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紡ぐ糸

熊の灯喰いは、地を割るような咆哮を上げた。


「グオオォォオオォォォッッ!」


耳をつんざく咆哮とともに、威圧の波が奔流となって戦場を薙ぎ払う。

ガイウスの胸を震わせ、甲冑の隙間から全身へとびりびりと痺れが走る。


巨腕が振り下ろされた。

大地を割るようなその一撃を、ガイウスは正面から迎え撃つ。


ガキィィィィィィンッ!


鋼と鋼が噛み合う轟音が響いた。

足裏は地面に沈み込み、亀裂が走る。

槍に伝わる衝撃は、両腕の骨をも砕かんばかりの重み。

だがガイウスは歯を食いしばり、決して一歩も退かない。


「ぬおおぉぉぉッッ!」


吼える声は、己を奮い立たせる雷鳴のようだった。


――その光景を、クローは盾を構えながら見ていた。


鷲の灯喰いを盾で受け止め、必死に押し返し、弾き飛ばし、地に叩きつけ、潰す。

荒い息が止まらず、片手で額の汗を乱暴に拭った。


その視線の先に、熊の巨体に挑む金色の鎧の男。

血を流しながらも、槍を振るい、一歩も退かずに化け物の腕を受け止めている。


「……なんだってんだ……」


思わず、呻くように声が漏れた。


「記録官が化け物と戦ってると思ったら、どんどんやられちまってる……」


空を仰げば、黒煙を背に記録の塔が天を突いている。

その頂は、まるで手を伸ばしても届かないほど遠く、絶望的に聳えていた。


「俺たちは……訴えに来ただけなのによ……。灯をよこせってな……」


握った盾に力が入らなくなる。

戦うために来たのではない。生き延びるために灯を求めに来ただけだ。

けれど今、自分はこうして血にまみれ、隣に立つはずの仲間は次々と地に伏していく。


クローは俯き、自分たちが倒した記録官の亡骸を見つめる。


「……なんで俺たち、戦ってるんだっけ……?」


拳を震わせた。

理不尽さと恐怖と、答えの見えない問いが、胸を締め付けて離さなかった。


背後ではミルレ村の村人たちが叫んでいた。


「トマスさん、もういい!逃げよう!」


背後から誰かの必死の声が飛んできた。

地獄の光景を前に立ち尽くすトマスの耳に、震える村人たちの叫びが重なる。


目の前で繰り広げられるのは、悪夢そのものだった。

空には赤く光る瞳の群れが浮かび、地には肉を喰い裂かれる人々の断末魔が響いている。大地は血に濡れ、骨が砕ける音が轟く。

そして――その先に聳え立つのは、あの塔。

記録官の塔。


その中に、彼の最愛の娘――ココが囚われている。


助けに来たのだ。

訴えに来たのだ。

「ココを返せ」と叫ぶために、皆と共にここへ足を運んだ。


――だが、何だ。この光景は。


「トマスさん!やっぱり俺たちには戦うなんて、無理だったんだ!俺たちは……ただの村人なんだよっ!」


誰かの叫びが背後から響いた。

震える声は真実を突きつける。耳に届いた瞬間、トマスの視界が白く霞んだ。


化け物の爪が振り下ろされるたびに、仲間が倒れる。

血潮が地を赤黒く染め、命が無惨に散っていく。

理解できない。抗えない。どうしてこんなことになったのか。


――ココ。


胸の奥で、娘の名が浮かんだ。

かすれた呼吸と共に、心の中で彼女に詫びる。


(……ココ、ごめんな……)


足が震える。

鍬を握る指先に力が入らない。


(俺たちはやっぱり……誰かの言いなりになってる方が楽なんだ……)


逃げればいい。塔も、娘も、訴えも――全て投げ出してしまえば、苦しむこともない。

その誘惑に、意識が飲み込まれていく。


トマスの瞳から、ひと筋の涙が零れ落ちた。


――


(いけない……。このままでは、

 あの方まで灯喰いに殺されてしまう)


トゥルアの鼓動が耳の奥で鳴り響く。胸を突き破らんばかりの速さだった。

目の前では、熊のような巨体を持つ灯喰いが、雷帝の槍を握る男を押し潰そうとしている。


ガイウス・バルナーク。

金色の鎧を纏い、その身からはまるで雷光が立ちのぼるかのような気迫を放つ男。

だが今は、ただ真正面からその猛威を受け止めていた。


避けようと思えば、きっと避けられたはずだ。

それでもあの方は退かなかった。背を向けることも、逃げることもしなかった。


――なぜなら。


あの方の足元には、折れた槍を握ったまま倒れている記録官たちの亡骸が横たわっている。

仲間たちが必死に抗い、命を賭して戦った。もしあの方が一歩でも退いていたなら、その無残な亡骸は、今まさに灯喰いの爪に砕かれ、踏み潰されていただろう。


あの方はそれを許さなかった。

既に息絶えた者たちをも守ろうとしている。


――それこそが、あの方の誇りなのだ。


トゥルアの胸が熱くなる。目の前の光景に、父の面影を重ねずにはいられなかった。


亡きグレイブ・ハルトフェルド。父もまた、民を守るために、最後の一歩まで退かなかった。


ああ、同じだ……。

この人は、父と同じ志を抱いている。


トゥルアは拳を握りしめる。震えは恐怖からではなかった。


(絶対に……死なせてはならない。今度こそ、私は支える。父のように失わせはしない!)


「着いてきてください。皆、手伝ってほしいのです!」


トゥルアは息を整え、低く、しかし通る声で言った。


その一言に、周囲の空気が張り詰める。

返事はすぐには返ってこなかった。

煤に汚れ、汗に濡れた労働者たちは、互いの顔を見合わせる。

足は土を踏みしめながらも動かず、拳を握る手は震えている。


「俺たちが……?」


「無理だ……あんな化け物を相手にできるわけが……」


かすかな囁きが列の端から漏れた。


目の前に立つのは、常識を越えた巨影。

記録官ですら次々に倒れていく化け物に、自分たちが挑むなど――狂気の沙汰だ。


一歩踏み出しかけて、また躊躇して足を止める者もいた。


「逃げたほうがいいんじゃ……」


誰かの弱い声が夜気に溶ける。


その沈黙と迷いを、少女の声が切り裂いた。


「――父、グレイブ・ハルトフェルドは!」


その名を呼んだ瞬間、労働者たちの肩がびくりと震えた。

彼らにとって、その名は支配と従属の象徴であり、鎖の音のように重い。


「正義の人だった。それでも制度の中で、不覚にもあなた達を“資源”と呼ぶしかなかった!」


彼女の声は夜気を突き抜け、地鳴りのように響く咆哮と交じり合った。


「あなた達は私に、父と同じように資源だと呼ばれたいのですか!?違う!私ならあなた達に、自由と尊厳を与える! 私にその命を預けなさい!」


まっすぐに伸びた視線。

たった一人でも巨熊の影へと走り出す覚悟を湛えた瞳。

その強さに、労働者たちの胸がわずかに震え、揺らいでいた心が一つの方向に押し流されていく。


返事の代わりに、採掘場で鍛えた数十人の足音が土を踏む。煤と汗に塗れた労働者たちが、彼女の背に視線を集めた。


「執事と、あと二人、私と一緒に前へ。援護だけでいいわ。あとは私がやる。残りは半月形に散開。合図で引いてください。……お願いします」


「お嬢様、かしこまりました」


執事は周囲の混乱を一瞥するだけで把握した。

巨熊の肩の筋肉が硬直し、押し込んでいた腕がわずかに止まる。槍を支えるガイウスの足元――亀裂の広がり方で、次の瞬間に生じる反動すら読み取っていた。


(彼が耐えている今なら、灯喰いの死角を突き、崩せる。だが長くは保たない。今しかない)


素早く手を振り、労働者たちに散開の合図を送る。彼の目はすでに戦場の一点を射抜いていた。


「……今です、お嬢様」


執事の声に、トゥルアは頷いた。

腰から取り出したのは、母の形見の細身のレイピア。その鍔に、長いロープの端を固く結ぶ。もう片方の端には、玉結び――縫い止めの“しるし”。


幼い頃、あの屋敷で一人、友もなく、語らう相手も少ない日々。トゥルアはいつも、一人で菓子を焼いたり、縫い物に針を走らせ過ごしていた。

窓辺に花が咲く部屋で繰り返した単純な手の動き。その記憶が今、掌に鮮やかに甦る。


(針は私。糸はロープ。縫う先は――あの足)


「行きます」


彼女は身を低くして飛び出した。 

煤の匂い、血と土の味。熊の灯喰いが吐き出す黒い霧が、肌にざらりと纏わりつく。

一歩、二歩――。咆哮と衝撃の合間、巨体の死角へ滑り込む。


「私の剣ではこの巨体に致命傷を与えることはできない……。ならば私は、あの方を解き放ち、敵の隙を作る!」


――一周目。


地を蹴って巨熊の足首へ駆け寄る。


シュルッ!


ぶ厚い毛皮の間を刃で掻き分けるように通し、ロープがするりと滑り込む。


ブシュウゥゥ……!


黒い蒸気が吹き上がり、指先が焼けるように熱い。それでも彼女は呻き声ひとつ洩らさず、強く腕を振った。


「まだ……」


――二周目。


シュルルッ、キィッ!


回り込む足音は土を削り、膝の高さまである毛並みを掻き分ける。

ロープを引きながら、また通す。


ギリ、ギリッ……


繊維が擦れ、彼女の手のひらに切り傷を刻む。血が滲んでも、止めない。


「……もう少し」


汗が目に入り、視界が霞む。

だが針と糸のように、刃と縄は確実に足を縫い留めていく。


――三周目。


シュッ! シュルルルッ!


ロープが最後の一周を描いた瞬間、足首の蒸気が濃くなり、空気がざわついた。


「グオオォォォオオオオォッ!!」


巨熊の咆哮が爆ぜ、音圧が背中を叩き、トゥルアの体を揺らす。倒れそうになりながらも、彼女は歯を食いしばり最後の縫い目を通した。


「……あと一手」


――その時だった。


「おい……お前……!」


雷鳴のような声が頭上から落ちてきた。

ガイウスだ。巨熊の腕を槍で押し返しながら、血に滲む目でこちらを射抜いている。


「何をしている……今のうちに逃げろッ! 俺はもう……保たない……!」


その声は必死の叫びであり、同時に仲間を思う最後の警告でもあった。

足元の亀裂は広がり、金色の鎧は軋んでいる。限界は、目に見えて迫っていた。


だがトゥルアは足を止めない。


ここで立ち止まるわけにはいかない。

彼女は玉結びを作った側に小さな輪を残し、すばやくそこへロープを通す。

縫い止めの丸結び。

引けば引くほど締まり、足を逃さない。幼い頃、あの屋敷で一人、幾度も繰り返した単純な手順が、今は命を守る戦術に変わっていた。


ギュルルルッ……ギチィィッ!


指先に走る痛みを無視し、彼女は結びをきゅっと締める。

土と汗と血で濡れた縄が音を立てて沈み、輪がしっかりと足を捉えた。


「……できた」


その瞬間、彼女は初めて自分が成し遂げたことに気づいた。

足元に巻きついた縄は、気づけば幾重にも重なり、黒い巨体を縫い止める“縫い目”となっていた。

彼女が針に見立てたレイピアで通した糸は、確かに灯喰いの足を縛り、抗えぬ拘束を完成させていた。


短く息を吐いたその声を、ガイウスは聞き取った。


「おい……!」


槍を押し返しながら、叫ぶ。

金色の兜越しに血走った瞳が、こちらを見据えていた。


トゥルアは振り向いた。

煤にまみれた頬を上げ、その視線をまっすぐ受け止める。


「誇り高き記録官様――」


声は震えてなどいなかった。

むしろ、地を這う轟音と咆哮の中で、はっきりと響き渡った。


「あなたの誇りを……我々、民がお守りします!」


その言葉に、ガイウスの目が一瞬大きく見開かれる。


戦場の喧騒が一瞬遠のく。

彼女の胸の内で鳴るのは、自らの鼓動だけ。

熱い息を吐き、焦げついた指先を握り締めながら、彼女は背を向ける。


――もう、引くだけだ。


巨熊がわずかに振り向く。赤い光点がこちらをとらえた。重い前腕が薙ぎ払われ――


「お嬢様!」


ギィィィィィンッ!!


執事が前に出て、ステッキの刃で軌道を逸らせる。火花が散り、トゥルアの頬を掠めた風が熱い。

彼女は地を蹴った。レイピアを“針”のまま握りしめ、ロープの“遊び”を保って後方へ走る。


「皆さん、ロープを持ってください!!」


煤けた男たちの列へ飛び込みざま、ロープの反対側を差し出した。


「今です! 引いてぇぇッ!!」

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