赦しと決意
「く……身体が……動かない……」
黒衣をまとった一人の記録官が、瓦礫の中でうずくまっていた。
塔の振動に合わせて、砕けた石片が時折肩を打つ。手足は血に濡れ、指先はかすかに痙攣していた。
仲間の姿は、もうどこにもなかった。
突如現れた灯喰いとの交戦。
剣は持っていても、実戦など経験したことのない彼らにとって、それは――恐怖そのものだった。
命令も、秩序も、すべてが崩れ去った。
誰もが散り散りに逃げ惑い、仲間の悲鳴が、どこか遠くから聞こえていた。
その音が次第に遠ざかっていくたび、彼の胸の中には、どうしようもない空洞だけが広がっていった。
「……こんなことになるなら……灯の管理を、もっと厳しくしておくべきだった……」
唇の端から血が滲む。
彼は石壁に背を預け、息を漏らすように呟いた。
「……村人どもは、なんて愚かなんだ……」
その声は、かつての誇りを失った者の呻きのように、冷たい空気へと消えていった。
彼の瞳は、絶望と後悔の狭間で揺れながら、かすかに光を探しているようでもあった。
――そのとき。
足元に、柔らかな光が差し込んだ。
それは、あまりに静かで、暖かくて、現実とは思えないほどだった。
「……なんだ……この光は……?」
傷ついた身体の隙間から、灯の粒が溶け込むように広がっていく。
痛みが薄れ、冷え切っていた血が、少しずつ温もりを取り戻していく。
「もう大丈夫ですよ。……立てますか?」
優しく澄んだ声が、頭上から降り注いだ。
その声音は、どこまでも穏やかで、どこか懐かしい響きを持っていた。
記録官は、息を詰めたまま顔を上げた。
視界に映ったのは、金色の髪を揺らす少女――灯を抱くように立つココの姿だった。
「お……お前は……!」
反射的に、記録官は剣を掴み、よろめきながら立ち上がる。痛みに耐えながら、震える手で刃を向けた。
「やはり……お前が“灯の巫女”か……!
その力……お前が村人に灯を与えたせいで……!」
怒声が空気を震わせる。
だが、その声の奥には、恐怖と混乱が入り混じっていた。
ココははっと目を見開いた。
この顔を、忘れるはずがなかった。
――あの日。ミルレ村で、灯をともした自分を捕えた記録官。
冷徹な声で「規律違反」と断じ、執拗に問い詰めてきた男。
喉が震えた。
けれど、彼女は逃げなかった。
手のひらの灯が淡く揺れている。
「……こんなことになったのは、確かに、私のせいかもしれません。
私がみんなに灯を配ったから……」
「そうだ! お前のせいだ!!」
記録官は血に濡れた手で剣を握り直し、叫んだ。
「お前が罪を犯したから、秩序が崩れた! 村人どもが……我々に牙を向いたんだ!
――お前がっ……!」
その叫びを、ココは静かに受け止めた。
胸の奥が締めつけられる。
けれど、それは恐怖ではなかった――彼の痛みが伝わったからだった。
「……あなたは、怖かったんでしょう?」
記録官の眉がぴくりと動く。
「秩序が壊れること。人が、灯喰いに襲われること。
あなたは、ただ……守りたかったんですよね?」
剣先が、わずかに下がった。
記録官の胸の奥で、何かが軋む音がした。
「……守る……だと……?」
ココは静かに頷く。
「私も、同じです。
灯を配ったのは、誰かを傷つけたかったからじゃない。誰かの心に、もう一度“生きてる”って思ってほしかったから」
沈黙が降りた。
塔の外壁から崩れる瓦礫の音が、遠くに響いていた。
「何故、敵である私を……助ける……?」
その声は、迷いと困惑に満ちていた。
「私は誰も区別をしない。
私に与えられた灯は、みんなを助けるためにある。敵も、味方も関係ない」
ココは一歩踏み出した。
記録官はたじろぎ、やがて剣を下ろす。
膝をつき、血に濡れた床に手をついた。
「……私は……間違っていたのか……?」
ココは小さく首を振る。
「違います。何かを守りたい気持ちに間違いなんてない。ただ、私とはやり方が違っただけ……」
ココは拳を胸に当て、灯を強く抱きしめた。
「私が……私の灯で、みんなを守ってみせます!」
その瞬間、灯が彼の周囲を包み込む。
光が優しく脈動し、痛みを癒すように肌を撫でた。
それは赦しであり、希望の温度だった。
記録官は、はっとして顔を上げる。
その瞳に映ったココの姿に、息を呑んだ。
――あの日、遠い丘の上から見たミルレ村の光景。
黄金の小麦畑が風に揺れ、子どもたちの笑い声がこだまする。
収穫を祝う歌と、穏やかな祈りの灯。
彼の胸に焼きついていた“豊穣の記憶”。
たとえ規律に背く行為であったとしても――
あの光景に、心を動かされない者がいるだろうか。
その“あの日の輝き”が、今、少女の瞳に宿っていた。
記録官の目が静かに潤む。
そして、わずかに微笑んだ。
「……灯の巫女……」
彼は祈るように呟いた。
「どうか……この世界を……導いてくれ……」
その声は、光の中に溶けていった。
「ココ!」
瓦礫の山に上がり、灯喰いを射抜きながら偵察していたフレアが、鋭く声を張り上げた。
風が砂塵を巻き上げ、焦げた匂いが鼻を刺す。
「ここから南東の方角へおよそ千二百メル、村人と記録官の軍勢が、灯喰いと交戦してる!」
「……村人と記録官が!?」
ココは息を呑んだ。
かつて敵同士であったはずの人々が、いま同じ敵に立ち向かっている――その事実が信じられなかった。
フレアは振り向きざま、弓を引き絞りながら叫ぶ。
「もう関係ないの! 村人も、記録官も! みんな灯を守るために一緒に戦ってるのよ!」
その声が風に乗って、瓦礫の間を抜けていく。
熱気と砂塵の中、フレアの赤いマントが烈風に翻った。
その言葉に、ココの胸が高鳴る。
戦いの向こうに、灯を取り戻そうとする人々の姿がある――。
その想いが、彼女の中でひとつの確信に変わった。
「フレアさん……私をそこへ連れて行って!」
フレアは一瞬、目を見開いた。
だがすぐに険しい表情に戻り、首を振る。
「無理よ! 瓦礫も多いし、灯喰いが道を塞いでる! それに――!」
言葉が途切れる。
フレアの視線が遠くを捉え、声がわずかに震えた。
「青い光が……すごい速さで、こっちに近づいてきてる!」
「青い光……? それって……灯喰い? それとも、誰かの灯……?」
「わからない!」
フレアは歯を食いしばる。
「肉眼じゃ正体を確認できない……まるで矢みたいに一直線に飛んでくる! ――ココ、警戒して!」
ココは思わず目を細め、手のひらに宿した灯を強く抱くように握りしめた。
胸の奥で、灯が脈打つ。
何かが――迫ってくる。
その瞬間、轟音が世界を裂いた。
――ドドドドドドドドドドォォッ!!
空気が震え、瓦礫の山が揺れる。
砂塵が吹き上がり、視界を覆い尽くした。
ココの金の髪が激しく風に舞い、頬を叩く。
光の粒が散り、空に吸い込まれていった。
「ぴぃぃぃぃぃぃぃーーーッ!!」
甲高く、透き通った鳴き声――
しかし、その響きにはどこか懐かしさがあった。
ココは顔を上げ、瞳を大きく見開いた。
胸が跳ね、全身にあたたかい電流が駆け抜けた。
「この声……!」
風が頬をなで、涙が滲む。
いつもそばにいた――片時も忘れることのない柔らかな声――。
ココは震える指先を口元に当てた。
胸の奥に灯が脈打つ。
深く息を吸い込み、渾身の想いを込めて指笛を吹いた。
――ピィィィィィィィ――ッ!!
乾いた空に、澄んだ音が響いた。
風を裂いて遠くへ伸び、瓦礫の隙間をすり抜けていく。
一瞬、世界が息を止めた。
そして次の瞬間――
地が揺れた。
瓦礫を蹴り砕きながら、青い残光が地を走る。
その姿は風のようにしなやかで、雷のように速かった。
しなやかな四肢、角には二つの光球が宿り、青白い残光を引いて跳ねる。
「……ルーミア……!」
ココが呟くと同時に、瓦礫の山を越えて二頭の獣が現れた。
一頭は、桃色の毛並みをしたルーミア。
ココが幼い頃から共に暮らし、畑を耕し、小麦を運び、夜は寄り添って眠った――
家族であり、友であり、心そのものだった。
もう一頭は、そのつがい――純白の毛並みを持つアグリだった。
角の光がやわらかに揺れ、闇を押し返すように世界を照らす。それはまるで、夜明けを告げる双灯のようだった。
ルーミアは瓦礫を跳び越え、粉塵を巻き上げながらココの前に降り立つ。
低く澄んだ声で鳴き、その大きな頭を静かに垂れた。
まるで主に忠誠を誓う神獣のように。
「ぴぃぃ……」
その瞳に映るのは、再会の喜びと、どこか焦燥のような光。
ココの胸に熱がこみ上げた。
「来てくれたんだね……ありがとう」
ココは涙を拭い、そっとその額に手を伸ばした。
隣のアグリも小さく首を垂れ、その白い灯が二人を包み込む。
光が瓦礫の影を照らし、世界が一瞬だけ静まり返った。
フレアは弓を下ろし、呆れたように微笑む。
「まったく……どこまで奇跡を起こすつもりなの、あんた」
ココは息を整え、微笑んだ。
「これで行ける……! 灯を、みんなの希望を――守りに!」
ルーミアが地を蹴る。
瓦礫と瓦礫の間を、縦横無尽に跳び越え駆け抜ける。
角の光が道を照らし、踏みしめるたびに砂塵が舞い上がる。
その背に掴まるココの髪が風に揺れ、
アグリに乗るフレアの赤いマントが光を受けてはためいた。
「行こう、ココ!」
二人と二頭は、揺れる塔を背に――
千二百メル先、村人と記録官が共に戦う戦場へ向かって駆け出した。
粉塵を巻き上げながら、蹄の音が戦場に響く。
その闇を、二条の光が交差しながら駆けた。
残された光の尾は、絶望を裂き――やがて、希望の形を描いていった。
『灯の断章 〜ココと記録の塔〜』をお読みいただき、本当にありがとうございます。
新人作家ゆえ、新作リストではすぐに埋もれてしまい、なかなか多くの方に見つけていただくのが難しい状況です。
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