誓い
白い光が静かに消え、戦場のようだった部屋に再び暗がりが戻った。
ココは震える両手でミュレットの書を抱きしめながら、シンの傍らに膝をつく。彼の左肩に手をかざすと、柔らかな癒しの灯が溢れ出し、温かく傷を包み込んでいった。
シンは目を閉じ、荒かった呼吸を徐々に整えていく。
「……ありがとう、ココ」
低い声に、安堵がにじむ。
「ごめん……私が、もっと早く癒せていれば……」
悔しさを滲ませるココに、シンは首を横に振った。
「問題ない」
彼の視線がココの腕に抱えられた書物へと移る。
その光景を見ていたフレアが、握りしめた拳を胸元に当て、強い声を響かせた。
「ココ、凄かったわ。灯で剣を鍛えたり、盾を呼び出したり……」
ココは一瞬、ためらうようにまぶたを伏せ、それから小さく頷いた。
「……うん。私、灯ってただの明かりとか、作物を育てるものとか、傷を癒すものだって思ってた。でも――」
彼女は胸に抱いたミュレットの書を強く抱きしめる。
「この本に描かれているものは、私たちの知ってる灯とは全然違う。もっと……もっとすごい、人を幸せにできる灯なの」
シンの瞳が静かに光を宿す。
「そうだ。記録官たちが配っている青白い灯は確かに灯だ。だが、そこまでの力はない。……根本的に何かが違う」
フレアが唇を噛み、問いを投げた。
「でも、どうしてココはいきなり、あんなすごい灯を使えるようになったの?」
ココは少しの間、言葉を探すように黙り込む。そして、静かに視線を向けたのは、床に崩れたまま動かないノエヴィアの亡骸だった。
「……あの人が言ったの。『書を読み解けば意図が分かる』って。絵なら文字や言葉を失っても、後の世に伝えられる……って。この本を書いた人は、きっと、とても賢い人なんだって」
「ノエヴィアが……?」
フレアの声に、シンも眉をわずかに寄せる。
「うん。だから私、思ったの。ミュレットの書に描かれた絵は、ただの飾りじゃない。……読み解けば、その意味に沿った“本当の灯”を呼び起こせるんだって」
「なるほどな……」
シンはゆっくりと目を閉じた。
胸の奥に沈んでいた記憶が、静かに浮かび上がる。あの頃の自分――まだ子どもで、確信だけを武器に灯を配っていた自分。もしあのとき、ミュレットの書の意味を読み解いていたら、今のこの世界は違っていたのかもしれない。そんな想いが、喉の奥から苦く込み上げる。
だが、後悔の渦に飲み込まれるだけではない。胸の奥に、細くとも確かな希望が灯るのも感じていた。
「……ココ、フレア」
シンは静かに、しかしはっきりと二人の名を呼んだ。
その声は、静けさに包まれていた部屋の中、ちいさく震えながらも確かに響いた。
ふたりは同時に顔を上げ、シンを見返す。
「ここから先は、俺一人で行く。この上に、奴がいるはずだ。俺の師匠――ヴァルター・ウォールデンが」
「えっ……?」
ココの表情が凍る。
記録の塔の頂点に座し、記録官たちを束ねる男。彼が、今のすべての起点であり、同時に決着を付けねばならぬ相手でもあると、シンは言い切った。
フレアは言葉を発さず、シンの目をじっと見つめる。その瞳には計り知れぬ感情が揺れているが、反論はない。彼女もまた、シンの考えを理解していた。
「俺が、奴と決着をつける。だが──お前たちは民の元へ、必死に戦っている民を助けてやってくれ」
シンの声は揺れない。そこにあるのは、責任と覚悟だけだ。
ココは俯く。
その突然の申し出に、困惑の色を隠せない。
シンと別れることの怖さが、胸を締め付ける。これまでずっと一緒に旅をし、黙って支えてくれた。
自分を信じてくれた。
焚き火を囲み、語り合った時間が走馬灯のように脳裏を巡る。
もしここで別れれば、二度と会えないかもしれない──そんな不安が、冷たい汗となって背筋を伝った。
「シン……」
瞼の裏に、シンと初めて出会った時の姿が浮かぶ。
仮面の奥から覗く鋭い眼差し、規律を刻んだような堅苦しい口ぶり――あの時はただ、怖い人だと思った。
けれども、そんな彼が差し伸べてくれた手に救われた自分がいた。
あの時の記憶が胸を熱くさせ、堪えきれず、涙が頬の端を静かに伝い落ちた。
フレアは黙ったまま、ゆっくりと後ろを向く。
ロイの肩に手を掛けると、彼の身体をぐっと引き寄せ、そのまま背中に担ぎ上げた。
ずしりとした重みがのしかかる。しかし、その動作は静かだが確かで、決意が込められている。
「行くわよ、ココ」
短い言葉。だがその中に、命を託す覚悟がこもっていた。ココは顔を上げ、フレアの背を見返す。そこで初めて、自分がひとりではないことを改めて知る。
「あなたが行かなきゃ、あなたを助けに集まった、みんなが救われない」
フレアが背を向けたまま、言葉を紡ぐ。声は強さを帯びて、ココの胸に突き刺さった。
ココは深く息を吸い込み、瞳をきゅっと閉じた。
息を吐くたびに肩の緊張がひとつずつほどけていくようだった。涙がひとすじ、頬を伝うのを感じるが、声は出さない。言葉にしてしまえば消えてしまいそうな、だからこそ大切な気持ちを胸に留めたい。静かな祈りのように、一瞬の沈黙が長く感じられた。
そして、心の底から、そっと呟く。
(シン、私を助けてくれて、ありがとう)
言葉は外へは漏れず、彼の名は自分の中だけで優しく震えた。その響きは約束にも似て、これから歩む道の小さな灯りになった。
静かに瞳を開き、ロイの安らかな眠る顔を一度だけ見やり、小さく首を振る。
「わかった……! フレアさん、行こう!」
声は震えているけれど、確かな決断だった。手に抱えたミュレットの書の重みが、指先から胸へと伝わる。この本が道標であり、希望の鍵であることを、彼女は身体ごと受け止めていた。
シンは二人の背中をじっと見つめる。言葉はなくても伝わる。背負うものの大きさ、互いに託すものの重さ。
「絶対、帰ってきて。またみんなで会おうね」
ココは振り返り、微笑んで言う。その声は震えていたが、言葉の芯は揺るがなかった。笑顔を作ろうとする唇の端に、ほんの光が宿る。
シンは答えを返さなかった。
ただ、じっと彼女を見つめた。
その視線は暖かさを伴っていたが、それだけではなかった。瞳の奥に灯るのは、燃え上がるような決意──そして、言葉にならない別れの覚悟だった。
フレアはその沈黙をすぐに受け取った。
彼女の目が一瞬だけシンの表情を読み取り、そこに横たわる覚悟を理解する。頬を伝うものをぐっと飲み下し、口元を堅く引き結ぶと、ためらいなくロイの肩を直し、ココの先を歩き出した。
本当は声を上げて泣きたかった。シンにだけ見せるはずだった弱さを、今この場で吐き出したかった。だがフレアは、自分の涙が仲間たちの足を止めることを知っている。だから彼女は、涙を堪え、背を向けて階段へと歩き出す。惜別と願いと、それから静かな恋情の痕跡。
シンはその後ろ姿をじっと見送った。
言葉がなくとも、互いの胸に届いた約束がある。彼女たちを見送ったあと、シンは深く息を吸い、剣を握り直す。
この先でヴァルターが、自分を待っている。
今度こそ、ヴァルターの真意を問わなければならない。
記録官制度に決着をつけなければならない。
それぞれの決意だけを胸に、三人の影は別々の方向へ消えていった。
――
「はぁ……はぁ……はぁ……」
呼吸が熱を帯び、胸の奥に焼け付くような痛みが広がる。
空は地獄のように暗かった。
雲を透かして流れる赤黒い光が、不気味に地上を照らす。群れなす灯喰いの瞳は真紅に輝き、呻き声と咆哮が入り交じる。その大地にはすでに多くの亡骸が散乱していた。剣を握ったまま倒れた仲間の記録官。盾を掲げたまま動かぬ村人。守るべき民たちの血が、泥と混じり合い、夜気に鉄の匂いを漂わせている。
その只中に、金色の鎧を纏った男がいた。
上級記録官ガイウス・バルナーク。
彼の鎧は傷だらけで、兜の隙間からは鮮血が滴り落ちている。額を流れる血は目に入り、視界を赤く濁らせる。それでも彼は槍を立て、決して膝をつこうとはしなかった。
彼の眼前には、他の灯喰いとは一線を画す巨体が立ちはだかっていた。熊の形をした影――黒い霧を纏い、赤い双眸が不吉に瞬く。咆哮が放たれるたび、地が震え、倒れた死体が小さく跳ねる。
だが、ガイウスは一歩も退かない。
背後にあるのは、命を落とした仲間の屍と、護るべき人々の希望の残滓だ。彼らの犠牲に背を向けて生き延びることなど、彼の誇りが許さない。
――守る。それこそが自分に課された唯一の責務。
「これ以上……一人たりとも殺させはせん」
その声は掠れ、血で濁っていたが、揺らぎはなかった。
使命。誓い。灯喰いごとき魔物に奪わせてはならない。
彼は槍を握り直し、血で滑る柄を強く締め上げた。
頭上の空は赤黒く渦を巻き、耳をつんざく咆哮が再び響き渡る。
だがその瞳――雷光を宿したガイウスの瞳は、なおも巨体を射抜いて離さなかった。
灯の断章 〜ココと記録の塔〜 を読んでいただきありがとうございます。1日1話投稿を頑張っておりますので、よろしければ、ブクマ、評価をお願いします。励みになります。




