第五十三話 自分を重ねて
騎士団の駐屯地を後にし、宿へと戻ってきたシエステラたちの空気は重かった。
シエステラはずっと俯いたままで、一言も発しない。聖女としての鉄壁の仮面は剥がれ落ち、ただ一人の少女として項垂れていた。
フィーラはそんな主人の様子を静かに見やりながらも、声をかけることなく、淡々と荷物の整理を進めている。
喧嘩をしているわけではない。しかし、底なしの沼のように澱んだ二人の間で、ニコラは今までにない強烈な居心地の悪さを感じていた。
騎士団での会議の後、ヘイムとフィーラは二人だけで部屋に残り、何か会話を交わしていた。
その内容はシエステラとニコラには届かなかったが、今回の件に関する、何か重大な事柄であるのは明白だった。
シエステラは視線だけを上げ、フィーラの方を窺う。何かを言おうとわずかに唇を開いたが、その試みは、無音のまま消えた。
ニコラはしばらくこの重い光景を耐えるしかなかったが、やがて呼吸が苦しくなり、堪えきれなくなったように口を開いた。
「あ、あのさ。シエステラ」
「……はい」
いつものシエステラとは思えない、か細い返事にニコラはまず驚愕した。
どんな窮地でも、理想的な聖女の姿を崩さなかったシエステラが、ここまで憔悴しきった姿を見せるのは初めてだ。
ニコラは躊躇しながらも、空気を変えるために必死に話題を探し出した。
「その、元気か?」
「……はい」
空気がさらに重くなった。主にフィーラの方から漂ってくる圧が重くなったように感じた。
ゾワッと背中に悪寒が走り、ニコラは慌てて他の話題を切り出す。
「コ、コットンは、何処に行ったんだろうな?」
「……そう、ですね」
もはや空気に押し潰されそうだった。フィーラは二人に視線を向けていないが、その背中から、有無を言わせぬ禍々しいオーラが静かに流れ出ているように感じた。
これも間違いだったかと、ニコラは再度、呼吸を整えて、核心に触れる質問を切り出した。
「シ、シエステラは、どうしてそんなに、コットンのことを庇おうとするんだ?」
それは、ただ空気を変えるための話題ではなく、ニコラがずっと聞きたかった、心底の疑問だった。
シエステラは返事をせず、一拍。そして、まるで意を決したように、ゆっくりと顔を上げた。
その無表情は、ニコラにはほんの少しだけ、泣き出しそうに見えた。
シエステラは少しだけ躊躇したように目をそらした後、諦めたように口を開く。
「こんな失態を見せておいて、正直に言わないのは、最低ですよね」
一度目を閉じ、大きく息を吸い込む。
「コットンさんは、私の幼い頃にそっくりなんですよ」
「シエステラの幼い頃?」
ニコラは思わず聞き返した。
シエステラの人生が、自分が想像もできないほど特別なものであることは分かっていた。だからこそ、過去に深入りすることは避けていたのだ。
しかし、今、シエステラは自ら、その重い過去を語り始めた。
「私は聖女として、生まれた瞬間から聖女であれと育てられてきました。そのことを恨んだことはありませんが、辛いと思ったことはありました」
シエステラの語りをニコラは黙って聞く。
気付けばフィーラも、片付けをしていた手を止めて、シエステラの話に耳を傾けていた。
「当時のことは、全て記憶しています。私は聖女であるために、自分の心を殺しました。それはあってはならないものだと思って。実際、そう教えられてきましたから」
シエステラが語るのは、聖女としての使命。
聖女とは、女神様の生まれ変わりであると同時に、いつか女神が復活する時の依代となる者。
そして、女神様の依代となるためには、個人の意思など無用。ただ、聖女として生きていくことだけに集中する。
そのため歴代の聖女は、全員が同じ思考を持ち、全員が同じ行動を取れるように教育をされている。
「私もまた、聖女としてのシエステラを持ち、生まれ持った私は消えました」
自分を「消えた」と語るシエステラの瞳は、たしかに、コットンが見せていた、あの虚ろな人形のような目をしていた。
「世界には色はなくて、色を感じる必要なんてなくて、ただ私は、聖女が感じる世界さえ見えればいい。見えなくても、演じればいい。そう思っていました」
しかし、それはフィーラの方を見ると、その目はいつもの暖かみのある色へと変わった。
「ですが私は、フィーラと出会ってから、世界にある色を、自分も見ていいんだと思ったのです」
シエステラとフィーラの関係が単なる主従ではないことは分かっていたが、その絆が、これほど深く、そして長い過去から繋がっているものだと改めて知り、ニコラは言葉を失った。
「だから、コットンにも、そのことを知ってほしかったのか?」
「……はい」
シエステラは不安そうに頷いた。
「コットンさんは私と同じように自分を殺した。誰かの理想のために。私はこの使命に誇りを持っています。ですが恐らく、コットンさんは違うでしょう」
シエステラの瞳に悔しさの炎が宿ったように見えた。しかし、その炎もすぐに消えてしまう。
「私は、聖女として、コットンを救いたかった。でもそれは、聖女として、ではなく、自分自身のエゴでしかなかったのかもしれません」
自嘲気味に口を結び、溜め息を漏らす。
「私のエゴで、騎士団の方々には迷惑をかけてしまいました。そしてそれに、フィーラまでも巻き込んでしまって。これでは私は聖女として……」
言葉の先を紡げず、シエステラは口を固く閉ざした。
シエステラの思いに触れ、ニコラは何とも言えない気持ちになった。今回の行動が、結果的に騎士団にとって面倒な事態を招いたのは事実だ。最初から報告していれば、今回の事件はもっと早く解決したかもしれない。
しかし。
(それをしないのが、やっぱりシエステラなんだよな)
コットンの事情を察しながら、何もせずに騎士団へ差し出すことは、ニコラが知る「シエステラ」らしくないと感じてしまったのだ。
それが、短い期間だが、ニコラが今まで見てきたシエステラの印象だった。
「シエステラのそれは、エゴかもしれないけど。聖女としては、間違ってないんじゃないか?」
「……え?」
シエステラはまるで迷子の子供のように戸惑っている。あまり見ない態度のシエステラに、ニコラは少しだけドキッとしてしまった。
ニコラはそんな邪な気持ちを振り払うように頭を軽く振る。フィーラの突き刺すような視線を背中に感じながら。
「シ、シエステラは、コットンを救おうとしたんだろ? それに黙ってはいたけど、別にそれで被害が拡大したわけじゃない」
「ヘカティア様が傷を負いました」
「そ、れは、まあ。でも、今回の作戦で無傷で終わるとは思ってなかったはずだ」
一瞬怯みながらも、ニコラは確信を込めて言う。
「騎士団だって、それは覚悟の上だ。シエステラは裏切ったわけじゃない。確かに少し、撹乱してしまったかもしれないけど、それは俺たち全員のミスだ」
「そんなことは……」
なおもシエステラは自信の責任を口にする。しかしそれを遮るようにニコラが言った。
「私たちは旅を共にする仲間です。例えどんなことがあったとしても、それを誰か一人の責任にするべきではありません。みんなで乗り越えていきましょう」
「っ!」
その言葉に、シエステラは聞き覚えがあった。
「旅が始まった時、シエステラが言ってくれた言葉だろう? あれはシエステラだけの話じゃなくて、全員の話だろう?」
シエステラは目を泳がせる。まだ、ニコラの言葉を受け入れることができないかのようだ。
「ですが、実際に迷惑をかけたのは、私で」
「シエステラ様。それは違います」
そこでフィーラが重い口を開いた。
「シエステラ様は聖女様として、コットンさんを救うために、でき得る限りの慈悲を与えていたに過ぎません」
フィーラはゆったりとシエステラに近づく。
「かつて自分の命を狙っていた者であろうとも、ご慈悲を与えるのは、シエステラ様の美徳であって、欠点ではありません」
「ですが、そのせいでフィーラにも迷惑を……」
「私はシエステラ様のお付きの神官です。もし、シエステラ様が聖女として間違った行動を起こしたのなら、諌めるのは私の仕事です」
フィーラの強い眼差しが、シエステラを射貫いた。目をそらそうとするシエステラの頬を両手で掴み、強引に顔を正面に向かせる。そして、そのまま頬を軽くつねった。
「シーラが最初にコットンさんを保護した時から、こうした事態が起き得ることは想定していました。私はその上で咎めなかったのです。その理由がわかりますか?」
シエステラは頬を引っ張られながら、少しだけ考えた後、首を横に振った。
「シーラの行動が聖女として正しいと思ったからです。そして、それによって起こる問題の責任を持つのは、神官長である私ですから」
フィーラは優しく微笑んだ。
そんなフィーラにシエステラは微かに目じりに涙を浮かべた。
「シーラは自分が正しいと思ったことをしてください。そしてそれに誇りを持ってください。それが聖女としてのあなたの使命です。もし、間違っていたのなら、私が必ず止めますから」
「……はい。ありがとうございます。フィーラ。ニコラ様も」
そうしてやっとシエステラは、振り切れたように笑ったのだった。
◇◇◇◇◇◇
「それに、今回の件は、少し闇が深い問題があると感じました」
シエステラが落ち着いた頃、神妙な表情で言うのはフィーラだった。
「闇が深い? どういうことですか?」
すっかりいつもの調子を取り戻したシエステラが尋ねる。
フィーラは軽く回りを見渡した後、シエステラとニコラを手招きに近くに顔を寄せて、小さな声で言った。
「騎士団内部に裏切り者がいる可能性があります」




