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均衡の教え

記録の塔――


それは今でこそ冷たい石造りの要塞に過ぎない。

厳格な規律に支配され、ひとつひとつの灯は数に換算され、管理台帳に記録され、決められた日に配給として下される。

人々にとってそこは「支配と監視の象徴」となって久しい。


だが――かつての塔は違った。


かつて塔は知の殿堂であり、大陸最大の学問所だった。

石壁の内側には幾万巻の書物が並び、天井に届くほどの書架が果てしなく連なっていた。

階ごとに学問の領域が区切られ、星の運行を記す者、農作を改良する者、病を治す薬を調合する者、灯の性質を研究する者――


あらゆる知が集まった。


記録官とは、ただの役人でもなければ、ただの戦士でもなかった。

彼らは学者であり、調停者であった。


村々に灯を分配し、秩序を守り、灯喰いが現れる徴候と見れば、討伐隊が組まれた。彼らは知と武の両輪を兼ね備えた存在。誇りを胸に抱いていた。


――


白い石で積まれた螺旋階段を、三人の影がゆっくりと登っていた。


先頭を行くのは黒いマントを羽織ったヴァルター。その斜め後ろに、がっしりとした体格のグレイブが重い足取りで続く。少年シンは小走りで二人の背を追いかけていた。


「グレイブ、採掘場はいいのか?」


階段の踊り場でヴァルターが振り返る。


「……ああ」


グレイブは腕を組み、少し得意げに答えた。


「今はカリヤが身籠っているからな。

ここには産婆もいるし医学者もいる。あの現場はセバスティアンに任せておけば安心だ。奴は堅実で抜け目もない。しばらくは塔にいられるさ」


「なるほどな」


三人はある層で歩みを止めた。


記録官居住層のサロン。

夕陽が窓から射し込み、石の床を橙に染めていた。並べられた机の上には分厚い帳簿や古い巻物が散らばり、かつて学問所としての威厳を誇った名残が、どこか柔らかい温もりに包まれている。


「カリヤ、俺が帰ったぞ!」


低い天井を震わせるほどの大声がサロンに響いた。

入ってきたのは、筋骨隆々の大男――グレイブだった。戦斧を背に担ぎ、豪快に腕を広げる。


サロンの奥。大きな窓際の椅子に腰かけ、外の景色を眺めていた女性が振り返った。


上級記録官カリヤ。桃色の衣を纏い、栗色の髪を整えて束ねている。清楚さの中に凛とした意志を宿し、大きな瞳は柔らかな光を帯びていた。両手は、膨らんだお腹を優しくさすっている。


「グレイブ、そんな大声を出したら、お腹の赤ちゃんが怖がるでしょう? それにあなた、その言葉遣い……!」


静かな叱責に、豪快な男は思わずはっとして口をつぐむ。


「生まれてくる子には正しい言葉遣いを教えたい。誇り高い人間に育てたいって言ったのは、あなたでしょ?」


「す、すまない……わ、私が……帰り……ました!」


妙に固い調子で背筋を伸ばしたグレイブの声に、サロンの空気がふっと緩む。

書き物をしていた記録官たちが顔を上げ、くすくすと笑いが広がった。


「……ただいまでいいのよ」


カリヤが、ふくらんだお腹をなでながら微笑む。


その様子を見ていたヴァルターは、隣で肩を揺らして笑った。


「相変わらずだな、グレイブ。だが、その真面目さはお前の美徳でもある」


彼の横には背筋をぴんと伸ばした小柄な少年が立っている。黒髪に少し煤がつき、粗末な衣の裾を握りしめている。少年の瞳は、不思議そうに場を見回していた。


「あら、かわいい子ね。どちら様?」


カリヤがやさしく言った。


ヴァルターは少年の肩に手を置いた。


「こちらはシン。出先で偶然出会った孤児でな。身寄りがないというから、塔に連れてきた」


少年は慌てて深々とお辞儀をした。


「……連れてきたって。マリアンはどう思うかしら?」


カリヤの眉がわずかに寄る。だがその声音には怒りではなく、心配の色が混じっていた。


「心配はいらない。私が鍛えて立派な記録官にしてみせるさ」


ヴァルターはにやりと笑った。


「まったく、あなたはいつも勝手なんだから……」


呆れたように首を振るカリヤ。けれど、その目が少年と重なると、母のような優しさを帯びてこう言った。


「ようこそ、記録の塔へ」


シンは思わずたじろぎ、声を詰まらせる。


「……あの、その……お腹……?」


シンは恐る恐る尋ねた。彼の視線はカリヤのお腹に吸い寄せられていた。


「ふふ……気になるのね」


カリヤは両手で丸いお腹をさすりながら微笑む。


「ここにはね、赤ちゃんがいるの。もうすぐ生まれてくるのよ。早く会いたいって、よく動くの」


少年の瞳がさらに大きく見開かれた。


「俺とカリヤの子だ!」


グレイブは胸を張り、にかっと笑った。


「男なら俺に似て逞しく、女ならカリヤに似て美人になるぞ!」


「グレイブ、俺じゃない! “私”でしょ!」


慌てた訂正に、サロンがまた笑いに包まれる。


カリヤは苦笑しつつ、少年へ優しく手招きした。


「シン、耳を当ててごらんなさい」


少年は目を丸くしながらも、おそるおそる歩み寄った。小さな手がためらいがちに伸び、やがて彼の耳はカリヤのお腹に触れた。


――ぽこん。


驚きに、シンの肩がびくりと大きく震えた。


「う、動いた……!」


その声に、三人は思わず笑みをこぼした。

グレイブの大声が再び弾け、ヴァルターは口元を緩め、カリヤは穏やかな光を宿していた。


シンは腹を見つめたまま、言葉を失った。

胸の奥に、これまで知らなかった温もりが広がっていく。自分には決してなかったもの――家族という光景。

その一瞬を、少年は忘れない。


――


乾いた木の音が、訓練場に響き渡る。

まだ幼さの残る少年――シンが、汗を飛ばしながら木剣を振り下ろしていた。額から汗が滴り、石の上に暗い染みをつくる。


「踏み込みが甘い!」


「剣先がぶれている!」


「もっと集中しろ!」


低く鋭い声が飛ぶ。隣にはヴァルターが立っていた。背筋を伸ばし、ただシンの一挙手一投足を射抜くように見据えていた。


「はぁ……はぁ……」


シンは肩を大きく上下させ、荒い息を吐いた。小さな胸が波打ち、足元がふらつく。


「もうへばったのか? シンよ」


ヴァルターの聲は冷たいが、その奥には確かな期待がこもっていた。


「それでは一人前の記録官はほど遠いな……」


シンはぐっと歯を食いしばる。握る木剣が汗で滑りそうになるのを必死で抑え、再び構え直した。


「う……うわああああッ!!」


喉が裂けるほどの叫びとともに、荒々しく木剣を振るう。


「やあッ! たぁーッ!」


空気を切り裂く音が連続する。踏み込みはまだ浅く、剣先も揺れている。だが、その目には折れぬ光が宿っていた。


ヴァルターは腕を組んで見つめていた。

次の瞬間、口元がかすかに緩む。


――この少年は、叩かれてもなお立ち上がる。何度倒れても、剣を振ることをやめない。


「よし……まだだ。もっとだ、シン」


低く、それでいてどこか嬉しげな声が落ちる。

シンはその聲を耳にして、再び剣を振った。汗と埃が宙を舞い、訓練場の窓から夕陽がそれを赤く染めていた。


――


記録の塔――その中層には、無数の書物が積み重なった広大な書庫があった。


その一角に、小さな机が据えられていた。机の前には椅子に腰掛けるシン。


幼さの残る手に羽根ペンを持ち、白紙の帳面にぎこちなく文字をなぞっている。


「……ふむ。悪くはないな。だが、“均衡”の“衡”は、もう少し下を長く引け」


横に立つヴァルターが、静かな声で指摘する。長い指が帳面の文字をなぞると、シンは慌ててペンを動かした。


「きん……こう……。これで、いいですか?」


「うむ。均衡とは“つりあい”のことだ。灯と闇、富と貧しさ、戦と平和……どれも均衡が崩れれば災厄が訪れる」


シンはこくりと頷く。しかし眉間に皺を寄せ、口を尖らせた。


「でも、むずかしい言葉です……。均衡って、どうしてそんなに大事なんですか?」


ヴァルターは少し笑みを浮かべ、背後の棚から一冊の黄ばんだ冊子を抜き取った。革の表紙はひび割れ、角は擦り切れている。


「これは“古記”だ。百年以上前の記録官たちが、灯をどう管理したかが古代文字で刻まれている」


机の上に置かれた瞬間、埃がふわりと舞った。シンは身を乗り出して、ページを覗き込む。


そこにはこう記されていた。


『灯は満たしすぎてはならぬ。溢れた灯は人の欲を肥やし、やがて秩序を蝕む。

灯は惜しみすぎてもならぬ。欠けた灯は民を荒ませ、やがて秩序を崩す。

配るは秤のごとく、余らず欠けず、ただ均しく――』


シンは声に出して読み、眉をひそめた。


「むずかしい……でも、均しくって、全部の人に同じに分けるってことですか?」


「そうだ」


ヴァルターは頷いた。


「だが実際はそう簡単ではない。強き者はより多くを求め、弱き者は奪われやすい。だから記録官は“秤”となる。古記が教えているのは、均衡を保つことだ」


「きんこう……」


ヴァルターは本を閉じ、シンの頭を軽く撫でた。


「だから記録官は学ばねばならん。文字を覚え、歴史を知り、均衡を保つ術を探すのだ」


シンは口を引き結び、帳面に「均衡」と書き直した。幼い筆跡ではあったが、その筆には決意がこもっていた。


「師匠……ぼく、ほんとうに記録官になれるんですか?」


「なるとも」


ヴァルターはためらいなく答える。


「剣を振るい、書を読み、均衡を学び続けるならば、お前は立派な記録官になれる」


シンの瞳に再び光が宿った。


「……師匠みたいに?」


ヴァルターは短く笑った。


「私のようになりたいのか?」


「はい!」


小さな声は、しかし力強く響いた。


ヴァルターは返事をせず、ただ無言で頷いた。その横顔はどこか誇らしく、ほんのわずかな照れが混じっていた。


――


焚き火がパチリと弾け、夜の森の冷気を切り裂くように音を立てる。小さな丸石を囲んで二人は腰を下ろしていた。ヴァルターの手許には古めかしい鉄のランタンがあり、檻の中で揺れるオレンジの炎が、彼の深い皺を柔らかく照らしている。


シンはその灯りをじっと見つめ、顔を上げて問うた。

 

「師匠、どうして師匠のランタンは灯じゃなくて、旧式の炎を使うんです? 不便じゃありませんか」


ヴァルターはランタンを持ち上げ、炎の揺らぎを指先で追うように見つめた。

火は小さく、しかし確かな熱を放っている。周囲の闇に艶めく粒子を撒き散らしながら、ふっと息を吸って答えた。


「確かに、灯の光は便利だ。均質で強く、遠くまで届く。だが、我々が下界へ出るときの目的の多くは灯喰いの討伐だ。灯喰いは灯を喰らうからな」


シンは納得したように小さく唸り、焚き火の跳ねる火の粉を睨む。少し間を置いて、彼は続けた。


「なるほど……じゃあ、ここにいるときは不便でも戦場では理にかなってる、と」


ヴァルターは軽く笑い、ランタンの蓋を指で撫でると、静かに蓋を開けた。燃え残る炎を見つめ、そしてふっと息を吹きかける。火は一瞬にして消え、ランタンの中は冷たい暗闇に戻る。


「闇に紛れて行動するなら、こちらがいい。自由に消灯できるからな」


その言葉に、シンの目が一瞬だけ丸くなった。


「家内に隠れてよその女に会いに行くには便利だ」


ヴァルターはにやりと口角を上げ、低く笑った。


「おっと、今のは余計な応用だったか」


「……師匠」


シンが苦笑を浮かべると、ヴァルターは大きく肩を震わせて笑い声を上げた。

火の消えたランタンの中で、二人の笑いが夜の静けさにこだました。

『灯の断章 〜ココと記録の塔〜』をお読みいただき、本当にありがとうございます。

できるだけ早い投稿を心がけて執筆を続けています。


もし物語を気に入っていただけましたら、ブックマークや評価をしていただけると嬉しいです。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

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