第三話 聖女の権力
あの前代未聞の事件から、シエステラはまる二日寝込んでしまった。
聖女が力の使いすぎにより意識不明に陥ったなどという不名誉な事実を表に出さないよう、その情報は厳重に秘匿されていた。
しかし、その騒動の原因となったニコラは、国の騎士団に大罪人として拘束されてしまう。
ようやく意識を取り戻したシエステラは、神官からニコラの窮状を聞かされ、思わずこめかみを抑えた。
(これもまた、スキルの影響ということでしょうか。いえ、そうなのでしょう。腹立たしいですが、私の加護が全く効いていないということなのでしょうね)
シエステラは、衝動のままに振り上げかけた拳を、辛うじて聖女としての矜持と理性で制止する。しかし、心の奥底で燃え盛る苛立ちは消せなかった。
彼女の網膜には、あの時の光景が何度も再生される。聖女の絶対的な力が、スキルという下位の力にあっけなく屈した現実。その痛烈な敗北は、彼女の頭から一時も離れなかった。
「シエステラ様。大丈夫ですか?」
それから少しして、フィーラが白湯を持って部屋に入ってくる。
「ありがとうございます、フィーラ。ニコラ様はどうなったのですか?」
ようやく冷静さの欠片を取り戻し、シエステラは最も気がかりなことを尋ねた。
すると、フィーラは不都合な事実を伝えなければならないことに戸惑いながら、その内容を告げる。
「ニコラ様はシエステラ様に危害を加えた大罪人として、三日後に処刑が決まりました」
「っ! そんな、性急な!」
思わず声を荒らげたが、シエステラ自身、世界の冷徹な理を理解していた。
彼女は聖女。この世界のヒエラルキーの頂点に立つ絶対的な存在だ。たとえニコラが勇者候補であろうと、聖女を傷付けたという罪は、極刑以外で収まるはずがないのだ。
「事情は説明したのですが、信じてもらえず。申し訳ありません」
それもまた仕方のないことだった。
今までシエステラは、何一つとして失敗したことはない。少なくとも公式な記録において、シエステラが何かを失敗したことはなかった。
そんなシエステラが、『スキルの効果を打ち消すために力を使いすぎて意識を失ってしまった』。しかも、『効果を打ち消すことにも失敗している』。なんて信じられるわけがなかった。
フィーラの言葉が、ニコラを庇うための出任せだと思われてしまうのは無理もなかった。
(ですが、今回のことは完全に私のミス。それなのに、その責任をすべてニコラに被せるなんて、聖女としてあるまじき行為)
「すぐに国王に会いに行きましょう」
この早すぎる処刑劇を止められるのは、国の最高権力者である国王しかいない。幸い、聖女という圧倒的な立場のおかげで、謁見はいつでも可能だ。
「はい。 シエステラ様なら絶対にそう仰ると思って、すでに面会の段取りは済ませてあります」
「流石ですね、フィーラは仕事が早い」
シエステラが褒めると、フィーラはだらしなく溶けた笑顔になった。
「いやぁ、ふふふ。もちろん、私はシエステラ様のことなら、なんでもわかりますから」
フィーラの公の場では絶対見せられない、ファン心理丸出しのデレ顔は、とりあえず華麗にスルーする。今は時間が命だ。シエステラは早速、謁見のための準備に取り掛かった。
◇◇◇◇◇◇
「つまり、シエステラよ。此度の件、なかったことにせよ、と申すのか?」
「はい、その通りです。あの出来事は私の失敗。ニコラ様には何の非もないのですから」
国王エルガの元へ参上したシエステラたちは、重厚な石造りの部屋に通された。
そこは、一国の命運に関わるような極秘事項を扱うための秘密の会談室。護衛は最小限、防音性は棺桶より完璧だ。
「簡単に言ってくれるが、此度の件がどれだけ大事になっているかわかっているのか?」
「えぇ、わかっています。だから態々私が直接ここまで来たのですから」
「うぅむ」
エルガは頭が痛むのか、眉間に指を当てて嘆きの溜息を漏らした。
「頭が痛いのですか?」
「あぁ、誰かさんのせいでな」
「まあ、それは大変です。私が治してあげましょうか?」
「結構! そのままでいてくれ」
エルガは疲れた様子で項垂れる。それから静かに口を開いた。
「シエステラよ。此度の件、何事もなく原因となった男を無罪とすることはできぬ」
「えぇ? 何故ですか? 私がこんなに頼んでいるというのに」
エルガはもう耐えきれず、叫びながら、シエステラの行動を指差した。
「一度も頭を下げずに、優雅にお茶を啜っている姿のどこが真剣に頼んでいる態度なのだ!」
エルガの痛烈な訴えも、シエステラにはまったく響かない。
「え? だって、私、聖女ですし。それに、口が寂しいですし。ポリポリ」
「せめて、菓子を食うのをやめよ」
エルガの虚しい言葉にも、シエステラは全く耳を貸す気配がない。
エルガはチラリとフィーラを見たが、フィーラは聖女のティーカップを完璧な角度で配置するのに夢中で、口を挟む気配はゼロだ。
これ以上言っても無駄と悟ったエルガは、諦念を滲ませながら話を続けた。
「今の状況でどうして、あの男を無罪にできると思っているのだ」
「国王。私は別に冗談を言ってるわけではないのです。今回のことは全面的に私に責任があります。それを他人に擦り付けたような形になるのは聖女としての品格が落ちるのです。バリボリ」
「煎餅の砕ける音を出しながら喋る方が、遥かに品格が落ちると思うがね!」
エルガは、本日二度目の深い溜息を、喉の奥から絞り出した。
「まあ、言いたいことはわかった。しかし、それでは民衆の気持ちが収まらぬ」
「そこをなんとかするのが、あなたの仕事ですよね?」
天使のような無垢な笑顔で言い切るシエステラに、エルガは天を仰ぎ見た。その視線は、私は一体、何の罰を受けているのかと問いかけているようだった。
もちろん、シエステラがここまで我が物顔でいられるのには、宗教的権威という強固な理由がある。表面上、国王と教皇は同格だが、聖女神教を統括する教皇の権力は王権を遥かに凌駕する。
そして聖女は、その教皇に匹敵する発言力を持つ女神の代理なのだ。
もちろん、聖女が好き勝手なことを言うのは外聞がよろしくないため、普段は表向きとしては、各国の相談を受ける役をやっている。
だが、このエルミ王国のエルガ王とは、シエステラの幼い頃から知る関係。表向きの建前など、煎餅のカスよりも重要視されない図々しい間柄に発展している。常に胃を痛めているのは、国王のエルガの方だ。
エルガはシエステラを一瞥し、本日三度目の、悟りの境地に達したかのような溜息を吐いた。
(こんな美しい少女のような姿をしていても、彼女の一言口で、国は瓦解する。誠に迷惑な力よ)
それからエルガは、眉間にシワを寄せたまま口を開いた。
「わかった。しばしの猶予を与えよう」
「猶予、ですか?」
シエステラは、期待と違う回答に、子供のように頬を膨らませた。しかし、エルガはそれを完全無視して続けた。
「そうだ。今回の件、巷では様々な憶測が流れているが、まだ公にはなっていない。もう少しくらいなら情報を隠しておくことはできるだろう。だが、いつまでも隠しておくことはできない」
そこまで聞いて、シエステラもエルガの言葉の意味を理解した。
「なるほど。その間に、ニコラ様の判決が覆るような何かを成し遂げろということですね?」
「そういうことだ」
ニコラの罪が決まるのは、裁判所における判決が出た時。今はまだニコラは取り調べのための拘束をされているだけ。
国王権限で、裁判の予定を多少引き延ばすことは可能だ。
「それが最大の譲歩だ」
「ふふ、癒着とは腐敗してますね」
「誰のためだと……」
「えぇ、わかっていますよ。それで十分です。あとはこちらで考えましょう」
悪戯っ子のような笑みを浮かべるシエステラを見て、エルガは気が抜かれてしまった。
我が儘ばかり言うシエステラだが、どうしても憎みきれないのは、昔からシエステラを知っているせいだろう。彼女の生い立ちを。
「して、挽回するための策はあるのか?」
「もちろん。そのためにもう一つ、国王にお願いがあるのですが」
「まだあるのか」
エルガは、ついに本日四度目、限界を突破した溜息を、絶望的に漏らすのだった。




