の欄を見るはずである。だから、明日はきっと夕真くんもカプセルトイは持ってこないだろう。
ふう、と息を吐くとスマホの通知音がピロリンと鳴った。
夫からLINEだった。
【ごめん、今日やっぱり迎えに行けない】
「ええっ」
今日は仕事が夜までかかるから、十八時に娘の美奈の保育園のお迎えを夫に頼んでいた。が、今になって行けないと連絡が来た。さらにスマホを確認すると、十八時に娘の通っている保育園から着信が四回来ている。
「もう、なんでもっと早く連絡してくれないのよ」
つい愚痴がこぼれ落ちる。
夕真くんの家庭のことを心配している場合ではなかった。
私はダッシュで勤務先の保育園を離れ、美奈を迎えに奔走するのだった。




