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◾️花村美咲 2025年10月6日月曜日

 週が明けて、月曜日。

 先週は夕真くんのことで何かと神経疲れしていたが、土日には家族で水族館に行って、かなりリフレッシュすることができた。娘の美奈が大きな川魚を見てはしゃいでいるところを見ると、なんだかほっとさせられた。私の日常は家族が笑ってくれる日常だと改めて実感させてくれたから。


「おはようございます」


 朝十時に教室に入った私は、夕真くんがきちんと自分の席に座っているところを見てなぜだかほっとする。金曜日は家の用事で休んでおり、どういうわけか彼がそのまま消えてしまうんじゃないかという不安に駆られていたから。

 が、ほっと安心したのも一時のことだった。


「夕真くん!」


 園庭での自由遊びの時間に、どこからともなく綾瀬先生の鋭い声が飛んできてはっと振り返る。綾瀬先生は、砂場でしゃがみこむ夕真くんのそばで彼を見下ろしていた。

 どうしたんだろうと様子を窺っていると、夕真くんが砂でつくった山から見慣れた人形を取り出すのを目にした。

 瞬間、背筋が底知れぬ恐怖に粟立つ。

 なに……なんで……?

 私は慌てて彼のところに駆け寄った。「どうしてまた持ってきたの!?」と半狂乱になって叫ぶ。本当は冷静に聞かなくちゃいけない場面なのに、頭が真っ白になってしまっていた。


「ママが持っていっていいって言ったから」


「ママが……?」


「うん」


 夕真くんは私と目を合わせない。


「ほ、本当にママがいいって言ったの……?」


「そうだよ。これを持っていたらずっとママと一緒にいられるからって」


「そんな」


 信じられなかった。だって、前回夕真くんのお母さんに会った際に直接注意をした。夕真くんのお母さんは心底申し訳なさそうに謝って「持ってこないように注意します」と言ってくれたじゃないか。あのひとが、嘘をつくようには見えない。


「ずっとさみしかったけど今日からさみしくないんだ」


 砂と人形を両手で弄びながら、夕真くんがうっとりとした表情でつぶやく。その目はしっかりと人形の目を見つめていた。人形のほうも、夕真くんのことをじっと見ているようで、思わず「ひっ」と小さな悲鳴が漏れた。


「ぼくはずっとママといるんだ」


 そもそも普段からおとなしく口数の少ない夕真くんが、こんなふうに連続で喋っているところを初めて目にした。私は綾瀬先生と目を合わせて、困惑気味に「どうしましょう」と尋ねる。

 綾瀬先生はそっとしゃがみ込み、夕真くんに話しかけた。


「ママと一緒にいるんだね。よかったね」


「うん!」


 もう、無理やり人形を取り上げるのは諦めたらしい。「みんなにバレないように教室に行こうか」とささやく。そのまま彼女は、人形を握りしめてきらきらと瞳を輝かせる彼とともに、なのはな組の教室へと戻っていった。


 昼寝の時間のあと、教室に戻ると歩美ちゃんが「カプセルトイが動いたの!」と綾瀬先生に一生懸命訴えているところを目撃した。綾瀬先生はほとほと困り果てた様子で「見間違いだよ」と歩美ちゃんに伝える。でも、歩美ちゃんは納得いかない様子だった。そのうち他の子も「ぼくも動いてるところを見た」と言い出して、教室の中は大パニックに。私と目が合った綾瀬先生は表情をこわばらせた後、「実は私も見たのよ」とそっと教えてくれた。


「見たって……何をですか?」


「カプセルトイの人形が動いてるところ。寝てるみんなの様子を見にきたら、夕真くんの近くで人形が立ったり座ったりしてて……」


「えっ」


「もちろん見間違いだって思ったけど、他にも見たって子がいるからびっくりしちゃって……」


「それは……さすがになんというか」


 子どもだけならまだしも、綾瀬先生までおかしなことを言い出す始末で、私は何が何だか頭が混乱していた。


「とにかく今日、また灰谷さんに伝えておいてくれないかしら。私は先に上がるから、お迎えに来た時にでも」


「わ、分かりました。伝えておきます……」


 十八時半ごろ、他の園児たちが順調に降園していき、いつものように夕真くんだけが「預かり室」に残された。夕真くんはずっとひとりで人形で遊んでおり、私はつい疲れが溜まっていることもあり、片付けをしつつも、うつらうつらと意識が途切れかけていた。

 そのときふと、小さな声が耳をかすめた。


——……ト、イッショ。


 はっとして眠気が吹き飛ぶ。夕真くんが喋りかけたのかと思ったが、さっきの声は明らかに女のひとの声だった。それも、大人の女性の声。急激に寒気を覚えて両手で自分の身体をかき抱く。


「ゆ、夕真くん、今何か喋った……?」


 私の言葉に、振り返った夕真くんは首を傾げる。


「しゃべったのはたぶんママだよ」


「ママ……?」


 またしても、ママ。

 いったいどういうこと……?

 分からない。分からない上に、夕真くんのことさえ、不気味な存在に思えてくる。彼の手の中にある人形がじっとこちらを見ている。心なしか、ちょっとずつ人形の大きさが大きくなっているような気がしてさらにぶるりと身体を震わせた。


「こんばんは」


 呆然としてしまって固まっている間に、「預かり室」の扉が開かれて、夕真くんのお母さんが迎えに来た。十八時四十五分。いつもよりだいぶ早いお迎えに、思わず身構えた。


「こ、こんばんは」


「ママ」


 いつもなら母親に飛びついていく夕真くんだったが、今日はどこか余裕のある構えで「おかえり」とお母さんに笑いかけた。対する夕真くんのお母さんは、どことなく機械的な笑みと声色で「ただいま」と答える。いつも仕事帰りでお疲れの様子だが、今日はどういうわけか元気そうだ。さらに、彼女の身長がやっぱり小さく見えて両目をゴシゴシと擦る。


「灰谷さん、あの」


「それでは先生、さようなら」


 今日の夕真くんの様子を伝えようと呼び止めても、彼女は振り返ることなくすたすたと歩き去っていく。隣を歩く夕真くんの背中もぴんと伸びていて、なんだか軍隊のような二人だと感じてしまった。


「もう……なんなの」


 この間は急に休んだかと思えば、今日また人形を持ってきて、しかも謝りもしないなんて。一体何がどうなっているのだ——とやっぱり頭の中がぐちゃぐちゃになる。


「あれ?」


 気疲れを感じつつ、夕真くんのいなくなった「預かり室」の部屋の電気を消そうとしたときだ。彼のカプセルトイの人形が部屋の中に置き去りにされていることに気づいた。

 あれだけ肌身離さず持っていた人形を、夕真くんが忘れるなんてことがあるのか……。

 一度職員室に持ち帰って保管しておこうかと迷ったが、そのときふと、妙なことを思いついてしまった。

 この人形を、一晩ここに置いておくのはどうだろうか?

 確か、職員室に今は使っていない「見守りカメラ」がある。小さな子どもを遠くからでも監視できるようにするための室内用のカメラだ。あれを使って、夜、人形の様子を撮影する。昼寝の時間に人形が動いたという証言が相次いで、ずっと気になっていた。それに、さっきの声も……。

 ひょっとしたらこの人形が声を発したのではないかとどこかで思っていた。

 職員室に戻った私は、園長の目を盗んで見守りカメラを持ち出した。あとでバレたらきっとかなり叱られるだろう。でも今はそんなことよりも、あの薄気味の悪い人形のことが気になって仕方がなかったのだ。


「預かり室」の棚の上にカメラを設置し、人形はそのまま転がしておいた。念のため、現状の写真をスマホのカメラに残しておく。

 明日は朝イチのシフトだから、早めに来てカメラを回収しておこう……。

 そう決意して、そっと「預かり室」を後にした。



——イッショ……ニ……イコウ。

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