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聖域へ

夜空に裂け目が広がる。

そこから青白い光が滲み出し、満月のように世界を照らしていた。

斜めに抉られた塔の輪郭は、まるで巨人の腕にねじ切られたように傾き、

かつて草原だった一帯は影を失い、荒野には風と灰だけが踊っていた。


瓦礫の向こうで、黒い影が蠢く。

地の底から滲み出すように、甲虫のような灯喰いの群れが姿を現す。

無数の脚がギチギチと軋み、

泥のような体液を滴らせながら、地を這っていた。


やがて斜面でぐりんと丸まり、

節の擦れる鈍い音を響かせながら、

幾十もの黒球となって転がり始める。

軋み、砕け、ねじれながら、ひとつに溶け合うようにして迫ってきた。


ザリザリザリ……ッ!


岩を削る金属音と、獣とも機械ともつかぬ咆哮が重なり、

荒野全体が鳴動する。

その轟きは風を裂き、

空気さえも汚れた黒の粒で満たしていく。


「うおりゃあッ!!」


ドォォォォォォォンッ!!


盾の民が一斉に受け止め、クローが光の盾を押し出す。轟音と共に、白い衝撃波が弾けた。


黒い群れが散り散りに吹き飛び、無数の盾の縁が一斉に閃く。ひっくり返る甲虫の灯喰いが脚をばたつかせ、黒い霧となって消えた。


「クロー、右だァッ!」


「おうッ!!」


もう一体、跳ね上がった影が迫る。

クローは盾を反転させ、肘を軸に半回転。

盾の縁が光を放ちながら軌跡を描き、

突っ込んできた灯喰いを真横から叩き潰した。


パリン、とガラスが割れるような音。

灯喰いの外殻が砕け、飛散した破片が虚空に吸い込まれる。


クローは荒く息を吐き、足元に光の盾を突き立てた。その動きに呼応し、次々と盾が重なる。

光が地面に反射し、退避してくる民の足元を照らした。


「急げッ! この先が丘だ! 風上に出るぞ!」


北の丘陵地を目指す民の隊列。

だが――その背後では、地の裂け目から無数の灯喰いが溢れ出していた。

黒い波がうねり、岩を噛み砕きながら追いすがる。

逃げ惑う群衆の足音が重なり、荒野は混沌の叫びで満たされる。


「こっちです! 急いで!」


トゥルアが声を張り上げ、桃色に輝くレイピアを高く掲げる。

風が唸り、背後で地鳴りが響くたび、誰かの悲鳴が夜に散った。


それでも人々は走る。

老人を支える者、泣く子を背負う母、肩を貸す若者。

誰もが息を切らし、ただ必死に、トゥルアが指し示す丘を目指していた。


「これだけ灯が集まれば、灯喰いの追撃は免れません。ならば、私たちが選んだこの丘で、奴らを迎え撃てばいいのです」


丘陵地の手前――荒野を切り裂くような狭い坂道。

そこを抜ければ、高台と岩壁が広がる防衛に適した地形が待っている。

トゥルアはその一点を見据えた。


「ここを抜ければ目的地です! 皆、坂道を転ばないように気をつけて!」


彼女の声は鋭く、それでいて迷いがない。

背後では、執事が手を振り、避難してきた人々を次々と導いていた。

その傍らで、記録官たちが灯を掲げ、崩れかけた道を誘導していく。


クローが振り返り、叫ぶ。


「盾の民が最後尾を守る! 追いつかれる前に壁を作るぞ! 記録官も戦えるやつは出てくれ!」


再び盾を構えたその瞬間、闇の中で獣のような唸りが上がる。

炎のような閃光が弾け、風圧が砂を巻き上げた。

それでも――誰も止まらない。


「もうすぐです! 丘の上へ――!」


その中で、避難誘導に加わっていた若い記録官たちが小声が漏れた。


「……ガイウス様の命とはいえ、なんで俺たちが記録官でもない娘やおっさんに指示されなきゃならねぇんだ?」


「しっ、馬鹿言うな! あの方を知らんのか?」


「は? 何者だよ」


「グレイブ上級記録官のご子女――トゥルア様だ!」


「なっ……! まさか、あの……!」


一瞬、ざわめきが走る。遠くに立つトゥルアの姿が認められる。

風が彼女の長い髪を掻き、背の灯が夜を淡く照らした。


「……本物だ。う、美しい……」


誰かが零すと、ざわめきが静まった。


トマスが泣き叫ぶ子を抱えながら、転げるように坂を駆け上がる。

振り返れば、闇の海が押し寄せていた。

無数の赤い瞳がうねり、地の底の咆哮が空を震わせる。


坂を登る民の背を押しながら、クローは再び光の盾を掲げた。

灯喰いの群れが岩壁に突進し、その衝撃波が谷底を揺らす。


「クロー! もう十分です! 上へ!」


「おうよ、ピンクの嬢ちゃん!」


やがて――最後尾のクローが丘陵地の入口を越えた。


トゥルアは短く息を吐き、握った剣を胸の前で構える。

背後では、疲労で崩れ落ちる者たちが肩を寄せ合い、誰もが荒い息を整えていた。


「――皆、よくここまで来ました!」


その声は澄み渡り、荒れ果てた丘陵に響き渡った。

その場にいる誰もが、その声に呼ばれるように顔を上げた。


「ここから先は――“守る戦い”です!」


民の間から、小さな声が漏れる。だがそれは怯えではなく、聞き入る音だった。


「この丘陵地を選んだのは、ただ祈るためではありません。ここは風上にあり、灯喰いの動きを視認しやすい。地形上、もっとも防衛に向いている場所です。さらに――北東には記録官が物資輸送に使う細い谷道が続いています。緊急時、そこが退路になります」


執事が頷き、低く答えた。


「確かに、あの谷なら避難経路として使えますな。地形も狭く、少数なら追撃を防げるでしょう」


トゥルアは民を見渡し、瞳に光を灯した。


「私たちは、誰一人見捨てません!

 ここを聖域とします。導きの灯を掲げなさい!

 道を失い、離れた者たちへ――帰るべき光を示すのです!」


その声に呼応するように、民の手が一斉に上がった。無数のランタンが掲げられ、疲労も恐怖も、その瞬間は波のように静まった。


「へへ……、すげぇぜ。ピンクの嬢ちゃん……」


クローが呟くと、次の瞬間、盾をかついだ身体ごと跳ね上がり、怒号を投げた。


「灯を掲げろ、全員だ! 救える命を見殺しにはしねぇ! それじゃ巫女への裏切りだぜ!

 道を見失ったやつらに伝えろ!俺たちは生きてる、そっちも早く来いってな!」


闇の中に、ぽつり、ぽつりと輝く灯。

それはやがて数十、数百と集まり――丘陵地全体が、ひとつの光の海と化していく。


トゥルアは目を凝らし、唇を嚙んだ。隣の執事にそっと囁く。


「……まるで、星の群れですね」


「これが……あの巫女が配った希望、というわけですな」


執事の言葉に、トゥルアは静かに頷く。


「ええ。あの子が灯した“想い”が、今、民の中で息をしてる……」


荒野を駆け抜けてきた民の灯が、夜空に新たな星座を描いた。

闇に覆われた世界の中で、それは確かに“人の意思”そのものだった。

恐怖に震えていた手が、確かな意志を帯びていく。

子も、女も、老人も――誰ひとり灯を下ろさない。


互いに目を合わせ、わずかな頷きを交わす。

集い、導き、守るために掲げた光。

ここが、彼らの“聖域”だった。


「あれを見ろ! 来たぞッ!」


トマスは鍬を握る手を突き上げ、声を張り上げた。


丘陵地の南東――塔の方角で、地鳴りが始まる。

風が逆巻き、砂と灰が舞い上がり、夜の帳を渦のように裂いた。

大地が唸り、黒い影が地の底から滲み出る。


それはまるで、闇そのものが意思を持って押し寄せてくるかのようだ。

砂の合間に、無数の“瞳”が灯る。

赤く、冷たく、飢えた光が一斉にこちらを射抜く。


――灯喰い。


名を呼んだ瞬間、誰もが息を呑んだ。

掲げたランタンがわずかに震え、光が揺れる。


トマスは奥歯を噛みしめ、鍬を握り直す。

手のひらの汗が冷たい。

それでも――誰も逃げない。


荒野の向こうで、闇が再び唸りを上げる。

風が頬を叩き、砂が目に刺さる。

トマスは視線を逸らさず叫んだ。


「――ココの帰り道を、俺たちが守るッ!!」


その叫びが丘陵地を駆け抜けた。

人々の胸に火がともり、掲げた灯が一斉に強く輝く。

光の波が闇を押し返すかのように、丘陵全体を包み込んだ。


――光と闇。

生きようとする者たちと、それを呑み込もうとする者たち。


最後の防衛戦が、いま始まろうとしていた。


――


記録の塔・頂上。


浮上する石床、支柱の影で、シンは剣を支えながら立ち尽くしていた。

息は荒く、全身は血と煤にまみれている。


背後では、幾つもの塔の残骸が重力に逆らうように宙に浮かび、

巨兵と化したヴァルターがそれらを操っていた。

無数の瓦礫の“目”が青白く光り、影を這わせている。


――塔の灯はもう、制御を失っている。


「……限界、か」


シンが低く呟いた。

腕は重く、剣が震える。

それでも彼は、かすかに笑った。


ヴァルター――いや、もはや人ではない。

石の鎧を纏い、神話の断罪剣を振るう。

その背からは灯生成機械ルメオティスの歯車と導線がせり出している。肉体と機構の境界は曖昧になり、瞳の奥では理性を欠きながらも、なお秩序を求める機構として動いている。


「灯を奪え……灯を管理せよ……民を従わせよ……秩序を乱せば、灯喰いが来るぞ……!」


その声はもはや言葉ではなく、呪文のようだった。

塔の内壁が軋み、光の筋が狂った軌道を描いて渦を巻く。

瓦礫の隙間から蒸気が噴き出し、空気が焦げる。


シンは膝をつき、荒い息を吐いた。

視界が揺らぎ、世界が滲む。


「……ココ、すまない。君を、こんな戦いに巻き込んでしまって……」


彼は静かに目を閉じた。

瞼の裏に浮かぶのは――あの少女の笑顔。


「君が“ミュレットの書”を持って現れた時、俺は心の底から驚いた。

 そう……『この灯を、困っている人たちに届けたい』。

 それが君の願いのすべてだったな……」


ふっと、唇がゆるむ。

懐かしさと切なさが胸の奥で溶け合った。


「……俺は、君に会えて、本当に嬉しかった。

 ずっと失っていたものを……思い出すことができた。凍りついていた胸の奥が、

もう一度……震えだしたんだ。君のおかげだ。ありがとう、ココ……」


握る剣の感触が、ゆっくりと遠のいていく。


「フレア……。いつも心配ばかりかけて、すまない。

 訓練生の頃、一人だった俺に、優等生の君が初めて声をかけてくれたな。

 “陰気ね”って笑いながら……。君の前ではいつも強がっていたけど、

 だけど本当は――」


彼の手がかすかに震える。


「……本当は、ずっと君に救われていたんだ……」


風が塔を吹き抜ける。

血に濡れた床に、ひとしずくの灯がこぼれ落ちたように見えた。


「ここまでだ……。

 もし君たちが、再び――

 塔の真理に辿り着くことができたなら……」


その時だった。


遠く、闇の裂け目の向こう――

崩れた塔の彼方に、いくつもの微かな光が見えた。


最初はただの幻かと思った。

だが違う。


闇の底に、確かに灯が瞬いている。

丘陵地の上空――

人々が掲げた灯が、夜の帳を押し返すように輝いていた。


無数の光が線を描き、星座のように大地を結んでいく。


それはまるで、

失われた星々が再び人々の手によって蘇ったかのようだった。


「……民が……灯しているのか?」


かすれた声が漏れた。

シンの唇が震えた。

焼けた血の味が広がり、胸の奥で何かが鳴った。


「……あぁ、見える。こんなにも、遠くまで……」


その表情は、痛みの中にもどこか穏やかで――

まるで長い夢の終わりに差し込む朝を見ているかのようだった。


かつてヴァルターに教えられた記録官の誓い。

ココが灯した希望の光。

人々の笑顔。

フレアやグレイブ、記録官たち――命を懸けて戦う仲間たち。

すべてが、ひとつに重なった。


「そうか……俺はこれが見たかったんだ……」


シンの剣が微かに揺れた。

次の瞬間、刃の奥から小さな赤い火の粉が舞う。

それはただの熱ではなかった。

――人々の灯が、シンの中で共鳴していた。


シンは顔を上げ、

頬にかかる血を拭おうともせず、

ただ――まっすぐに、支柱の端からヴァルターを見据える。


かつて“師”だったものが、今は塔そのものと同化し、

狂気と秩序の狭間で吠えている。


あれはヴァルターじゃない。

その時、シンの脳裏にかつての師の笑みが浮かぶ。


自分が慕った師、ヴァルターがもし正気なら、きっとこう言うだろう。


この光を……この民の灯を守れ、と……!


彼は唇を血が出るほど噛み締める。


「消させない……!」


低く、静かに、

それでいて世界を揺るがすような声で、シンは呟いた。


「――消させてなるものかぁッ!!」


そして、炎の剣を握りしめ――

その足が、光の残滓を踏み締めるように前へ出た。
































世界が、真っ白に塗り替えられた。


音がない。風もない。

ただ、柔らかな光だけが満ちている。


瞼を開くと、白い地平に横たわっていた。


「……ここは……どこ?」


ゆっくりと身体を起こす。

足元の白砂が、さらりと音もなく崩れた。


そのとき、小さな影が横切った。

手のひらほどの生き物――雪の粒のような毛並みを持つ、細長い小獣だ。

尾の先に光の粒を宿し、動くたびに淡く瞬いている。


生き物はびくりと身をすくめると、一度こちらを振り返り、

眩い光の方へと駆けていった。


目を凝らすと、光の中に人影がひとつ浮かんでいる。


先ほどの小獣がその足元から駆け上がり、

慣れたようにその肩へとよじ登る。


「ふふ……いかにした、ボコよ」


低く穏やかな声が、静寂を震わせる。


「……あなたは……?」


影がこちらを振り向く。

その一瞬、驚きに目を見開き、やがて静かに微笑む。

輪郭が淡く揺らめき、光の粒がその姿を包み込む。


どこか懐かしい声が、静かに響いた。


「おや……人の声を聞くは、ニ百年ぶりのことよ。

 よもや、そなたが――灯の巫女か?」

『灯の断章 〜ココと記録の塔〜』をお読みいただき、本当にありがとうございます。

物語はいよいよ佳境!


もし少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価をいただけると大変励みになります。

感想があれば、裏話や設定なども語ろうかなと思います。よろしくお願いします!


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