断罪の夜
今回は少し長くなりました。すいません^^;
楽しんでいただければ幸いです。
ウィズ村。
小さな村の外れに、ヴァルターの家はあった。塔の居住層に一室を持つ上級記録官でありながら、その実家は土壁に囲まれた質素な造りだった。
夜。
月明かりは雲に隠れ、村の灯は点々と闇にともっている。かすかに虫の音が響き、遠くの森では風が枝を揺らしていた。
家の前では黒い毛並みのアグリが荒い鼻息を吐き、角に吊るした光球を淡く揺らしている。
ヴァルターは微笑み、アグリに軽やかに跨がる。
差し伸べられた手を、シンが両手で掴み、彼の背に身を預けた。
見送るのは妻マリアンと、その腕に抱かれた幼い少女。
「パパー! パパー!」
少女は笑顔で、その小さな手は父に触れようと必死に伸ばされる。
マリアンは娘を抱き直し、二人を見上げて柔らかく微笑んだ。
「マリアン、今回の旅は……少し長くなるかもしれん」
ヴァルターはアグリのたてがみを軽く撫でながら、ちらりと妻マリアンに視線を向ける。
「大変なお仕事なのですね。どうか……ご無事を」
言葉と同時に、彼女の指先は娘の髪をそっと撫で、祈るように胸元で握りしめる。
「ありがとう。……アリア、行ってくるぞ」
アグリの背から身を乗り出すようにして、彼は娘の頬に指先をそっと触れ、微笑みかけた。
その呼びかけに、アリアと名を呼ばれた少女は大きな瞳を丸くし、父の姿をじっと見つめていた。
「半年後の豊穣祭までには……必ず帰る」
その言葉は、空に向かって誓いのように放たれた。
マリアンは胸に抱く娘の肩を抱き寄せながら、静かに頷く。
シンはその光景を見つめ、懐の書をぎゅっと握りしめた。
ヴァルターと家族の姿――守るべきものを持つ者の背中。だが、自分には血縁も家族もいない。ただ、胸に抱くのは一冊の古びた書と、燃えるような使命感だけだった。
世の中は確かに変わり始めている。
記録の塔の方針が強まってから、灯喰いの出現は減った。街道を旅する人々も少しは安心できるようになった。
だが、その代償として灯の配給は削られ、暮らしは日に日に苦しくなっている。
明かりを失い、飢えに苦しむ村々。泣き声と呻き声ばかりが増えていった。
――これが本当に、正しい秩序なのか。
シンの脳裏に、石版の言葉が蘇る。
「灯を掲げよ」「灯を束ねよ」「灯を分けよ」――。
それは古の王が未来の民に託した願い。
「……僕がやる」
声は震えていたが、その奥に確かな炎が宿っていた。
この“ミュレットの書”を使い、人々に灯を配る。
それは命令に背く行為だ。一人前の記録官になる道も失うかもしれない。
だが、古の王に選ばれたのは自分自身。
――ならば応えるしかない。
シンは懐の書をさらに強く握りしめ、ふとヴァルターの横顔を見た。
粗野でありながらも真っ直ぐな背中。険しい時代を支え、誰よりも重いものを背負ってきた、その人の横顔。
自分は一人ではない――。
誰よりも尊敬し、誰よりも慕うこの人が、共に命を賭けて歩んでくれる。
そして自分の選んだ道を、迷いなく肯定してくれている。
その確信が胸を熱く満たし、もはや迷いは微塵もなかった。
アグリの蹄が静かに土を踏みしめ、ウィズ村を少しずつ遠ざけていく。
村の灯りは背後で小さく瞬き、やがて夜の闇に溶けていった。
二人を乗せたアグリの角の光球だけが、闇を切り裂くように前を照らす。
こうして、彼らの旅は始まった。
――
焚き火を囲み、二人は夜の森の片隅に腰を下ろしていた。
パチパチと音を立てる炎が揺れ、オレンジの灯がシンとヴァルターの影を大地に映す。
ヴァルターは帳簿を膝に広げ、羽根ペンを走らせる。
配った灯の数を細かく記載し、さらに夜空を仰いで雲の切れ間から覗く星々を読み解く。
その眼差しは鋭く、まるで天の動きさえ計算に組み込むかのようだった。
「……この灯の数量なら、記録官に安易に気づかれはしないだろう」
ヴァルターはそう言うと、帳簿の余白に自ら計算式を書き込んだ紙片を貼り付け、シンへと差し出した。
シンはそれを覗き込み、驚きに目を見開く。
「さすがですね……目立たず、必要な箇所に的を絞って……人々の暮らしが脅かされることがないように配分している」
彼は深く感心しながら、焚き火の光を受けて柔らかく微笑んだ。
ヴァルターは焚き火に目を落としたまま、わずかに口元を緩める。
「学びは剣と同じだ。使い方を誤れば命を奪う。だが正しく用いれば、幾千の命を救う」
炎はぱちりと弾け、二人の顔を交互に照らした。
シンは胸の奥で、ますますこの人の背に続こうと決意を固める。
煙は静かな森の夜空へとゆらゆら昇っていく。
煙が散り散りになり、消えていった――
その瞬間だった。
木々の梢に、異様な沈黙が満ちる。
虫の音も、風の囁きも、ぱたりと途絶えた。
シンもヴァルターも焚き火の明かりに心を寄せ、気づくことはない。
だが闇の向こうに、確かに誰かがいた。
枝葉の隙間から気配を殺し、覗く影。
白い仮面、白い装束が淡い光を帯び、上空から二人の姿をただ静かに、じとりと見据えていた。
――
半年後
ウィズの村。
家々の軒先にはランタンが吊るされ、白く暖かな灯が夜をやわらかく染めている。
道端には屋台が並び、羊肉を焼く匂いと麦酒の泡立つ音が漂っていた。
笛や太鼓が鳴り響き、人々は歌い、踊り、笑い合う。
今夜はこのウィズ村の、年に一度の豊穣祭。
村人たちはそれぞれの願いをランタンの灯に託し、実りと安寧を祈る。
子どもたちは駆け回り、ランタンの下で影を揺らしながら歓声をあげていた。
出店の椅子に腰を掛け、ヴァルターが祭の光景を眺める。
「長旅だったが、ようやく一息つけた。祭りに参加できて良かった」
その隣に、シンが座っていた。
古びた書物を胸に抱きしめ、目を細めている。
「この書がなければ、今年の灯は間に合わなかったでしょうね……」
ヴァルターは微笑み、シンの肩に軽く手を置いた。
「お前の努力があってこそだ。灯はただ明かりを与えるだけじゃない。人々の命であり、希望そのものなのだ」
そう言って、ヴァルターは麦酒の入った木杯を差し出した。
シンはそれを受け取ると、しばし杯をじっと見つめ、ためらうように息を呑んだ。
次の瞬間、一気に口へと運ぶ。
途端に顔をしかめ、ぶふっと吹き出し、咳き込んだ。
ヴァルターはその姿を見て肩を揺らし笑い、
「すまんすまん。お前にはまだ早かったようだ。酒は毒にも薬にもなるが、誤った飲み方をすれば、身を滅ぼすぞ」
「そ、そうですね……。それはそうと師匠、奥さんと娘さんは?」
シンは木杯を机に置き、怪訝そうに眉をひそめながら問いかけた。
「ああ、アリアは友達と一緒に花火の打ち上げを観に行くそうだ。マリアンはそのお守りだな。半年ぶりに帰ってきたというのに、父親よりも花火だと」
二人は顔を見合わせ、声を立てて笑った。
祭囃子に混じって響くその笑い声は、ランタンの灯に照らされ、ひときわ温かく揺れていた。
「……さて、そろそろだな」
ヴァルターが夜空を仰ぎ、微かに笑った。
「打ち上げ花火ですね。しかし灯の管理が厳しくなっているというのに、村の人たちは豪胆ですね」
シンが口元を緩める。
「年に一度、一発だけの恒例行事だ。記録官だって、それくらいは見過ごすさ」
「……ですね」
二人は目を交わし、再び空を見上げた。
ヒュゥゥゥゥゥ――
「お、上がったぞ!」
ヴァルターの声が弾む。
パァァァン!!
黄金の光が夜空に広がった。
村中から歓声が上がり、子どもたちの声が混じる。
「きれいだー!」
「わぁぁっ!」
大輪の火花は空に咲き、散りゆく光が雲を照らし、地上の人々の顔を柔らかに照らした。
シンの胸は熱く震えていた。
この半年、ヴァルターと共に村を巡り、灯を分け与え、飢えや怪我に苦しむ者を救ってきた。
たとえ禁忌の行為であったとしても――この笑顔のためなら、己は間違っていない。
そう思えた。
――だが。
その輝きが消えた瞬間だった。
……キィィィィィィィィィ――!
耳を劈く甲高い唸りが、突如として夜空を切り裂いた。
「うあっ!」
シンは声を上げ、椅子から転げ落ち、両耳を押さえ込む。
頭蓋を貫くような音が、思考を焼き切っていく。
「な、なんだこれは……!」
ヴァルターも耳を塞ぎ、苦悶に顔を歪める。
そして、村全体が地獄のような悲鳴に包まれた。
「ぎゃああああっ!」
「耳が、耳があぁぁぁ!」
「助けてくれぇぇ!」
焚き火を囲んでいた人々は倒れ、子どもは泣き叫び、母親にしがみつく。
若者は老人を抱き起こそうとするが、自らも耳を押さえて膝を折った。
男たちは逃げ惑い、女たちの叫び声が夜を震わせる。
耳鳴りは金属を削るような不快な音色で、灯そのものが軋んでいるかのようだった。
村に満ちていた喜びは、一瞬で砕かれ、恐怖に塗り潰されていった。
シンは血の気が引く思いでヴァルターを見た。
「師匠……これは……」
言葉は凶悪な音の奔流に呑まれ、虚空を掻く。
ヴァルターの視線は、その耳鳴りの残響の中で一点に釘付けになっていた。
村に灯されたランタンが、同時に脈動する。
白々しいほどの光を放ち、灯はまるで膨張するように明滅し――やがて唐突に止まった。
静寂が訪れ、炎はただ揺らめくばかりに見えた。
次の瞬間、ふっと光が掻き消えた。
「……この感覚……ッ!」
ヴァルターの目が大きく揺れる。
空気がねじれる。
空間が歪み、亀裂から黒い闇が滲み出す。
その闇はじわじわと膨張し、揺らめきながら輪郭を得て、獣の形をとっていった。
「ば、馬鹿な……ッ! 灯の数は確かに測定した……帳簿にも記録している……!
なのに……一匹、二匹、三匹……ッ! いや、こんな数の灯喰いが現れるはずが……!」
ヴァルターの手は震え、呼吸が乱れる。
シンは歯を食いしばり、立ち上がった。
周囲に広がる惨状に体を震わせながらも、腰の剣を抜く。
影は人々に飛びかかった。
爪が肉を裂き、牙が腕や肩を噛み砕く。
「いやだぁぁぁぁッ!」
「助けて……助けてくれぇッ!」
「ママ――っ!!」
夜は悲鳴に染められた。
炎が上がり、木造の家々が呑み込まれていく。
母親の腕から赤子がもぎ取られ、若者の胸が黒い影の爪に貫かれる。
広場の歓声は、一瞬にして地獄の叫びに変わった。
ヴァルターの鼓動が早鐘を打つ。
剣を振るうたび、脈が強くなり、指先が震えた。
そして――ある瞬間、顔を上げた。
祭りの灯りの向こう、丘の方向。
そこに炎が立ちのぼっていた。
血の気が引き、ヴァルターの唇が震える。
「マリアン……! アリア……!」
理性よりも先に本能が叫んでいた。
シンは必死に剣を振るいながら、その叫びに応じる。
「師匠……! 奥さんと娘さんのところへ! はやく!」
ヴァルターは一瞬だけシンを振り返った。
汗ばむ顔に、苦悩と焦燥がにじむ。
だが、シンの呼びかけに一度だけ頷くと、彼は一心に村の奥、はずれにある丘へと駆け出した。
その背中を見やりながら、シンは息を呑む。
次の瞬間――
シンの瞳が大きく見開かれ、握り締めていたミュレットの書が手の中から滑り落ちた。
燃え盛る炎。
黒焦げになった人の無惨な骸。
焦げた肉の臭い。
ヴァルターの背はその場に膝をつき、震える手を炎の向こうへ伸ばす。
「……マリアン……」
その声は掠れ、絶望に押し潰されていた。
「……アリア……」
娘の名を呼んだ瞬間、ヴァルターの肩は震え、声は途切れた。
シンは呆然と立ち尽くし――
そして理解してしまった。
自らが配った灯によって、この村を。
そして最愛の師の家族を――死に至らしめたのだと。
「……僕の……せいだ……」
ミュレットの書は足元で光を失い、ただ重たく沈黙していた。
――
暗闇の広間。
ただ一脚の椅子に、ヴァルターは俯いたまま座らされていた。
青白い灯が一つ、また一つと宙にともり、周囲に仮面を被った白装束たちが、円を描くように立ち並ぶ。彼らの吐息が冷気のように重く漂い、空気そのものが圧迫してくる。
ヴァルターの黒く長い髪は白く変わり果て、瞳は虚ろに濁っていた。
「――ヴァルター・ウォールデンよ」
低く湿った声が響く。
「お前は罪を犯した。記録官の管理を無視し、勝手に灯を村々に配り歩き……挙げ句、ウィズの村をまるごと崩壊させた」
その断罪の言葉に、ヴァルターは顔を上げることすらしない。
「我らはお前の力を高く評価している。故に裁きは与えぬ。だが、一つだけ質問に答えてもらおう」
ヴァルターは俯いたまま動かない。
「あの“呪われた書”。お前は手にしていたな。……どこにある?」
ヴァルターの瞳は深い闇の中で乾いた光を映すだけ。
「どこに隠した!? 誰に渡した!?」
ヴァルターは低く息を吐き、わずかに顔を上げた。
「……あれは、破壊した」
ざわ……と円陣が揺れる。仮面の下で幾つかの眼がぎらりと光った。
「嘘をつけ!」
「我らを愚弄するか!」
声が次々に浴びせられる。
「破壊した」
ヴァルターは、同じ言葉を繰り返した。
その瞬間、剣を携えた一人の白装束が音もなく前に出る。
無造作に剣先が振り下ろされ――
ズブッ!
「――ああああああああああああッ!!」
ヴァルターの左足の親指、人差し指を鋭く突き刺した。骨の軋む音と共に、鮮血が石床に散る。
ヴァルターの身体が跳ね上がり、声を押し殺した悲鳴が喉を震わせる。
だがその表情はすぐに硬直し、歯を食いしばって血を吐くように呟いた。
「ぐ……うぅぅ……は、破壊した……ッ」
嘲笑と怒声が入り乱れる。
「ふはは……まだ吐かぬか」
「ひひッ……その舌を切り裂け」
ヴァルターの額から汗が滴り、足元には血が広がっていく。
それでも彼の声はかすれながらも揺るがなかった。
「はぁ……はぁ……、は、破壊した……!!」
白装束たちのざわめきは次第に嘲笑へと変わっていった。
「フフ……ならば良い。どうせ我々には逆らえないからな……」
ヴァルターは眉間に皺を寄せ、苦悶の表情を浮かべる。
そして断罪が宣告された。
「灯を奪え。管理せよ。民を家畜のように囲い込み、従わせよ。この地を灯喰いの脅威から守り、我々の支配に貢献するのだ」
「……」
「これより、貴様がこの地の王になるのだ。のぉ、愚かなる傀儡王よ」
仮面の奥から嗤いが溢れる。白装束たちは肩を震わせ、地獄の亡者のような哄笑を広間いっぱいに響かせた。
ヴァルターはただ、静かに目を閉じた。
『灯の断章 〜ココと記録の塔〜』をお読みいただき、本当にありがとうございます。
新人作家ゆえ、新作リストではすぐに埋もれてしまい、なかなか多くの方に見つけていただくのが難しい状況です。
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応援が大きな力となり、物語を続ける原動力になります!




