森の守神
黒い毛並みのアグリが荒い鼻息を吐き、角に吊るされた光球を揺らして止まった。
ヴァルターとシンは背から降り立ち、目の前にそびえる巨大な門を見上げる。石に刻まれた古びた文字は、いまも威圧的に輝いていた。
「灯の未許可使用を禁ず」
風化した文字の奥には、数多の時代を超えてもなお効力を持ち続ける封印の気配が漂っていた。
ヴァルターは腰から古めかしいランタンを取り出し、朽ち果てた門脇の空ランタンへと灯を移した。青白い光が脈打ち、波紋のように門の縁を走る。
淡い光の線が幾筋も浮かび上がり、まるで生き物のように這い回りながら、錠前に見立てられた紋様を一つずつ解き放っていく。
やがて――
ゴゴゴゴゴ……ッ!
重い石の音とともに、門は左右へ押し広げられた。
シンは思わず息を呑み、ヴァルターに尋ねた。
「……どういう仕組みなんですか?」
ヴァルターは静かに門を見上げた。
「記録官に古く伝わる封印様式だ。灯をともすことで門は応じる。もっとも、これは灯の管理規定に背く行為ではあるが……」
ちらりと横目でシンを見やり、声を潜める。
「……ここだけの秘密だ」
ヴァルターは口の端をゆるりと吊り上げた。
重い門が左右に開ききると、冷たい空気が一気に流れ込んできた。
シンは思わず身を竦める。
「……これが、禁断の森……」
ヴァルターは淡々とした手つきでアグリを木に繋ぐと、表情を変えぬまま森の奥へ歩を進めた。
シンは背中を追うように後に続いた。
門を越えた瞬間、世界は一変した。
高く伸びた木々が絡み合い、枝葉は天を覆い尽くしている。昼であるはずなのに、森は深い陰に閉ざされていた。だがその暗さを和らげるように、無数の光虫が舞い、ほのかな光が天蓋の下を照らしている。
地面は苔とシダに覆われ、踏み込むたびにやわらかい感触が足を包んだ。ところどころ、古びた石畳が苔の下から顔をのぞかせる。
「……ここはもしかして……」
シンが呟く。
「ああ、人が暮らしていたんだ」
ヴァルターが低く答えた。
その言葉を裏付けるように、崩れかけた石の門や倒れた柱があちこちに見える。
その隙間から、小動物がぴょんと飛び出した。リスに似ていたが、背に淡い光を宿した小さな鱗が連なっており、光虫に混じって消えていった。
さらに進むと、木の根元に花を咲かせた奇妙な獣がこちらを窺っていた。シンが一歩近づくと、花はぱたりと閉じ、獣は一声もなく森に駆けていった。
「……生き物まで、どこか異質ですね」
「長い時の中で、この森だけが別の理に取り込まれたのだろう」
ヴァルターの声は落ち着いていたが、その目は森の奥を鋭く射抜いていた。
やがて二人は開けた一角に出る。
苔むした噴水が中央に佇み、枯れ果てた水盤には露を吸った小さな花々が群れ咲いていた。
人々の暮らしの気配は、もう淡い幻のようにしか残っていない。
「どれくらい古い物なんでしょうか……」
シンの声は、目の前に広がる遺跡の森に吸い込まれるように小さく響いた。
ヴァルターは足元の苔むした石畳を見やりながら答える。
「……ああ、数百年は経っているだろう。それにこの規模を見ろ。我々の住む村々など比べものにならん。ここには、かつて広大な街があった」
「街……」
シンは周囲をぐるりと見渡した。
木々の隙間に、崩れた石壁が顔を覗かせている。光虫の群れがそれを照らし、まるで失われた歴史の断片を浮かび上がらせているかのようだった。
「どうして記録官はこの森を封じているんですか? きっと失われた歴史を……紐解けるかもしれないのに」
シンの目は真っ直ぐだった。
だがヴァルターは一瞬だけ口を閉ざし、やがて低く答えた。
「……私を含め、何名かの記録官は過去にここを調査した。だが――この森には守神がいる」
「守神……?」
シンが小さく反復する。
声は森に溶け、光虫の群れがぱっと散り、すぐ群れ直した。
ヴァルターは噴水の縁に手を置き、崩れた石壁へと目をやった。
「この森は古き街をそのまま呑み込んでいる。だが同時に――侵す者を拒むための守りが備わっている」
低く落ち着いた声だったが、その瞳は険しい。
「過去に何人もの記録官がここを調査したが、皆、足を止められ、引き返すしかなかったのだ」
シンは眉をひそめる。
「……足を止められた?」
「さて、今回も同じか、あるいは――」
ヴァルターの言葉に、森の風がざわりと揺れる。
その瞬間、足元の苔が細かく震えた。
続いて――地の底から響くような低い唸り。
「ッ……!」
シンは思わず剣の柄を握りしめた。
苔に覆われた噴水の裏手で、石と石が擦れる音が高まり、やがて轟音となる。
メリ……メリメリッ……!
崩れた柱の奥、地面に埋もれていた巨岩がゆっくりと持ち上がっていく。
それはただの岩ではなかった。苔に覆われた石の塊が人型を成し、巨体は人の二倍以上。腕は鉄柱のように太く、脚は地を砕くほどの重さを帯びている。胸の中央で淡い灯が脈動していた。
「見ろ、シン。これこそが――守神、ゴーレムだ」
「まさか……これが……!」
ヴァルターは静かにランタンを腰に戻し、剣を抜いた。
光に照らされ、石の巨体がゆっくりと顔を上げる。
目に当たる部分が赤く光り、森全体がその光に飲み込まれた。
大地を震わせる咆哮。
苔の欠片が宙を舞い、光虫の群れが一斉に散る。
シンは息を呑み剣を構えると、目の前の巨影を見上げた。
ズシンッ……ズシンッ……!
ゴーレムは石床を震わせながら巨体を持ち上げ、石を割るかのように腕が叩きつけられる。
シンは咄嗟に飛び退いたが、地面に走った衝撃で苔と砂利が宙を舞った。
「シン、気を抜くな!」
ヴァルターは一瞬もたじろがず、巨体の右腕に斬りかかった。
――ガァンッ!
剣閃は石を裂くほどの衝撃を叩き込んだ。だが攻撃は直前で弾かれ、ゴーレムはびくともしない。
その代わり――胸のランタンから淡い光が走り、右腕に白い光の古代文字「秩序」が浮かび上がった。
シンもすかさず左足へ飛び込み、一撃を叩きつけた。
――ゴォンッ!
刃は届くことなく、ただ鈍い音を響かせた。
そこにもまた光が走り、古代文字が浮かび上がる。
「秩序と法……? 師匠、攻撃が効いてません!」
「ああ、恐ろしく硬い守りだ。なにか物理とは違う別の理に守られている」
ゴーレムの巨腕が再び振り下ろされる。二人は同時に飛び退き、その隙を縫ってヴァルターが左肩を狙った。
――ギィィンッ!
閃光と共に、左肩には「平和」の文字が刻まれた。
「あの文字は……平和……?」
さらにヴァルターが右足へ剣を振るえば、そこにも「平和」が浮かぶ。
二箇所に同じ文字。だがゴーレムは止まらない。
「平和が二つ……?」
シンは必死に考えを巡らせながら、再び左足を叩いた。
すると刻印は「法」から「自然」へと変化した。
「文字が……変わった!?」
驚愕と同時に、シンの胸に閃きが走る。
「……そうか! 刻印は両腕、両肩、両足、計六つの部位に現れ、叩いた部位の文字が変化していくんだ!」
「なるほど、文字を組み合わせろと言うことか」
ヴァルターが剣で攻撃を受け止めながら感心して言葉を返す。
シンは必死に叫んだ。
「均衡です! 左右対称に! 法は法、秩序は秩序、平和は平和……それぞれ対になる部位を合わせるんです!」
「……よし、任せろ!」
ヴァルターの口元が緩み、眼差しが鋭く光る。
ゴーレムは地を震わせ、巨腕を振り下ろした。
ヴァルターが咆哮と共に斬り上げ、右肩を斬り払う。
――ギィィィン!
石を割る音と共に、右肩に白光が走り「混沌」の文字が浮かぶ。
すかさずシンは反対側の腕へ駆け込み、全力で剣を振るう。
――ガァンッ!
そこに刻まれたのは「秩序」。
両腕が互いに反発するように光を脈打ち、ゴーレムの胸のランタンが大きく脈打った。
「よし、両腕の文字が揃った!」
シンの声は希望を孕んでいた。
「よくやった!」
だがゴーレムはなお動く。
ヴァルターが右足を斬り払うと、そこに浮かんだ「平和」は淡く揺らぎ、「自然」へと姿を変えた。
「あと一つ……肩を合わせれば!」
シンは駆けながら叫ぶ。
次の瞬間、ゴーレムの右腕が振り下ろされ、シンを叩き潰さんと迫る。
逃げきれない――そう悟った刹那。
――ガキィィィィィィンッ!
ヴァルターが前に躍り出て、その剣で衝撃を受け止めていた。
火花が散り、剣身が軋む。
「シンよ」
「はい、師匠!」
シンは歯を食いしばり、跳び上がる。
渾身の一撃が右肩を捉えた。
――ガァァァンッ!
瞬間、右肩の文字が「混沌」から「平和」へと変わった。
「……できた! 左右対称に……! これで――!」
胸のランタンが眩く明滅した。
だが次の瞬間――
「グォォォォオオオッ!!」
ゴーレムは吠え猛り、両腕を振り上げる。石床が爆ぜ、周囲の苔や瓦礫が宙に舞った。
攻撃の速度はむしろ増している。
「なっ……!? 止まらない……!」
必死に身を翻したシンの頬を、飛んだ破片が掠め血が滲む。
彼は愕然と足を止めた。確かに揃えたはずだ。均衡を保ったはずなのに――。
ヴァルターは交互に振り下ろされる腕を剣で押し返しながら、横目でシンを見やる。
「……違うぞ、シン」
「え……?」
「同語は対じゃない。――模倣だ」
剣に火花を散らしながら、低く続けた。
「光と闇があるから影が生まれるのだ」
シンの心臓が跳ねた。
「均衡……」
ヴァルターは剣を構え直し、ゴーレムの左肩を狙って一閃。
その瞬間、左肩に「戦争」の文字が浮かぶ。
「“平和”の対は“戦争”だ」
その言葉に、シンの視界が閃光のように開けた。
彼が塔で書き連ねた「均衡」の文字。その真意は――
「……そうか……!」
シンは駆け出した。
ゴーレムの振り回される腕を交わしながら、右足を狙い、渾身の一撃を叩き込む。
「そこだ!」
白い光が走り、「法」の文字が浮かび上がる。
「“法”の対は“自然”!」
対となる「自然」が刻まれた左足と呼応し、両部位の光が一瞬、淡く脈打った。
シンは振り返り、叫ぶ。
「師匠! 均衡とは、調和ではなく――対立の釣り合いなんだ!」
シンの声は、荒い息の中に確かな確信を帯びていた。
ヴァルターの口元がわずかに綻ぶ。
「……その通りだ」
次の瞬間、ゴーレムの巨腕が唸りを上げ、ヴァルターめがけて迫ってくる。
圧倒的な質量が落ちてくるのに――彼は一歩も退かなかった。
ヴァルターは目を尖らせ、一瞬で軌道を見極めると、体を紙一重でずらす。
轟音と共に巨腕が石床を砕く。その破片が宙を舞う中、彼の剣が閃いた。
シュバァァンッ!
刃が返され、淡く光を放ちながらゴーレムの腕をなぞる。
硬質な岩肌に「混沌」の古代文字が刻まれ、じわりと光が広がった。
「“秩序”の対は“混沌”だ!」
灯の光が揺らぎ、ゴーレムの動きが一瞬止まる。
だが、その巨体はまだ完全には止まらず、動き出した。
「均衡は保たれたのに、まだ……止まらない。もしかして――頭か!」
シンは息を切らしながら駆け寄り、渾身の力で剣を振り下ろした。
――ゴォォォンッ!
重苦しい音が森に轟き、ゴーレムの頭に光が走る。
石肌に古代文字が刻まれ、そこに浮かび上がったのは――
「生……ッ!? まだ、文字が……!」
シンの声が震えた。
ヴァルターは眉間に深い皺を寄せ、鋭い眼差しを光らせる。
「頭の対になる部位はどこだ……?」
シンは必死に文字を探す。だが、ゴーレムの胸のランタンは強く脈動し、答えを急かすように脅威を放ち続ける。
「わからない……! 師匠、どうすれば――!」
「シンよ、下がっていろ」
「え……?」
ゴーレムがゆっくりと身体を起こし、ヴァルターの前に立ちはだかる。
振り上げられた腕の影が、彼を覆い尽くした。
ヴァルターは剣を下ろし、その切っ先を地に付けた。それは恐怖ではなく、答えを示す覚悟のように見えた。
その姿に、シンは目を見開く。
「師匠!? 逃げてください!」
次の瞬間、ゴーレムの腕が唸りを上げ、ヴァルターの頭目掛けて振り下ろされる。
「師匠ーーッ!!」
轟音と共に大地が震えた――が。
石の拳は、ヴァルターの頭上でぴたりと止まった。
ギリギリと石が軋み、それ以上は動かない。
「……己の対は己ではなく、常に他者である」
ヴァルターの低い声が響く。
「そして、生の対立概念は――“死”だ」
その瞬間、ゴーレムの頭部に刻まれた「生」の文字が深紅に変わり、「死」の文字が浮かび上がった。
二つの対が揃ったとき、眩い閃光が全身を駆け抜け、ゴーレムの巨体はゆっくりと膝を折り、硬直した。
シンは荒い息を吐きながら、震える手で剣を握りしめた。
ヴァルターは静かに振り返り、口元に笑みを刻む。
「……見事だ、シン。お前の学びが、道を切り拓いたぞ」
『灯の断章 〜ココと記録の塔〜』をお読みいただき、本当にありがとうございます。
新人作家ゆえ、新作リストではすぐに埋もれてしまい、なかなか多くの方に見つけていただくのが難しい状況です。
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