冷徹と狂気
記録の塔、上層。
ヴァルターの私室は、散乱した書類に覆われていた。
倒れた椅子、割れたインク壺――部屋全体が、乱れた精神を映すかのようだ。
ココはその中央に立ちすくんでいた。
胸に抱き締めるのは、ミュレットの書。
その重みに縋るようにしても、震える膝は動かなかった。
部屋を支配していたのは、ノエヴィアの狂気。
笑みとも嘲りともつかぬ歪んだ口元が、薄闇の中で光っていた。
その時だった。
――カン、カン、カン、カンッ。
鋭い足音が石床を駆け抜け、部屋の前でぴたりと止まる。
バンッ!
扉が弾け飛ぶように開かれた。
「ココッ!!」
思わず名を呼ぶ声に、ココとノエヴィアは同時に振り向く。
そこには三人の影が立っていた。剣を構えたシン。弓を引き絞るフレア。そして後方から不安げに覗き込むロイ。
シンの目は瞬時に部屋の状況を測る。
散乱する書類、怯えるココ、そして――怪しく立つノエヴィア。
その冷徹な視線が鋭く突き刺さった。
「おやおや〜。裏切り者のシン殿が……こんなところで何を?」
ノエヴィアの声が湿り気を帯びて響く。二人の視線が、稲妻のようにぶつかり合った。
「ヴァルターはどうした……?」
シンの声は低く、鋼の刃のように研ぎ澄まされていた。
「ふふっ。ヴァルター様は頂上ですよ。涼みにでも行ってらっしゃるのではないでしょうか?」
ノエヴィアは肩をすくめ、両手をひらひらと広げて見せる。芝居がかった動作は、不気味な余裕そのものだった。
「……ココは返してもらう。お前に用はない」
「ふふっ。連れないな〜。先輩は後輩を大事にしないといけないじゃないですか?」
ノエヴィアの笑みがさらに歪む。
その背後で、フレアとロイがココへ駆け寄った。
二人の腕が同時にココの肩に触れたかと思うと、ためらいなく部屋の端へと導く。
「ココ様、こっちへ!」
ロイが低く叫び、フレアは周囲を警戒する目を光らせながらココを庇うように立つ。
ココはまだ足が震えていたが、二人の確かな力に支えられて、ようやく呼吸を取り戻した。
「ココ、大丈夫!?」
フレアが弓を降ろし、そっと肩に触れる。
ロイもまた、目に涙を浮かべながら必死に声をかける。
ココは冷や汗を滲ませながらも、微笑んだ。
「ありがとう……フレアさんも……助けに来てくれたんだね」
その言葉に、フレアは一瞬目を伏せた。胸にのしかかる後悔と罪悪感が、彼女の喉を塞ぐ。
「ごめん……あの時、私には……ああするしかなかった……」
震える声で吐き出す。
ココは首を横に振った。
「ううん、信じてたよ。きっと私たちを助けてくれるんじゃないかって」
その言葉は、フレアの胸の鎖を断ち切るように響いた。彼女は抑えきれず、ココを軽く抱きしめる。
ココは一瞬驚いたが、その温もりに触れた瞬間、胸を締め付けていた恐怖が、静かにほどけていくのを感じた。
その様子を横目で見て、ノエヴィアは呟く。
「フレア殿……やはり、あなたもそちら側の人間なんですね〜」
ノエヴィアの声は、楽しげでありながらも底冷えする響きを含んでいた。
芝居がかった抑揚は、まるで舞台俳優の台詞のよう。だが、その裏に潜む狂気は、部屋の温度を確かに下げていく。
フレアはココをそっと放し、立ち上がるとノエヴィアを鋭く睨みつけた。
指先がわずかに震えている。しかしその眼差しには、射抜くような強さが宿っていた。
「……もう、制度なんて関係ないわ。この事態を収束させるためには、この子が必要なの。あなたにもわかるでしょう?」
その声には、迷いがなかった。
記録官としての立場や義務ではなく――一人の人間としての決意がそこにあった。
「ふふっ……わかりますよ、ええ、よくわかりますとも」
ノエヴィアは片手を頬に当て、体をわずかに傾けながら笑った。
その笑いは妙に甘ったるく、しかし耳障りな不協和音を孕んでいる。
「でもね……ほんとに困るんですよね〜。あなた方がそんなふうに勝手に動かれては」
彼はゆっくりと机の横に歩み寄り、鞘に収められた剣に手をかけた。
次の瞬間、鋭い金属音が部屋を切り裂く。
――シャキィンッ。
剣が引き抜かれ、置かれたランタンの灯で銀色に光った。
ノエヴィアの仮面の下の笑みは見えないが、狂気そのものだった。
「あなた達の“灯”を……勝手にばら撒かれては、困るんですよォォ……!」
ココは思わず身を竦ませた。
ロイがその肩を抱き寄せ、必死に守ろうとする。
シンは前へと歩み出た。その足取りは静かで、焦りも躊躇も感じさせない。やがて剣を抜き放ち、低い声で告げた。
「……ならば、ここで終わらせるしかないな」
カチリ、と剣が構えられる音が響いた。
ノエヴィアの笑みと、シンの冷徹な眼光が正面からぶつかり合う。
互いに一歩も譲らぬ沈黙が続く。
その時、シンとノエヴィアの呼吸が一瞬だけ重なった。そのわずかな揺らぎが、刃を走らせる合図となる。
床石を叩く音と同時に、二つの刃が閃いた。
――ギィンッ!
鋭い金属音が、室内の空気を裂く。
シンの剣とノエヴィアの剣が正面から衝突し、火花が散った。
「……ッ!」
キィン、キィン、キィン、キィン、キィン!
互いの力は拮抗していた。
シンの剣筋は無駄がなく、研ぎ澄まされた鋼そのもの。
対するノエヴィアの剣は、常道を踏み外したかのように不規則で、しかし異様に速い。
冷徹と狂気――正反対の気配が、刃を通じて噛み合う。
――ザシュッ! カンッ! ギィィンッ!
剣が振るわれ、受け止められ、跳ね返される。
そのたびに机の上の書類が宙を舞い、散乱したインクが床を汚していく。
部屋は、まるで戦場のように荒れ果てていった。
「ほぉ〜……数日独房に閉じ込められていたというのに、あなたの剣筋は以前と何も揺らいでいない。まるで――」
ノエヴィアは笑みを崩さぬまま、刃を押し返す。
「反省の色が見えない」
声は芝居がかって軽やかだが、剣先は決して緩まない。
「戯言はいい。お前を止める」
シンの声は低く抑えられていた。その瞳には、迷いも怯みも見えない。
だが、次の瞬間――ノエヴィアの体が僅かに揺れた。
「ッ!」
彼は剣を払うと同時に、懐へと手を差し入れた。あまりにも唐突で、不自然な動作。
「ばんっ!」
シンの全身がびくりと反射的に動いた。
刹那のうちに身体が後ろへと退き、剣を大きく振り払って間合いを取る。
――だが。
ノエヴィアの手には何も握られてはいなかった。
銃も、武器すらも。
ただ空の手を胸元に当て、仮面の下で口元を大きく歪ませている。
「ふふふっ……!」
狂気に濡れた嗤い声が、部屋に響いた。
「今の反応……あぁ、最高です! ねぇシン殿? あなたほどの剣士でも、僕の“声”と“動き”だけで体が勝手に避けてしまう……恐怖とは、実に素晴らしいものですねぇ!」
ノエヴィアは空の手を大げさに掲げ、観客に誇示するように肩を震わせる。
その姿は戦士ではなく、舞台に立つ道化師のようだった。
シンは無言のまま剣を握り直す。
わずかに肩が揺れたのは、怒りか、それともほんの一瞬の動揺か。
「……茶番だ」
低い声が室内に落ちた。だが、ノエヴィアの嗤いは止まらない。
「ふふっ……そうでしょうか? あなたの剣がほんの一瞬遅れていたら、僕の幻の銃弾に撃ち抜かれていたかもしれませんよ〜?」
彼の頭を覆う仮面には、一切の表情も読み取れない。それ故に、その言葉には真実か虚構かを見極められない異様な迫力があった。
キィン、キィン――。
二人の剣戟が立て続けに火花を散らす。速さも重さも互角。だが、その流れを乱すのは、ノエヴィアの奇妙な動作だった。
「ばぁんッ!」
再び、彼が懐に手を入れ、叫ぶ。
シンの身体は反射的に一歩退き、構えが崩れる。そこに銃はない。ただの仕草と声。だが、それでも身体は勝手に動いてしまう。
キィン、キィン――。
さらに刃が交わる。
「ばぁんッ!」
シンの足が後ろに滑る。
呼吸の乱れと共に、剣筋が揺れる。
キィン――。
「ばぁんッ!」
鋭い音とともに、リズムが完全に乱される。剣は応じているはずなのに、どこか一手遅れる。
「ふふっ……ふひひひひ……」
ノエヴィアの肩が揺れ、笑い声がこぼれた。
「滑稽だ。実に滑稽だ! 反応が良すぎますよ、シン殿ぉ!」
彼の言葉が、剣戟より鋭く胸を抉る。
シンは歯を食いしばりながら、なおも構え直した。
「シン、どうしたのかな……? 何か、動きが変……」
部屋の端で、ココが小さく声を漏らした。剣のやり取りを見ていても、彼の剣筋が時折ぶれているのがはっきりとわかる。
フレアは弓を構えながら、その様子を冷静に見据えていた。
「……あれは、条件反射よ」
「じょうけん……はんしゃ……?」
「以前、シンはノエヴィアと剣を交えている。その時、剣戟の最中に銃を抜かれて撃たれた」
フレアの瞳は鋭く光り、ノエヴィアの仕草を追う。
「だから今も、あの男が懐に手を入れるだけで、身体が勝手に避けてしまう。理性じゃなく、肉体に刻まれた反応なの」
「……!」
ココの胸がぎゅっと痛んだ。
ノエヴィアの嘲笑と、シンの乱れた呼吸。
過去の傷がまだ癒えていないのだと、誰よりも痛々しく映ってしまう。
フレアは弓を引き絞りながら、低く吐き捨てる。
「卑劣ね……その恐怖を利用して戦うなんて」




