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第二十七話 魔王の気配

 シエステラが向かったのはノールの森だった。


 つい先日訪れたばかりなのに、ノールの森は、その時の印象から、大分異質な空間へと変貌していた。


 魔物がいない。動物がいない。風もない。木々のさざ波もない。およそ生気と言えるようなものを微塵も感じられない。


 まるで死んだかのように、時が止まったかのように、異様な雰囲気。


 感じたことのない重圧に、シエステラは警戒しながら歩を進める。


(何も感じられない。いえ、違いますね。何かは、確かにいます)


 何も感じられないはずなのに、肌が粟立つようなプレッシャーを感じる。


 それは、一種の恐怖に近かった。

 歴代最高の聖女であるシエステラだからこそ、冷静でいられるほどの圧倒的な威圧感。


 シエステラはそれが発せられる源へ、慎重に進んでいく。


 そして、以前にシエステラとニコラが落ちた大きな穴の辺りまで辿り着くと、その異様な気配がさらに深みを増した。


「います。でも、見えない。どうやら完全に私を標的として設定したようですね」


 値踏みするような冷たい視線を感じる。

 シエステラは静かに深呼吸をして、全身の感覚を研ぎ澄ませた。


(この前のブラックドラゴンよりも濃厚な瘴気。こんな魔物、教会の書物にも、記録がありません)


 シエステラは微かに冷や汗を流す。それは聖女としてこの世に生を受けてから、初めて感じる感情だった。


(やれる。私なら、一人でも)


 シエステラは右手に意識を集中させると、目映い光が溢れ、聖なる力を凝縮した一つの光の剣を形作った。


 シエステラの戦闘態勢が整った。

 それを待っていたかのように、獰猛な雄叫びが静寂を破る。


「オオオォォォォ!」


 シエステラの目の前に現れたのは、人型の姿をした、人間ではない何かだった。


 真っ黒な体躯。おぞましく血のように紅い目。人間ではあり得ない鋭利な爪。そして何より、世界を覆い尽くすかのような圧倒的な瘴気。

 それは、魔物と表現するのも憚られるような不気味な存在だった。


(何? 魔物? 確かに人型の魔物は少ないですが、それにしたって、この異様な雰囲気は常軌を逸している)


 黒い「何か」はシエステラに向かって、その禍々しい紅い目を向けた。


 シエステラが光の剣を前に構えたその瞬間、鋭い爪がシエステラに獣のように襲いかかる。


「くっ! 速い!」


 辛うじて剣で受け止めたシエステラだったが、あまりに重い一撃に体勢を崩した。二撃目、三撃目をなんとか紙一重でかわすも、片膝をついたシエステラの顔面を、黒い「何か」は容赦なく蹴り飛ばした。


「うっ」


 軽く呻き声を上げるシエステラは、頭を振って散りかけた意識を強制的にここへ戻す。


(危なかった。聖女の加護があっても、これだけの威力。気を付けなければ)


 シエステラはもう一度剣を構える。だが、


「っ! これは、まずいっ!」


 ゾクッとするようなおぞましい気配を感じて、シエステラは魔神から離れる。


 黒い「何か」は口を大きく広げ、そこから真っ黒な破壊の光線を放った。


 受けることなく避ける選択をしたシエステラの背中には、木々が跡形もなく消え去った、広大な焼け野原が広がっていた。


 町一つを軽く消し去るほどの絶大な威力に、シエステラは戦慄する。


(これだけの威力。やはり異常です)


 シエステラの頬に微かに血が滲む。


 掠っただけでシエステラを守る聖女の加護を貫通した一撃は、シエステラが生きてきた中で、最も強力な一撃だった。


 しかし、黒い「何か」はシエステラを狙いながらも、どこか動きがたどたどしい。


 まだ身体を上手く使いこなせていないような、無理やり動かしているような、不自然な違和感がある。


(まるで、生まれたての子供のような、力のままの行動。魔物なら、それもありえます、が)


 不自然な動きから、シエステラは眉根をひそめて辺りを見回した。すると、魔物の圧倒的な重圧に紛れて、何者かの生きた気配を感じ取った。


 シエステラはそこへ魔法を放つ。


 木々の間を抜けていった魔法が炸裂する。何かに当たった感触はあった。確かな手応えではなかったが。


 そして、そこから三人の人影が現れた。


「ふはは、流石は聖女様だ。魔神様を相手にしながら、我々に気付くとは」

「あなた方は、ルシフル教団の皆様ですか」


 下卑た笑みを向ける男たち。それこそが質問への冷徹な答えだった。声の様子からかなり老齢のようだ。


「その答えを知ったところで意味はない」

「あぁ、貴様はもう死ぬのだからな」


 しゃがれた声の男たちはシエステラを獰猛に見据える。その顔を伺い知ることはできなかったが、自分の身に向けられる視線にシエステラはヒヤリとした。


「魔神、とは?」


 あらゆる書物を読み、知識を深めたシエステラですら、「魔神」という言葉には聞き覚えがなかった。


 男たちは、今も言うことの効かない身体を無理やり動かそうとしているような不気味な何かに向かって膝をつく。


 まるで神を崇めるかのように。


「魔神様は、魔王様の片鱗」

「魔王の片鱗?」


 シエステラは一気に警戒を強めた。

 聖女にとって、魔王は宿命の敵。


 その力が宿るというだけで、シエステラが身構えるのも自然だった。


「忌まわしくも神を名乗ったシエステラは、魔王様を封印した。魔王様の力は散り散りになり、この世界に封印されているのだ」

「っ! なら、この魔神というのは!」

「そう、魔神とは、封印された魔王様のお力の一部が具現化した、いわば魔王様の片鱗なのだ!」


 シエステラの心臓は慌ただしく跳ねた。魔王の復活が、その始まりが、まさに目の前で起こってしまったことを理解して。


「この、言い様のないプレッシャーは、魔王による力のせいなのですね」


 シエステラは合点がいった。

 ただの魔物であれば、シエステラがここまで緊張することなどあり得ない。


 本能的な部分で反応し、魔王の気配を警戒していたからこそ、シエステラは初めての恐怖を感じていたのだ。


 シエステラは男たちと「魔神」を視界に捉えながら、さらに尋ねる。


「この前のブラックドラゴンは、その前兆ですか」

「その通り。魔王様の力を感じたブラックドラゴンがこの場に舞い降りたのだ。我々はそれを知り、魔王様の力の復活を叶えるため、密かにここで研究していた」


 ここ数日間の事件を思い出し、シエステラは舌打ちをする。


 こんなにも近くに、おぞましい悪意が渦巻いていたことに気付けなかったことを悔やみながら。


「なるほど。魔神の召喚を邪魔されないように、ルーシィさんを誘拐して、神官の皆さんをここから遠ざけたというわけですね」

「その通りだ。あの娘の誘拐など、魔神様を復活させるための時間稼ぎでしかなかったのだ」


 男たちの嘲笑は、シエステラにとって堪えがたい屈辱だった。人々に笑みを向けられることはあっても、それらは全てシエステラを敬い、崇め、歓喜するものだ。


 こんな見下すようなものではない。


 シエステラは剣を握る手に力を込め、一瞬で表情を変える。目付きは鋭い殺意を帯び、男たちに向かい、苛立った声が空気を貫く。

 そこには、聖女の慈愛など微塵もなかった。


「私に用があるのなら直接現れればいいものを、ルーシィさんを巻き込むなんて」


 静かな怒りは空気を震わせる。

 今度は男たちが怯える番だった。


「な、なんだ、この威圧感は」

「くっ。これが、聖女の威光か。身体が、言うことを利かない」

「ま、魔神様。ど、どうか、聖女に鉄槌を」


 男の一人が手を両手を重ねると、それが合図のように魔神が動き出した。


 シエステラを狙った一撃は彼女の頚動脈を的確に狙う。

 しかし、ただ命を奪うということだけに特化した攻撃は、軌道を読むのに都合が良かった。


 シエステラの剣は、魔神の爪を狂いなく受け止める。

 細い腕で魔神の圧倒的な膂力を受け止めるのは、傍から見るとあり得ない光景だが、シエステラにとっては、さしたる難しさではなかった。


「強いのは認めましょう。私が戦いで緊張するなんて、今までで始めてですから。ですが」


 シエステラは一歩踏み出し、体重を魔神に預けて、その力を精妙にいなす。

 巨躯の魔神は、自らの力を逆手に取られ、呆気なく前のめりに体勢を崩した。その巨体が地面を重く揺らす。


 シエステラは追撃の手を緩めず、剣を横一閃。魔神の漆黒の体躯は浅く切り裂かれ、黒い筋が走った。


「流石に硬いですね」


 シエステラは微かに唇の端を歪める。それは焦燥ではなく、退屈を覚えかけた時の、面倒臭そうな表情だった。


 魔神はシエステラを仕留めんと、猛威の爪を雨のように浴びせる。

 しかし、それら悉くを、シエステラは最小限の動きで完璧に弾き返していく。


 もはや魔神の動きの全てが、シエステラの思考によって、完全に予期できるようだった。


「オォォ、オォォオオォォオ!」


 魔神は一瞬でシエステラの右に残像を置き、次の瞬間には左へと肉薄する。視界が追いつかないほどの圧倒的な速度は、あたかも魔神が複数いるかのように錯覚させる。


 だが、その混沌の中、シエステラの周囲だけは時間の進みが遅いかのように静謐だった。


 別次元の空間が二人の間に流れる中、魔神がシエステラに迫る。しかし、黒い血を流したのは、魔神の方だった。


「アガッ、アァァアア!」


 深い斬創を受けた魔神は断末魔の悲鳴を上げる。それを嘲笑うように、シエステラは追撃の術式を展開した。


「彼の者を焼き尽くせ。ジャッシメント・フレア」


 灼熱の聖炎がボボボッと無数の火の玉となり、魔神の体躯を焼き尽くさんと追い詰めた。


「ま、まさか、魔神様が押されている?」

「嘘だっ! 魔神様は魔王様のお力を継承しているのだぞ!」


 目の前で繰り広げられるあり得ない光景に、男たちは口々に悲鳴に似た嘆きを発する。


 しかし、シエステラの声は平坦だった。


「所詮は紛い物です。これが本物の魔王でもないでしょう?」

「そんなはずは……、そんな言葉で片付けられるものでは……」


 言葉が続かない。聖女の、シエステラの圧倒的な戦闘能力は、男たちの想定を遥かに越えているのだった。


「くっ、どういうことだ、さっきまではあんなに苦戦していたのに」

「確かに厄介だと思いましたよ。ですが、私が苦戦していたのは、その魔神の動きを観察するためです。別に実力の問題ではありません」


 シエステラは僅かに笑みを浮かべた。

 そこには確実な勝利のビジョンを写し出す、冷徹な瞳があった。


「それに、良いものを見つけましたからね」


 シエステラは魔神の周りに目を向ける。

 そこには何も見えないが、シエステラの目には鮮明に見えた。


「これが、女神の力」


 魔神の周りには、シエステラにしか見えない聖なるオーラが漂っていた。


(女神の力。おそらく魔王を封印した時の名残。ふふ、まさかこんな形で女神様の力を手に入れることができるとは)


 シエステラはニヤリと笑い、勝利と、その先の自己の完成を確信する。


(女神様の力を取り込めば、私はさらに女神に近づく。こんな魔神に苦戦することもなくなる。そして、ニコラの不運を消し去ることだって)


「はあぁぁ!」


 シエステラが跳躍し、魔神に向かう。魔神は剣の一撃を防ぐが、シエステラはその隙に魔神の周りに漂う女神の力に手を伸ばした。


 その瞬間、シエステラの中に凄まじい力の本流が流れてくる気配を感じた。


(素晴らしい。これが、女神の力!)


 確実に自分の聖女としての力が高まるのを予感して、シエステラはほくそ笑む。


 しかし、


「……は? え?」


 ドクンッと心臓が張り裂けそうな鼓動が打ち、シエステラはガクッと膝から崩れ落ちたのだった。 

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