第二十九話 不運の極みが窮地を救う
「シエステラァァァァ!」
「……え?」
しかし、目の前に広がる深淵の闇に目を瞑っていたシエステラの耳に、暖かな叫びが響いた。
驚き、目を開くと、そこにいたのは、
「ニコラ様!」
霞んでいたはずの視界の先に、はっきりと見えたのは、何故か上半身裸のニコラだった。
ニコラは土煙の中に立ち、魔神の攻撃を一身に受け止めている。
「ぐ、うぅぅおぉぉぁぉ!」
ニコラの身体から血管が浮き上がり、皮膚から悲鳴が上がる。以前にモーギュウを受け止めた時とは比較にならない破壊的な衝撃波を、ニコラはただその身体で受け止めていた。
両足で地面を深く抉り、歯を食い縛って踏ん張り、ニコラはただシエステラを守り続ける。
そして、力の源流を無理やり持ち上げ、上方向へと逸らした。
「うらぁぁぁぁ!」
空高く弾き上げたニコラは、全身の力を使い果たしたようにその場に尻餅を付いた。
「な、何ぃ!」
男たちは驚愕に顔を歪める。
魔神ですらも、表情を変えないながら、呆気に取られたようにニコラを睨んでいた。
「く、は……、ま、間に合ったぁ」
「ニ、ニコラ様? ど、どうしてここに?」
状況が理解できず、シエステラは虚ろに尋ねる。すると、ニコラは一瞬、安心させるように笑った後、すぐにそれが苦笑いに変わった。
「あー、助けに来たんだけど、素直にそうも言えないんだよな」
「え?」
「グォォォォン!」
空を劈く獰猛な雄叫びが聞こえた。空には黒い影が浮かんでいる。空を飛ぶその姿は、はっきりとは見えないまでも、誰もが簡単に予想できた。
「ブラック、ドラゴン?」
「あー、シエステラの結界がいきなり消えてさ。町に魔物が攻めてきたんだよ。絶対に俺のせいだと思って、すぐに町から離れたらさ、いきなりブラックドラゴンが目の前に現れて、なんとか戦ってたら、ここまで吹き飛ばされて、そんで、シエステラが危ない状況だから、すぐに助けに来たんだ」
ニコラの説明はどう考えても不自然だった。一般的な感性を持つ者なら、そんな馬鹿な、と一笑に付しただろう。
しかし、それが事実であると、シエステラは深く納得することができた。
ここまで短期間に、ブラックドラゴンに遭遇するなんて、何処までも不運なニコラでしかあり得ないことなのだから。
しかし、ニコラの不運は奇しくもシエステラの窮地へと繋がった。その事実が、シエステラの心に一筋の光を灯す。
(女神様はまだ、私を見放していなかった。……当たり前ですよね。何せ私は、歴代最高の聖女なのですから)
シエステラの瞳に光が戻り、強い意志を宿してニコラの後ろに立つ。
「ニコラ様。あの人型の魔物は魔神と言って、驚異的な力を持ちます。ブラックドラゴンと魔神の相手は厳しいでしょう。ですが、少しだけ持ちこたえてください。そうすれば私も、この力の暴走を押さえ込むことができると思いますので」
「無茶を言うなぁ。でも、やるしかない、か」
シエステラの要求は無理難題もいいところだった。ブラックドラゴンも、魔神も、人という存在が単独で相手ができる次元ではない。
そんな二つの存在を一人で相手をしろなど、不運でしかない。しかし、その圧倒的な不運の中にも、一筋の光はある。
これ以上の不運などない状況で、人が一人増えるくらい、何の改善にもならないからだ。
「悪しき者を貫く光の一閃、ライトニング・スピアッ!」
雷鳴が轟き、地面から空へと一筋の雷が立ち上る。しかしそれは雷ではなく、光の力が凝縮された一本の槍だった。
それはブラックドラゴンの腹に命中し、貫かぬまでもブラックドラゴンを押し戻すだけの破壊力があった。
「グギャアァ!」
「なっ! 今度は何事だ!」
「シーラァァァァ!」
飛ぶように抱きついてきたのは、泣き腫らした顔をしたフィーラだった。
「あぁ、よかった。よかった。本当に」
「フ、フィーラ。痛いですよ」
シエステラは安堵の表情を浮かべる。痛がるシエステラに、フィーラは慌てて体を離した。
「も、申し訳ありません。シエステラ様」
フィーラはニコラの存在を思い出し、正気を取り戻す。しかし、シエステラは離れるフィーラの手を掴み、自分の体へと引き戻す。
「いいえ、いいのです。ありがとう。フィーラ」
「シ、シーラ? あ、あの胸が、ふひ、べ、別に私はいいのですが」
「……感動していたのに、最悪です」
シエステラは愛情を込めたジト目を向ける。その瞳には、誰よりも厚い信頼があった。
ニコラは魔神とブラックドラゴンを睨み、牽制している。すぐにでも襲いかかってきそうな二体に、フィーラは躊躇なくニコラの隣へと立つ。
「シエステラは大丈夫なのか?」
ニコラが心配そうに尋ねた。
「あまり良い状況ではありませんね。どうやら肉体の器の許容量を越えたようですから」
「それって!」
ニコラは驚愕する。聖女の抱える運命の重さに心が締め付けられそうになるが、シエステラは静かに呼吸を整えていた。その姿は、ニコラに絶対の信頼を求めていた。
『少しだけ持ちこたえてください。そうすれば私も、この力の暴走を押さえ込むことができると思いますので』
ニコラはシエステラを信じ、魔神を見る。フィーラもニコラの様子を確認して、ブラックドラゴンを見据えた。
「今は目の前の敵に集中しましょう。流石に私一人では難しそうですから」
「あぁ、わかった。二人でシエステラを守ろう」
二人の思いは同じだった。
シエステラを守る。その思いに繋がった二人は、今この瞬間だけは、誰よりも固い絆で繋がっていた。
「はあぁぁぁ!」
フィーラは槍を全霊で振りかぶる。ブラックドラゴンに狙いを定め、光の線が空を貫いた。狙いは翼。だが、ブラックドラゴンはそれをまるで遊びのように避けてしまう。
ブラックドラゴンは、武器を失くしたフィーラに邪悪な視線を向けた。
しかし、フィーラは指をクルリと優雅に翻すと、魔法の制御下にある槍が、今度はブラックドラゴンの頭上から降り注いだ。
「ゴァッ!」
脳天に鋭く突き立てられる槍に、ブラックドラゴンは苦痛の呻きを上げる。
「落ち、ろぉぉ!」
「グォォォォ!」
槍の勢いは留まることを知らず、ブラックドラゴンを地面へと叩き落とされる。
「ググゥゥン」
「……まったく。傷一つ付いてませんか」
無傷のブラックドラゴンは、まるで鬱陶しい虫を払うかのように頭を振る。ただそれだけで、フィーラの攻撃の余韻は完全に消えてしまった。
フィーラは歯噛みする。それでも攻撃の手は緩めない。ブラックドラゴンの注目を自分に釘付けにするため。
「ふっ!」
ニコラの剣が魔神と火花を散らす。しかし、魔神の鋼鉄の体躯は、ニコラの剣を物ともしない。全力を乗せた振りかぶりも、先に剣の方が悲鳴を上げて限界に達しそうだった。
それでもニコラは攻撃の手を緩めない。魔神の動きを少しでも制限するために。
(正直、今の手持ちの武器じゃ、こいつらには歯が立たない)
実力の差以前にニコラたちは準備不足だった。魔王の力を宿す魔神とブラックドラゴンを相手にするには、武器も防具も何もかもが不足していた。
ニコラに至っては上半身が裸だが。
しかし、二人の思考は一致していた。
(シエステラが復活さえすれば!)
(この状況を覆せる!)
フィーラとニコラは圧倒的な実力差に打ちひしがれそうになりながらも、シエステラの回復という一点の希望だけを掲げて戦い続けた。
それは、何も知らない者から見れば、ただの苦し紛れの抵抗にしか見えなかっただろう。ルシフル教団の男たちも、フィーラたちのことをそんな目でしか見えていなかった。
「くくく、もはや奴等の命運もここまでだ」
ブラックドラゴン、魔神。二つの強大な力の前には、ただの人間など塵芥でしかない。
そしてその認識は、概ね間違っていない。
むしろこれだけの時間、フィーラとニコラが生きている方が奇跡だ。
魔神が足を前に出す。その一歩で空間を圧縮したかのようにニコラの目の前に瞬間移動した。
咄嗟に、ニコラは折れる寸前の剣を振り抜く。しかし、限界を超えた剣は魔神の鋼鉄な体躯に触れた瞬間、甲高い金属音と共に真っ二つに砕け散った。
折れて飛び散った剣の先端は、凄まじい勢いで近くの巨木に深々と突き刺さり、その衝撃で木が裂けるような音を立ててニコラの頭上へ倒れ込んでくる。
「うおわっ!」
それはまるで狙われた不運。ニコラは寸前で真横に跳び、回避する。
だが、その無駄な動きのせいで魔神の無慈悲な回し蹴りを無防備な腹に食らってしまった。
「がはっ!」
ニコラは遥か彼方へ吹き飛ばされてしまう。何度もバウンドして、四肢はあらぬ方向へと折れ曲がっていた。
ニコラは呻きながらもなんとか起き上がり、ゴキゴキッと曲がった腕を力任せに治した。かなりの荒療治だが、ニコラにはそれで十分。
「まだまだぁ!」
武器を失ったニコラは、その身一つ、剥き出しの闘志だけで魔神に再戦を挑む。
武器を失ったニコラは、ただその身のみで魔神に立ち向かう。右、左の拳を振り抜き、魔神を殴る。己の力を全力で乗せた一撃は、先ほどの剣よりかは魔神に、効いているようだった。
その横でフィーラが軽やかに跳躍する。
ブラックドラゴンに上空へ逃げる隙を与えないよう、彼女は重力に逆らうかのように、高い位置からその巨頭へと向かった。
「食らえっ! 雷光脚!」
空中でグルグルと高速回転し、魔法により雷のような光を纏った一撃を、渾身のかかと落としとしてブラックドラゴンの頭蓋に叩き込む。
しかし、ブラックドラゴンは煩わしそうに、ただ首を振っただけだった。
ブラックドラゴンにとってフィーラの攻撃は、チマチマと針を刺すような、苛立ちを募らせるだけの邪魔でしかなかったのだろう。
「グォォォォォン!」
ブラックドラゴンは空気を震わす咆哮を放った。ビリビリとした空気の波がフィーラを包み込み、肉体の自由を奪う金縛りのように彼女を固まらせる。
ブラックドラゴンはフィーラを丸ごと飲み込もうと、その邪悪な口を広げた
「くっ!」
辛うじて避けたフィーラの服が破ける。足の辺りが大胆に裂けて、風に晒された白い素肌が露になった。
そうして、ニコラとフィーラは少しずつ追い込まれていく。しかし、二人の表情に焦燥はなかった。その瞳に浮かんでいるのは確実な勝利。
静かに佇むシエステラの、覚醒だった。




