不死鳥の紋章
険しい傾斜を越え、濃い霧が一層深く二人の視界を覆った。
息を吐くたびに白くほどけ、森は音を失ったかのように静まり返る。
シンとヴァルターは、土と草に半ば埋もれた石階段を踏みしめながら進んでいった。
長い時を経て角が摩り減り、踏むたびに苔が潰れてぬめる。
やがて――
木々の隙間、霧の帳の向こうに、崩れかけたアーチ状の門が現れた。
「これは……凄いな……」
ヴァルターは足を止め、見上げて低く呟く。
「……城、ですか?」
城門へ続く石畳は、今なお道筋を保っていた。
その両脇には倒れかけた柱が並び、絡みつくシダと苔に覆われている。
そして奥に見えるのは、巨人の背のように聳える石壁。
人の営みから忘れ去られた悠久の時を超えて、そこに在り続けていた。
シンとヴァルターは歩みを緩めながら進む。
重く口を閉ざした門を潜った瞬間、空気がわずかに変わった。
湿った土の匂い、崩れゆく石の匂い――。
それはまるで、外界とは異なる理がここに満ちているかのようだった。
「……息が重い……」
シンは胸に手を当て、小さく呟いた。
ヴァルターも同じように胸の奥の圧迫感を覚え、しばし呼吸を整えてから口を開く。
「……なるほど、これが封じられた地の空気か。まるで外とは違う場所に踏み込んだようだ」
ヴァルターは腰のランタンを掲げた。
淡い炎が揺れ、石造りの広間をゆらゆらと照らす。
影は壁を這い、長い年月を物語るかのように、石壁には苔とシダが這い回り、亀裂には細い木の根すら伸びていた。
「……人の痕跡は、もうないな」
ヴァルターは低く呟き、崩れた壁の残骸に目をやった。
積み上げられていたはずの石は苔に呑まれ、装飾の欠片すら散り散りになっている。
まるで誰かが全てを持ち去り、ここにあった営みを跡形もなく消し去ったかのようだった。
シンは湿った空気を吸い込みながら、足元に転がる錆びた器の破片を拾い上げる。
かつて誰かが口にしたであろうそれも、今はただ風化した土の一部に過ぎなかった。
ヴァルターは焔をゆっくりと左右に揺らし、廃城の隅々に目を走らせる。
散らばる瓦礫の向こうには、崩れ落ちた柱。
風に混じるのは、石が湿り続けた重い匂いと、誰もいない空間を満たす冷たい空気だった。
やがて彼は足を踏み出し、背後のシンに短く告げる。
「奥へ……進めるところまで進んでみよう」
「……はい」
返事はまだ少し緊張を含んでいたが、迷いはなかった。
少年はランタンの炎に照らされた大きな背を追い、足元の石畳を踏みしめながら、暗闇へと続く道へ歩みを重ねていく。
崩れかけた壁の前で、二人は足を止めた。
そこに埋め込まれていたのは、石に呑まれながらもなお残る、古びた金属の扉。
中央には――翼を大きく広げた、不死鳥の紋章。
「……これは、扉……?」
シンは声をひそめる。
ヴァルターの眼差しが鋭く細まる。
「この城が、禁断の森に呑まれた街の中枢だとすれば……やはり、これはこの国の紋章か」
「国……ですか?」
シンは目を見開き、息を呑んで尋ねる。
「不死鳥――。
炎に包まれて死を迎え、その灰の中から蘇るとされる存在。
生と死の循環。滅びと再生。そして均衡の象徴……。
かつてこの地は、不滅の王権を誇った国であった。その証がこれだ」
ヴァルターの声音は厳かだったが、同時にかすかな皮肉が混じっていた。
不滅を誇ったはずの国は、今や森に呑まれ、記憶から消えている――。
シンは刻印に視線を注ぐ。
赤く浮かぶ不死鳥の翼は、今にも羽ばたきそうに輝き、彼の胸を熱くする。
その瞬間、彼の脳裏には鮮烈な幻のような光景が広がった。
――広大な街。人々が集い、笑い声が絶えない噴水の広場。
――灯火に照らされた石造りの街路。
――そして、夜空を映すように聳え立つ巨大な王城。
かつてここにあったはずの繁栄が、まるで彼自身の記憶の底に刻まれていたかのように、鮮明に浮かび上がった。
ヴァルターはためらわず、不死鳥の意匠に手を添えた。
すると――
――ゴォ……ォォン……!
低く唸るような震動が空気を伝った。
不死鳥の紋章がぼんやりと赤く脈打ち、まるで長い眠りから目覚めるように輝き始める。
扉全体が重々しく震え、積もった埃がぱらぱらと落ちる。
「……ッ!」
シンは思わず目を見開いた。
やがて、鉄と石が擦れ合う鈍い音を立て、扉はゆっくりと左右に開いていく。
奥から冷たい風が押し寄せ、長き時を閉ざされていた空間の匂いが流れ込んだ。
「すごい……これも封印門? 通路が……奥へ続いています」
少年は顔を近づけ、暗がりの奥を覗き込む。
そこには石畳の廊下が、灯のないまま果てしなく続いていた。
ヴァルターは一度だけ深く息を吐き、瞳を鋭く開いた。
「……行ってみよう」
その声には、決意と微かな昂揚が混じっていた。
炎を掲げて扉の闇に踏み入るヴァルターを、シンは慌てて追い、二人の影は古の廊下へと溶けていった。
通路はやがて下りの階段となり、ひんやりとした湿気が二人を包み込んだ。
石と土の匂いが濃くなり、足音と衣擦れだけが長い地下道に反響する。
沈黙の中、互いの息遣いすら異様に大きく響いた。
長い道を抜けたその瞬間、視界がふっと開けた。
シンとヴァルターは思わず足を止める。
そこは――広間だった。
天井は高く吹き抜け、崩れ落ちた石の隙間から一筋の光が差し込んでいる。
白い塵が光を受けて漂い、まるで星々が宙に浮かんでいるかのようだった。
息を吸い込むと、湿った石と古びた紙の匂いが混じり、長い時を経た静寂が肌にまとわりついてくる。
「……あれを見ろ」
ヴァルターの低い声に、シンは顔を上げる。
壁一面に――巨大な壁画。
その輪郭は苔とひび割れに覆われながらも、なお鮮烈にその形を主張していた。
「これは……」
シンの瞳が大きく見開かれる。
「この大陸の地図だ!」
ヴァルターの声は震えていた。
「我々が知る地よりもさらに先……山脈、河川……そして――ほかの紋章! 別の国だ!」
彼は食い入るように壁画を追い、その指先は描かれた線をなぞる。
それは知識の探究者としての彼を剥き出しにした姿だった。
シンはそんな師の横顔に圧倒されながらも、胸の奥に熱を感じていた。
これほどの知が、記録が、目の前に眠っていたのだ。
シンもまた鼓動を早めながら、広間を見渡す。
金の天球儀、巻物を収める筒、古びた杖や骨董品――時を越えて残された遺物たちが並んでいる。
その中央に、一際目を引く石版が佇んでいた。苔むした表面には文字が刻まれ、足元には一冊の装飾写本が置かれている。
「本……?」
シンは引き寄せられるように歩み寄り、膝をついた。
革の表紙は裂け、金の装飾はところどころ剥がれ落ちている。
だがそれが積み重ねてきた年月の重みを示していた。
「古びてもなお美しい……」
シンは震える指先でそっとそれを手に取り、開いた。
開かれた頁には、美麗な彩色画が並んでいる。
――灯を両手に掲げる王。
――十二人の導師。
シンは思わず息を呑んだ。
さらに頁をめくる。
最後の一枚に描かれていたのは――
光を抱く一人の少年の姿。
その顔立ちは、どこか自分自身に似ていた。
「……!」
シンの瞳が大きく開かれる。
次の瞬間、写本の頁がぼんやりと輝き、小さな火花が弾けた。
「――ッ!?」
シンは反射的に手を放しかけたが、写本は掌に吸い付くように離れない。まるで彼を拒まず、むしろ受け入れるように。
「シン、どうした!」
壁画を見ていたヴァルターが振り返る。
シンは必死に声を絞り出した。
「……手が……!」
彼の掌は、確かに光っていた。
淡い白光が脈を打ち、心臓の鼓動と同じリズムで広がっていく。
「……っ」
ヴァルターの表情が一変する。
目を見開き、思わず歩み寄った。
「なんだ、その本は……!? いや、それだけではない……その光……」
シンの胸はざわつき、呼吸が速くなる。
「これ……灯なのか……!?」
シンは思わず、腰に吊るしていた空のランタンにその灯を移した。
柔らかな光がゆらめき、冷たい石の広間をほのかに照らす。
ヴァルターはその灯と写本を凝視しながら、静かに目を細めた。
「……暖かい。これは確かに“灯”だ。それも素晴らしく純度が高い」
彼はシンの手にある装飾写本を見やり、低く告げる。
「……その本を見せてみろ」
シンは迷いながらも写本を差し出した。
ヴァルターは慎重に受け取り、その表裏を確かめる。
「……ミュレット……?」
中央に残る古代文字を読み取ると、他の文字は掠れてほとんど判別できなかった。
ヴァルターは眉を寄せ、力を込めて本を開こうとした。
しかし――
「……ッ」
頁はぴたりと閉ざされ、まるで他者を拒むかのように動かない。
ヴァルターがどれほど力を込めても、革表紙はびくともしなかった。
静寂の中、ヴァルターは低く呟いた。
「……シン」
その声音には、驚きと畏怖と、そしてどこか羨望にも似た響きがあった。
「お前は選ばれたのかもしれん」
「選ばれた……?」
シンの胸に鼓動が鳴り響く。
「そんな……ぼくなんかが……」
ランタンの灯は揺れることなく、むしろ力強く脈打っていた。
まるで否応なく、答えを告げているかのように。
ヴァルターは静かに石版を指さした。
「……読めるか」
シンはごくりと唾をのみ、石版に刻まれた文字へ目を移した。
深く刻まれた古代文字が、淡い光を帯びてゆっくりと浮かび上がる。
「はい……」
声が震えながらも、シンは読み上げていく。
「余は、灯を携えし王なり。
灯の国の愛しき子らよ――
灯を掲げよ。夜の闇を祓い、恐れず進め。
灯を束ねよ。隣人を敬い、心を寄せ合え。
灯を分けよ。命を助け、永く繁えよ。
たとえ闇がこの世を覆うとも、
旭日の日まで、灯は決して絶えぬ。
そは我が願い。そは我が誇り。
其方らの歩む未来に、永遠の愛と祝福を」
読み終えた瞬間、広間は凪のように静まりかえった。
壁も空気も、目に見えぬ“時”そのものが震え、刻まれた言葉は淡く脈打ち、響き渡る残響は、まるで古の王がこの場に甦り、今なお語りかけているかのようだった。
ヴァルターはその光景を見つめ、低く呟く。
「……王がお前を選んだのだよ。灯を携える者として」
シンの胸に、熱いものが込み上げる。
ひざまずき、無意識のうちに両手でランタンを抱きしめた。
瞳から零れた涙が石床に落ち、淡い光に溶けて消えていった。
ヴァルターは石版を見上げながら、遠い過去へ思いを馳せる。
「……我らは、記録官も村人も……この地に生きるすべての者が、元は“灯の国”の民なのかもしれん」
「……灯の国……」
シンの声は祈りのように掠れていた。
ヴァルターは深く頷き、さらに続ける。
「なぜ滅びたのかは分からん。だが――王は己が後世の民に“灯”を託したのだ。未来に生きる子らに、この奇跡の灯だけは、いかなる闇にも呑まれぬように……」
「……はい……」
シンの声は幼さを残しつつも、確かな誓いの色を帯びていた。
その瞬間、崩れた天井の割れ目から溢れ出した光が地上へ。そして、夜空へと一直線に伸びていく。
光はやがて翼を広げるように拡散し、その光景を見つめるシンの瞳に不死鳥の姿が映り込む。
やがて、ヴァルターの言葉が静謐な広間に響いた。
「国が滅びようとも、地に人が生きる限りその意思は――魂は、血の中に流れ続ける。
まるで灰の中から甦り、再び天を翔ける不死鳥のように――!」
『灯の断章 〜ココと記録の塔〜』をお読みいただき、本当にありがとうございます。
新人作家ゆえ、新作リストではすぐに埋もれてしまい、なかなか多くの方に見つけていただくのが難しい状況です。
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