灯の悪霊
ヴァルターの横に、一本の剣が転がった。
砕けた床に反射した炎の光が、彼の頬をかすかに照らす。
ヴァルターは右手で顔を押さえ、仰向けに倒れていた。頬を伝う雫が、床の上に静かに落ちる。
「くっ……うぅ……」
荒い呼吸が胸を上下させ、その度に焼け焦げた布が擦れる音がする。
胸の傷口は赤黒く焼け、血が流れ出すこともなく、ただ焦げたように固く閉じていた。
肌はひび割れ、縁は灰のように脆く崩れ、しかし奥からは微かな熱が残っている。
痛みを堪えるように歯を噛み締めながら、ヴァルターは唇の端を震わせた。
静寂の中、シンは炎の剣を構えたまま立ち尽くす。
橙の光が彼の横顔を染め、吹き抜ける風が、遠い鐘の音のように響く。
「……制度は破られた。人の時は、再び動き出す」
炎がゆらりと揺れ、光の粒が宙に舞う。
「ヴァルター……罪を一人で抱え込むな。
もう一度、人の灯を――信じるんだ」
シンの声は低く、しかし確かな温度を帯びていた。
その時だった――
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ――!!
「……!!」
塔全体が、まるで大地そのものの怒りに震えるかのように軋んだ。
低く腹の底を突き上げる唸りが響き、床石が波打つ。瓦礫が一斉に崩れ落ち、古びた石片が地の底へと雨のように降り注いだ。
「くっ――!」
シンがとっさに身を伏せる。
足元の石が割れ、亀裂が走った。
塔の中心から伝わる震動は、まるで巨大な獣がその身をよじらせているようだった。
空気が歪み、耳をつんざくような金属音が交錯する。
ゴウン、ゴウン――。
巨大な歯車が嚙み合う音が響くたび、塔全体が息をするように軋む。
床が上下に跳ね、重力の方向すら定まらない。
視界が揺れ、瓦礫が転がり、崩れた鉄骨が火花を散らした。
「……これは……!?」
灯生成機械が悲鳴を上げていた。
ヴァルターの背後、巨大な歯車が鈍く回転し、軸の継ぎ目から黒い蒸気を噴き上げる。ひび割れた管の隙間からは青白い灯が漏れ、塔の影がねじれていく。
やがて揺れが収まり、静けさが戻った。
シンはゆっくりとヴァルターの方を見た。
瓦礫の粉が舞う隙間で、ヴァルターは杖を突いて立ち上がっていた。頭を垂れ、長い白髪が額と頬を覆う。腰は曲がり、その背には以前とは違う、機械のような重みが宿っていた。
「シン……」
ヴァルターは呟き、ゆっくりと顔を上げる。白髪の隙間から覗く瞳は青白く光り、人の色を失っているように見えた。装置の光を湛えた眼差しは、塔の心臓と呼応している。
「ヴァルター……!?」
シンの声は震え、剣を堅く握りしめた。
ヴァルターの口が動く。声はかすれているが、一語一語が重く、塔の静寂を切り裂いた。
「それほどまでに灯を欲するか……!荒ぶる精霊の化身……そして灯の巫女……秩序を乱す暴徒どもよ……!」
その一言に、塔の空気がさらに冷たく引き締まる。
シンは無言で剣を構えた。刃先に残る熱が、二人の間の距離を焦がす。
ヴァルターはゆっくり身じろぎ、杖を胸の前で固く握り直す。声に揺るぎない決意が混じり、次の言葉は叫びになった。
「ならば――灯を以て、貴様らを滅ぼし、新たな秩序を築くまでだ!」
叫びに呼応するように、ヴァルターは杖を振り上げた。床が低く唸り、青白い光が石と石の継ぎ目を走り、円環を描いて広がっていく。やがてそれは彼を中心に陣を成し、立つ床面は震えながら切り離され、ゆっくりと宙に浮いた。
「ヴァルター!いや……さっきから何かおかしい。人格が乖離しているのか? お前は何者だ!?」
シンは浮いた石面の端から叫ぶ。
そこに立つ存在は、ヴァルターとは明らかに違う。
青白い灯が彼の全身を走り、髪が風もないのに逆立つ。
途端に、周囲の石床や瓦礫が無秩序に持ち上がり、重力を忘れたようにバラバラと浮遊し出す。
「この悍ましい機械は……、一体、何なんだ!?」
ヴァルターの唇が動いた。声は人と機械とが混ざり合うように響く。
「――我が身こそ、灯を制する王、灯生成機械。
裂け目から灯を汲み取り、灯を生み出し、均衡を保つ者。
この男の魂を依代に、秩序を繋ぐ最後の楔……」
その宣言に、塔の中枢が低く唸った。青白い光が管を駆け、ヴァルターの身体と装置がゆっくりと溶け合っていくように見える。
「なん……だと……!」
シンは目を見開き、咄嗟に炎の剣を振り抜いた。剣圧が高熱の波となりヴァルターへ襲いかかる。
だが、浮かんでいた瓦礫が瞬時に集まり、光の盾となってヴァルターを守る。石片が刃の前に集積し、剣圧は跳ね返される。
「ルメオティス……、お前が……ヴァルターを……!」
空気が重く軋み、シンの指先が震える。
燃え立つ剣を握る手に、かすかな怯えと、どうしようもない悲しみが同時に込み上げた。
目の前に立つ男は、紛れもなく記録官長ヴァルター・ウォールデンであり、そしてかつての自分の師だった。
だが、その身から放たれる覇気は異様で、まるで人の域を超えた“何か”の威圧。
――これが、世界の真実なのか。
だとすれば、あまりにも虚しい現実だ。
心の奥で誰かが叫ぶ。だがその叫びすら、熱と光の奔流にかき消されていく。
「私が傷つけば、ヴァルターの魂は削られ、塔の均衡は崩壊へ向かう……世界は、いずれ灯喰いに蝕まれるぞ!」
声は断末の警告のように響いた。
ヴァルターが杖を振る。
――ゴウン! ギギギギギィィィン!!
瓦礫が唸りを上げて浮かび上がり、光を帯びたまま宙で組み合わさっていく。青白い閃光が連鎖し、石と金属がきしみ、音を立ててぶつかり合う。
ガキンッ! バキバキッ!
「杖の力を、更に解放する!!」
次の瞬間、拳大の石塊が群れを成し、鉄の弾丸のようにシンへと殺到した。
「くっ――!」
シンは身体をひねり、迫る塊を紙一重でかわす。
ドガァァァン!!
背後で床が砕け、破片が火花を散らす。
シンは炎の剣を構え、次の瞬間、跳ぶ。
――ガンッ!
足裏が浮かぶ石床を蹴り、身体が宙を駆ける。
迫る瓦礫を、炎の閃光が斬り裂いた。
ズバァァァッ!!
切断された破片が青白い光を残しながら弾け飛ぶ。
「ふんッ!」
ヴァルターの杖が再び唸る。
塔の下層が震え、下から新たな瓦礫が浮かび上がり――その全てが宙で停止した。
カチリ、と音がして、無数の石塊が一斉にヴァルターの周囲を旋回する。
――ギュルルルルルッ!!
回転音が風を裂き、弾丸の嵐となってシンに向かって放たれる。
「……ッ!」
シンは剣を振り抜いた。
ボゥッ! 炎の軌跡が弧を描き、迫る瓦礫を焼き払う。
ドドドドドドォォンッ!!
火花と衝撃波が交錯し、宙に浮かぶ石床が軋む。
「ヴァルターァァッ!!」
シンは叫びながら、連続して跳ぶ。
一枚、二枚、三枚――浮遊する石床を踏み継ぎ、身体が焔を裂く矢のように前へ走る。
そのたびに、足裏が――ギンッ、ガンッ、ガンッ――と乾いた音を響かせ、
炎の軌跡が尾を引く。
ヴァルターの影が近づく。
彼の周囲を巡る光の陣が唸りを上げ、塔全体が反応するように震えた。
「それでも来るか……シンッ!!」
ヴァルターの杖が振り下ろされる――轟音とともに、瓦礫が光の槍となって降り注ぐ。
シンはその雨を斬り裂きながら、まっすぐに突き進んだ。
ボッ――!!
炎が爆ぜ、橙の光が二人を照らす。
「目を覚ませ!! お前は王でも、機械でもないッ!!」
シンの怒号が塔の空まで轟いた。
炎の剣を握る手が震える。
その瞳には怒りよりも、深い悲しみが宿っていた。
「あんたは取り憑かれているッ!!」
叫びと同時に、剣が唸りを上げる。
炎が爆ぜ、崩れかけた塔の闇を裂いた。
熱風が吹き荒れ、青白い光と炎の閃光が交錯した。
「黙れッ!!!」
――ガギィィィィィンッ!!
炎の剣と、青白い光を纏った杖がぶつかり合う。
閃光が弾け、空気が焼ける。
「ヴァルターは――善人だった!
灯を信じ、人を導こうとした。
だがお前は違う!お前はヴァルターに取り憑いた灯の悪霊だ!支配するだけの機械の化け物だッ!!」
「私が悪霊だと!? 私は王だ。
貴様こそ、灯を欲するヴァルターの亡霊めッ!!」
「うおおおおおおおおおおッ!!」
「おおおおおおおおおおおぅッッ!!」
二人の叫びが重なる。
ヴァルターが杖を振り抜くと、光が弾け、
シンの身体は衝撃波に吹き飛ばされた。
石床に叩きつけられ、火花が散る。
シンは呻きながらも立ち上がり、剣を構えた。
その瞳が、再びヴァルターを捉える。
彼は悟っていた。
戦いの最中――その呼吸の隙間に、確かにヴァルターの息遣いがある。
彼の魂を救うには、彼自身と語り合うしかない。
だが、それは生半可な祈りでは届かない。
命を賭けた、この決死の戦いの渦の中でしか――
ルメオティスに囚われたヴァルターへは、届かない。
「……だったら、何度でもだッ!!」
シンの喉が裂けるように叫んだ。
炎の剣が再び燃え上がる。
その光は、もはや戦いの灯ではない。
「何度でも――何度でも届かせてみせるッ!!!」
『灯の断章 〜ココと記録の塔〜』をお読みいただき、本当にありがとうございます。
物語はいよいよ佳境!
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