蘇りの槍
――カン、カン、カン、カン、カン……。
石段を駆け降りる靴音が、塔の内部に反響する。
先頭を行くのは、ロイを背負ったフレア。汗に濡れた赤い髪が振り乱れ、その背中にかかる重みをものともせず、強靭な脚で駆け下りていく。
後ろから必死に追うのは、胸にミュレットの書を抱えたココだった。
「フレアさん、大丈夫ですか!?」
「何が!」
「ロイを背負って、重くないですか!?」
「重いわよ!でも大丈夫!」
短く吐き出すような声。それでも足取りは乱れない。
「こいつ、気持ちよさそうに寝ちゃってるし!」
「ご、ごめんなさい……!でも、私……ロイに助けてもらったんです!」
「なんであんたが謝るのよ!」
フレアは振り返らずに言い放つ。
「あんなところに置いていけるはずないでしょ。……せめて下の居住層までは連れて行くわよ!」
息を荒げながら、ココは踊り場に差しかかった。壁の大きな窓はガラスが外れていて、そこから外の様子が一望できる。
闇に染まる空。
黒い靄が塔の周囲を覆い、無数の赤い目がぎらついていた。翼を広げた鷲の灯喰いが旋回し、猛禽の鳴き声を響かせている。下方からは、地を震わせる咆哮と金属の衝突音、そして人々の叫びが混じり合った戦いの喧騒が押し寄せてくる。
「あぁ……灯喰いが……!」
ココが叫ぶ。
フレアも立ち止まり、ココの横から覗き込む。赤黒い光景が彼女の瞳に映り、険しい皺が額に刻まれた。
「……まずいわね」
ココは喉を締めつけられるような感覚に襲われた。
(みんな……戦ってるの……?)
そして、ひとりの顔が脳裏を過った。
(トマスおじさんも……? おじさん、大丈夫……?)
ココの胸の奥がぎゅっと痛んだ。
――
「はぁ、はぁ、はぁ――」
トマスは走った。巨熊と対峙する金色の男の元へ。
血に塗れ、鎧は割れ、頭から赤い筋を流しながら、それでも槍を構えるその背中へ。
息を切らしながら胸に抱えたココのランタンを握りしめる。
中にはココから託された灯。
一夜にして畑を黄金に染め、子どもの怪我を癒した奇跡の灯。
――これを、この男に届ければ。
もしかしたら、この地獄のような状況を……打開できるかもしれない。
だが――
「……記録官に……灯を返すだと?」
胸の奥で言葉が唸った。
「冗談じゃない……!」
拳を握り、震える。
だが同時に、視線は離れなかった。
あの背中を。あの誇りを。
「これはココの灯だぞ。あの子が嫌な思いをしてでも、俺たちを喜ばせるために与えてくれた灯だ」
――それでも今は、信じるしかない。
――この男の力に。
胸に抱えるランタンから柔らかな光がこぼれ、荒んだ空気を押し返すように広がった。
「ココ……!」
名前を呼んだ瞬間、胸に熱いものが込み上げる。視界が滲み、足が勝手に動いた。
「あんたッ!」
叫ぶように言いながら、トマスは巨熊と対峙する金色の鎧の男――ガイウス・バルナークのそばへ駆け寄った。
地が揺れ、耳を裂く咆哮が響く中で、満身創痍の男はなお槍を握りしめ、立っていた。
トマスは息を切らしながらランタンを胸の高さまで掲げ、その光を彼へと差し出した。
ガイウスは槍を構えたまま、トマスを振り向いた。
煤と汗に汚れた農夫の手が差し出すランタンは小刻みに震えている。だが、その瞳だけは揺らがなかった。
「あんた、この灯を……使ってくれ!」
ガイウスは一瞬顔をしかめた。ランタンの中で揺れる光は、これまで記録官が配給してきた青白い灯とは違っていた。暖かく、柔らかく、包み込むような色合いだ。
「民か、これは……?」
低い声に、槍の柄がわずかに震えた。
「ココの灯だ!巫女の灯だ!あんたが浴びれば、その傷を癒せるかもしれない!」
トマスの声は、怒鳴りにも似た切迫を帯びていた。だがそれは恐怖の叫びではない。
命を賭してでも信じたい、必死の訴えだった。
周囲の空気が一瞬、静まる。戦場の喧騒が遠のいたわけではないが、二人の世界だけがくっきりと浮かび上がった。
「巫女の……灯か」
ガイウスの口からこぼれた呟きは、規律に縛られた記録官の冷徹さをかすかに崩した。
そして、彼は問う。
「……お前たちは、灯を返せとここまで訴えに来たのではないか。なぜ……記録官である俺に、その灯を渡そうとする?」
その刹那、トマスの脳裏に稲妻が閃いたかのような衝撃が走る。
問いかけは静かだが、その裏にある意味は重い。そこにあるのは嘲りでも憤りでもない。
まるで試すような声だった。
脳裏に、忌まわしい記憶が蘇る。
暗い部屋。椅子に座り、俯く自分。
「……村の灯が少々足らんのですが、少し分けてはいただけませんか? お願いします」
必死に頭を下げる声が震えていた。
足を組み、薄笑いを浮かべる記録官。
「村の灯は我々が管理している。まだ配給日ではないだろう。規律に従え」
その冷たい視線に、頭を上げることすらできなかった。
あれが、記録官。
人々の灯を奪い、踏みにじる存在。
――なのに。
トマスは瞬きをし、歯を食いしばった。
目の前で戦うこの男はどうだ。
血に塗れ、倒れ伏した仲間の亡骸を背に、それでも槍を構え続けている。
人を守るために、自らを犠牲にして。
「き……!」
トマスの喉の奥が震える。
「記録官だから、じゃねえ……!あんたが、人を守るために戦ってるからだ!」
声が割れるほどの叫び。
「俺たちにとって灯は生活の要だ!なけりゃ生きていけない!記録官は、それを平気で取り上げる!」
さらに、声音が上がる。
「だが……、あんたは違う!……あんたは皆を守るために血を流してる!立場や規律なんて関係ねえ!あんたは人を守ってる!だから……、俺はあんたにこの灯を預けたい!俺たちは人間同士だ!……頼む!!」
トマスの言葉には恨みも欲もなかった。あるのはただ、目の前の一人を信じるという決断だけだ。
ガイウスは静かにランタンを見つめる。暖かな光が彼の鎧の隙間に淡く映り、顔の傷をほのかに照らす。拳をゆるめ、呼吸を整えた。
「……よかろう、感謝する」
言葉は短かった。だがその響きは、武勲と誇りを重んじる者の合図だった。ガイウスはランタンの灯を掌へと移し、ゆっくりと胸元へ掲げる。
ふわりと広がった光が、彼の胸を包んだ。
傷口に触れた瞬間、熱と冷たさが同時に走り、凝り固まっていた肉がほどけていく。
裂けていた皮膚は瞬く間に塞がり、折れていた肋骨はみしみしと音を立てて元の位置に戻る。
「……ぐっ……おぉぉ……!」
呻きと共に膝が一瞬折れる。だが、それは衰弱の崩れではなく、押し寄せる力に身体が慣れるまでの僅かな間。
次の瞬間、金色の鎧の隙間から迸るような光があふれ、雷光が走るかのごとき眩さを纏った。
「力が……みなぎる……!」
深く息を吐き、肩を大きく回すと、血で重くなっていた腕が軽やかに槍を振った。
トマスはほっと息をもらすように肩の力を落とした。周囲の村人たちの顔が少し、明るさを取り戻す。
「借りは必ず返す!下がっていろ!」
ガイウスは鋭く手を振った。
その声には、力強い命令と同時に、民への揺るぎない信頼が込められていた。
トマスは胸を打たれたように一歩退き、その場を彼に託した。
ガイウスは鋭い瞳を細め、槍を水平に掲げる。
額に血を流しながらも、その表情は誇りそのものだった。
「――雷帝ガイウス・バルナークは蘇った!」
低く、しかし轟くような声が戦場を揺らす。
「真の雷槍を……その身で受けるがいいッ!!」
トゥルアはその声にハッとすぐに姿勢を正し、雷鳴に応えるように声を張り上げた。
「もう一度――引いて!!」
労働者たちが一斉に綱を握り直す。
「いち――ッ!」
「に――ッ!」
「――さん!!」
地が震え、白い砂塵が爆ぜる。
巨熊の灯喰いの巨体がぐらりと揺れ、足首に食い込んだ縄がさらに沈み込んだ。
「グオオオオォォォォォォッッ!!」
黒い蒸気が吹き上がり、巨躯が崩れかける。
前足が必死に空を掻き、爪が虚空を切り裂いた。
「ガイウス殿!!」
執事が名を呼ぶ。
その声に応えるように、ガイウスは目を閉じ、短く頷いた。
次の瞬間、槍が再び構え直される。
雷鳴の直前、空気を刺す静電気が走り、周囲に緊張が広がる。
――バチッ、バチバチバチ……!
青白い閃光が鎧の隙間を這い、槍の穂先に集まっていく。
労働者たちも、村人たちも、その光景に息を止めた。
全ての視線がただ一人、金色の男に集まる。
そして――
ガイウスの目が開かれた。
「聞けぇい!!我こそは雷帝!幾度倒れようとも、何度でも立ち上がる!!貴様に示すは、雷の裁き!!」
空気が張り詰め、槍を握る手に力が込められる。
「――轟雷穿滅槍ッ!!」
ズガガガガガガガガガガガガガガガガガッ――!!
槍が振るわれる度に空気が爆ぜ、無数の雷撃が閃光の連突となって巨熊を貫く。
その速さは稲妻のきらめきを束ねたかのごとく、ただ一条の白き直線に見えた。
「うおおおおおおッ!!」
巨熊の足首はなおもロープに絡め取られている。労働者たちの両腕が震え、盾の民が空からの強襲に耐え、トゥルアの声が張り上げられる。
「これが最後ですッ!引いてぇぇッ!!」
「いち――ッ!」
「に――ッ!」
「――さん!!」
地が裂け、砂塵が爆ぜ、黒い巨体がついに――
――ドオォォンッ!!
轟音と共に、巨熊の巨体は大地に沈んだ。
地が跳ね、砂塵が一斉に舞い上がる。
「……やったのか……?」
労働者の誰かが、息の合間に小さく笑みを漏らした。
張り詰めていた空気に、わずかな緩みが生まれる。
だが――
「綱を保ちなさい! 立ち上がらせるな!」
執事の鋭い声が戦場に突き刺さった。
「迂回して巻き込まれぬよう、距離を取りなさい!」
はっと我に返った労働者たちが慌てて体勢を整える。半円を広げるように縄を張り後退していく。
縄は悲鳴を上げるようにきしみ、無数の手のひらを切り裂いた。血が滲み、汗に混じって滴り落ちる。
「グァアアアアアアアアッッ!!」
巨熊はまだ死んではいない。
低い唸り声を洩らしながら、横倒しになったその胴が痙攣のように震え、押し潰すように腕が振り回される。
わずかにでも縄が緩めば、この巨影は再び立ち上がるだろう。だが、引き絞られた足は地を掴めず、崩れ落ちるばかり。その暴れは、もはや死に際の悪足掻きにも近い。
その瞬間、金色の鎧が跳躍した。
ガイウス・バルナーク。血と煤に汚れながらも、雷帝の名を背負う男。空に放たれたその姿を、誰もが見上げた。
トゥルアが、執事が、クローが、トマスが。
民も、労働者も、記録官も。
胸の内で掲げたものは、それぞれに違う。
誇りか、祈りか、それとも――希望か。
「灯を喰らう巨悪の獣よ――!これが人間の裁きの雷だッ!!」
闇を覆う空に、一点の光。
稲妻のような閃光が戦場の影を照らした。
それは槍が描く雷光。
刹那――
――ズドォォォォォンッ!!
轟音が大地を震わせ、巨熊の胸板を雷槍が貫いた。黒い霧が噴き出し、重苦しい空気を切り裂いていく。
時間が止まったかのようだった。
槍を握る金色の男の輪郭だけが鮮烈に焼きつき、誰もが、ただ息を呑む。
「……!」
トゥルアは歯を食いしばり、縄を握る腕に力を込めた。血で濡れた掌が痛む。だが彼女は笑った。声なき笑みが、確かに彼女の中にあった。
黒い瘴気となり、巨熊の影は崩れて消えていく。
その上に立つ雷帝ガイウス・バルナーク。傷だらけの鎧が反射する灯の光が、稲妻のようにきらめいた。
彼女の信じていた誇り高き記録官が今、ここに立っている。
トゥルアはその姿に応えるように、レイピアを掲げた。
細い刃は針のように鋭く光を受け、誓いを象徴する旗印のように空へ伸びる。
「私たちは、先程まで敵同士だった!
ですがあの化け物たちを倒さない限り、人は生き残れない!村人も、炭坑夫も、記録官も――もはや関係ありません!
共に立ち、共に戦い、私たちの灯を守りましょう!」
その瞬間、周囲にざわめきが走った。
民も、記録官も――。
次々と武器が掲げられ、農具を握る腕が振り上がり、血に濡れた拳が天を突く。
ガイウスは彼女を見下ろし、トゥルアは血に濡れた頬を上げ、まっすぐにその視線を返した。
二人の瞳が交わり、互いの覚悟が言葉なくして伝わった。
まだ戦いは終わらない。
だが、立場も隔たりも越え、ただ一つの団結がここに生まれた。
「お嬢様……よくぞ」
執事の声が、震えを含みながら響いた。
『灯の断章 〜ココと記録の塔〜』をお読みいただき、ありがとうございます。
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