結束
「はぁ……はぁ……」
クローは呆然と立ち尽くしていた。
「あ……?」
巨熊に立ち向かい、その足首へとロープを巻き付けたトゥルアの姿。彼女は最後の結びを終えると、レイピアを振り抜く勢いで縄を引き寄せ、土煙を巻き上げながら駆け戻ってくる。煤と血で濡れた裾がはためき、その背に執事と労働者たちが続いていた。
「……何やってんだよ……とっとと逃げろって……」
呻きが漏れる。眉間に深い皺が刻まれた。
――俺たちは死にに来たんじゃねぇ。
記録官から灯を奪い返して、また酒を酌み交わす。それでよかったはずだ。
だがアーゼの村はどうだ。
どれだけの仲間がもう、地に伏した?
振り返れば、盾を抱えた村人たちが怯え、身を縮めていた。その傍らに土にまみれて倒れている亡骸が数体。
彼らも同じように盾を握っていた。
割れた木の破片と、血に染まった金属の縁。どれも、最後まで仲間を守ろうとした証だった。
「……俺が煽ったせいで、死んだのか……?」
喉が焼けつくように痛む。握りしめた拳が小刻みに震えた。
「……すまねぇ、みんな……」
視線を落としたそのとき、空が翳った。
クローは顔を上げる。
「……あ……?」
旋回する巨大な影。
翼を広げた鷲の灯喰いの群れが、空を覆っていた。
赤く光る双眸が、ロープを握りしめる労働者たちを射抜く。猛禽の目は獲物を離さず、獲り殺す刃のような気配を放っていた。
――
労働者達が、一斉に綱を握る。
息が吸い込まれ、きしむ音が一斉に鳴った。
「いち――」
執事が声を張る。トゥルアも、手のひらに焼けるような痛みを感じながら綱に力を込める。
「――に!」
巨熊の足首に食い込む縄が、ぎりぎりと締まっていく。
黒い蒸気が噴き出し、毛皮の奥から軋むような音が伝わってきた。
「――さん!!」
丸結びの輪が一気に絞られた。
皮膚の下で黒い灯が反発し、甲高い悲鳴のようなきしみが走る。
巨体がわずかに揺らぎ、地鳴りのように土が振動する。
「もう一回ッ!」
トゥルアの叫びに、労働者たちがさらに息を合わせる。
声を張り上げながら、歯を食いしばり、全身の力を縄へと注ぎ込む。
「いち――!」
「に――!」
――その時だった。
ヒュオオオッ!
突風が舞い、影が走る。
空を裂いて降り立つ巨大な翼。鷲の灯喰いが、赤い双眸をぎらつかせて急降下してきた。
狙いは縄を引く労働者たち。
猛禽そのものの目が獲物を捕らえ、地上を覆う影が急速に広がる。
「う、うわあああ!」
悲鳴が列の中から響いた。
頭上から迫る死の顎と爪。
綱を握る手が思わず緩みそうになる。
「シャアッ! シャアッ!」
鷲の灯喰いが甲高い鳴き声を上げ、翼を広げて急降下してくる。
「いけないッ!!」
トゥルアが目を見開き、叫んだ――その瞬間。
――ガキィィィィィィンッ!
金属が軋む轟音。
空から振り下ろされた猛禽の爪を、ひとつの盾が受け止めていた。
「……っぐぅぅぅッ!」
腕が痺れる。
衝撃が走る。
脚が沈み、地にひびが走る。
それでも彼は、盾を下げなかった。
「へへ……こうなりゃヤケだぜ……」
血を滲ませた唇を歪め、クローが空を睨む。
「あなたは……!?」
トゥルアがその姿を見て思わず叫ぶ。
荒い息のまま、クローは盾を構え直し、笑った。
「へっ……お前らの馬鹿騒ぎに……一枚、かませろよッ!」
その一言は挑発でも虚勢でもなく、盾を掲げる仲間たちを奮わせる叫びだった。
「うおおおおおおおッ!」
アーゼの民がそれに続いた。
次々と盾を掲げ、空を覆う影を迎え撃つ。
「やってやるぜーッ!!」
「クローにばっかいい格好はさせられねぇ!!」
盾と爪がぶつかり、火花と叫びが入り混じり、大地が揺れた。
「来やがれぇッ!」
クローが吠える。
「盾の民が……お前らを絶対に守ってみせるッ!!」
トゥルアは胸の鼓動を抑える。
「……すごい……」
驚嘆と、どこか安堵が入り混じる吐息がこぼれる。
交わることのなかった彼らが、いま確かに一つになろうとしている。
視線を空へ。旋回する鷲の群れが、なおも鋭い爪を光らせ、再び労働者たちを狙って高度を下げていた。
トゥルアはその気配を捉え、肺いっぱいに息を吸い込む。
「――もう一度行きます!」
彼女の声は土煙を突き抜け、盾の列に並ぶ全ての耳へ届いた。
緊張で強張っていた手に力が戻る。汗に濡れた綱を握り直す。
「いち――ッ!」
「に――ッ!」
「――さん!!」
大地が鳴った。
巨熊の締め上げられた足首がわずかに内側に折れ、巨体が前のめりに崩れかける。
支えようともう片足が踏ん張った瞬間、三周分の“縫い目”が一気に効いた。
ドウッ、と空気が沈み、熊の巨躯が後方へとわずかに引き剝がされる。背後の亡骸から、爪先ひとつ分でも遠ざけるための、たったひと呼吸の空白――それで十分だった。
「今だ!」
執事の鋭い叫びと同時に、ガイウスを潰そうとする巨熊の腕の力が緩んだ。
その瞬間、ガイウスを拘束していた圧力がふっと消える。
彼の胸郭が大きく開く。
「……よくやった……お前たち……!」
わずかな吐息に、戦場を見つめる視線が揺れた。
土煙の向こうに見える少女――トゥルアと、必死に綱を引く煤に塗れた労働者たち。
彼らの声が、槍を預けたこの腕を震わせている。
瞼を閉じ、次に開いた瞳には雷光が宿っていた。
「雷帝ガイウス・バルナークの槍を……受けるがいい
ッ!!」
ガイウスが溜めていた力を解き放つように踏み込み、槍の穂先が雷鳴の直線になった。
――ズガァァンッ!!
狙いは胸板ではない。もっとも硬く、もっとも厚いその部位ではなく――膝。
巨体を支える要の一点を、正確に穿ち砕く。
「グルゥゥォォォォッ!!」
軋む音が、骨の奥底から響いた。黒い蒸気が噴き上がり、巨熊の膝が悲鳴をあげる。支えを失った右脚が折れ、大地を揺らして崩れかける。
トゥルアは綱を放すことなく叫ぶ。
「まだ――引いて!!」
労働者たちの足が地を耕す。踵がめり込み、肩から背、背から腰へ、力の波が伝わっていく。
「いち――ッ!」
「に――ッ!」
「――さん!!」
ロープがさらに締まり、足首の毛並みが血で濡れ、黒い霧が弾けた。
「仲間たちの無念を……怒りを……その身に受けろォォッ!!」
ズドォォォォォンッ!!
再び、ガイウスの雷鳴の槍が膝を貫く。
巨熊が体勢を崩し、咆哮を上げながら後方へと揺らいだ。
「ガイウス様――ッ!!」
遠くから声が飛ぶ。
見ると、満身創痍の記録官たちが、次々と戦場に駆け戻ってきていた。
血を流し、鎧を欠けさせながらも、その目には新たな炎が宿っている。
「我らも……援護しますッ!」
「ガイウス様と、綱を引く民を守れーッ!灯喰いを一匹たりとも近づかせるなッ!」
誰もが、劣勢を覆した瞬間を感じ取っていた。
トゥルアが放った声。労働者たちの踏ん張り。
そのすべてが、雷帝の槍と響き合い――戦場に新たな灯をともした。
――
俯いたまま、トマスは布に包んだ小さな包みを取り出した。
震える指先でそれを開くと、中から淡い光を宿したランタンが現れる。
――ココ。
声にならぬ名を、彼は胸の奥で呼んだ。
「トマスさん、もう帰ろう!」
「トマスさんッ!」
必死の声が後ろから届く。だが、トマスの目はすでに前を捉えていた。
金色の鎧の男。
血に塗れ、甲冑は割れ、頭から赤い筋を流している。それでもなお槍を構え、巨熊を突き崩そうとしている。
その姿は、灯を背負う者の象徴のように見えた。
トマスはココのランタンを見つめ、ココに託されたあの日のことを思い出す。
「ココ……」
目を瞑り、ハッと何かを思いつく。
拳が震えた。迷いはなかった。
「……俺は、行くッ!」
「トマスさんッ……!」
振り返ることなく、彼は地を蹴った。
「俺はいくぞぉぉぉーーッ!!」
叫びが、戦場に響く。
「……あぁ……もう……」
誰かが掠れ声で漏らす。
ミルレの村人たちは互いに顔を見合わせた。恐怖に引き裂かれそうになりながらも、最後には同じ決意に頷き合う。
ひとりが農具を掲げた。
それが合図となり、皆がそれぞれの武器を高く掲げる。鍬も、鎌も、斧も。
「トマスさんに続けぇぇッ!!」
「うおおおおおおおおッ!!!」
怒号が一斉に上がり、彼らもまた駆けだした。
煤に塗れた村人たちの声と足音が、戦場の地響きに溶けてゆく。
「いち――ッ!」
「に――ッ!」
「――さん!!」
ズドォォォォォンッ!!
「グオオオオォォォォォッッッ!!」
地鳴りと共に、巨熊の体が揺れた。
ロープに引かれ、足首が締め付けられる。
ガイウスの槍が膝を穿ち、確実にその巨体は崩れかけている。
だが――あと一歩。
押し切れず、巨熊はなお踏みとどまっていた。
トゥルアも、ガイウスも、クローも、誰もが歯を食いしばり、額を汗が伝う。
声にならぬ祈りが、戦場を覆っていた。
灯の断章 〜ココと記録の塔〜 を読んでいただきありがとうございます。1日1話投稿を頑張っておりますので、よろしければ、ブクマ、評価をお願いします。励みになります。




