死闘
クローの膝が震えた。
かつて森の奥で遭遇した―― あの夜の恐怖が、暗闇の中で、まざまざと頭をよぎる。
この世のものではない狂気じみた狼の魔物。闇を纏う濃密な体毛、その瞳は赤く、虚ろ。灯を吸い込み、クローの喉を凍りつかせた。思い出すだけで、血の逆流するような寒気が、背筋を這い上がる。
だが、その奥に――
群れを割って現れたのは、古びた樫の木の幹のように太く、見上げるほどそびえ立つ異形の影だった。
全身を漆黒に包み、筋肉は獰猛に盛り上がる。目は赤く燃え、炎を宿したようにぎらついていた。熊のような巨体は、空気を揺らす。低く唸る声は、大地に震えを起こし、耳を裂く。
「ば、化け物だ……」
村人たちは恐怖に駆られ、後ずさる。
「逃げろぉぉッ!」
叫びを上げ、振り返った瞬間、空から影が急降下した。巨大な手が村人を鷲掴みにし、容赦なく持ち上げる。悲鳴が空に引き裂かれる。
「ひ、ひぃぃぃっ!」
空中で翻る身体は、重力に引かれ、地面へ向かって投げ落とされる。粉のように弾ける衝撃、吹き飛ぶ埃と血しぶき。見上げれば、鷲のような灯喰いが空を旋回している。
そして、熊の灯喰いが、喉の奥底から絞り出すような咆哮をあげた。
その声は、耳を裂き、胸を震わせ、恐怖を肉体に刻み込む。
それを合図に、狼型の灯喰いが、獲物のように村人に襲いかかった。
牙で喉を噛み裂き、爪で腹を裂く。悲鳴は叫び声でなく、断末魔として夜空に吸い込まれる。次々と倒れる村人たち。血と土が混ざり合い、地面はぬるりとした赤い泥に変わる。
「くっ…!盾の民よ!守りきれぇッ!!」
クローの叫びが、闇と恐怖に呑まれた戦場に響き渡る。
アーゼの村人たちは全員、盾をぎりぎりまで押し出し、必死に影の猛攻を受け止めた。
盾と盾の隙間――わずかな空間から、悍ましい牙が飛び出す。
鋭く光る爪が、盾をかすめ、手や腕を掠める。血がにじみ、鉄が削れる音が連続する。
クローたちは息を止め、体を硬直させながら、牙と爪の隙間を必死で耐える。
「これは……地獄か……」
トマスは後方で、ただその光景を見つめ、呟いた。
――
ドクンッ。
ドクンッ。
胸の奥で、心臓の鼓動が異様に大きく響いていた。
それは自分の鼓動なのか、地そのものが鳴動しているのか判別できない。
足元の砂がわずかに跳ね、土塊が細かく震えている。
「……?」
重低音が腹の底を打ち抜いた。
ドォン……
大地が沈むような音。続けざまに、空気が裂ける。
心臓の鼓動はもはや自分のものではなかった。
目の前に迫る、異様な存在。
巨大な背だった。
黒々とした毛並みがぬらりと灯を弾き返し、輪郭が掴めない。
その質量が視界を覆い尽くし、視覚すら拒むかのようだ。
「あ、あれ……?……ノエヴィア……様?」
顔を上げたその瞬間。
ザシュッ――。
乾いた切断音が耳を裂いた。
装置を起動した記録官の首が、音もなく宙を舞う。
噴き出す鮮血は赤く煌めき、宙で弧を描いてから地へ叩きつけられる。
残された首なき身体が、血飛沫をあげて倒れ込み、泥を撒き散らした。
「ひぃッ!」
叫びにもならない悲鳴が周囲に広がる。熊の巨影が一歩踏み出す。大地が軋み、砂塵が舞い上がった。
「な……なんだ、あれは……!」
記録官の声が震える。
だが答える者はいなかった。
誰もが言葉を失い、ただその存在に圧倒されている。
熊の灯喰いは、ゆるやかに爪を振るった。
その動きは、まるで風を払うように緩慢だった。
瞬間、三人の記録官が、同時に地へ崩れ落ちた。
爪が触れたのか、空気が斬れただけなのかも分からない。
ただ、彼らの胸から肩にかけて深々と刻まれた裂傷が、答えを物語っていた。
血飛沫が闇に散り、灯すら塗り潰していく。
「うわあああっ!!」
悲鳴があがる。
側に控えていた記録官たちが我先にと後退する。
だが逃げ場はなかった。
周囲の闇から、狼の灯喰いたちが次々と姿を現し、空から鷲の灯喰いが急降下する。
彼らは熊の巨影の動きに呼応するかのように吠え立て、牙をむき、爪を立て、記録官へと襲いかかった。
「ぎゃあああっ!」
「助けてくれっ!」
剣を構える間もなく、記録官たちの身体が次々と食い裂かれていく。
肉が裂ける音、骨が砕ける音、血の匂い。
戦場は瞬く間に更なる惨劇の舞台と化した。
その地獄絵図を、後方に残った記録官たちはただ呆然と見ていた。
誰一人、足が動かない。
「……灯喰いだ……」
震える声が、かろうじて紡がれる。
「灯喰いが……現れた……」
その囁きは波紋のように広がり、記録官の心を完全に蝕んでいった。
熊の巨影はゆるりと顔を上げる。
覗く眼窩は、血のように赤い。
光を拒み、灯を呑み込み、ただ人の存在を無意味と告げる虚無。
巨きな呼吸のたびに、黒い霧が口腔から漏れ、戦場に漂った。
それはまるで、死の宣告のように、ひとりひとりの記録官の肺に入り込み、息を詰まらせていく。
――
トゥルアのレイピアが、闇の霧を纏った狼の灯喰いの体を斜めに薙ぎ払った。
白銀の刃が灯を受け、一瞬だけ煌めき返す。
その裂け目から黒い霧が噴き出し、狼の影は苦鳴を上げるように揺らいだ。
「はあっ……!」
吐息を荒げるトゥルアの額には汗が滲んでいた。
「お嬢様……!」
執事の声が響く。
「お嬢様……我々の灯に呼応し、灯喰いが集まってきております!」
執事が叫ぶ。
狼の影たちは次々と湧き出し、黒い霧の中で輪を描くようにうごめく。
無数の赤い眼光が闇を裂き、記録官と村人たちを射抜いた。
トゥルアはきつく唇を噛み、顔を上げた。
目前にそびえる記録の塔―― まるで脈動する心臓の鼓動のように、青白い灯が明滅している。
その異様な輝きが霧の中で揺れ動き、塔を怪物のごとく浮かび上がらせていた。
「……お母様……お父様……」
トゥルアの声は震えていた。
だがその震えは恐怖からではない。
自らに課せられた責務の重さが胸を締め付けていたのだ。
「どうか私に、力を……」
小さな囁きが唇から零れる。
その声は砂塵にかき消され、誰の耳にも届かない。
しかし胸の奥底から絞り出すその祈りには、確かな切実さが宿っていた。
ズゥゥン……!
――その瞬間。
ズゥゥゥン……!
大地を這うような重低音が戦場を貫いた。
ズゥゥゥゥン……!
空気が一気に震え、胸郭を押し潰す。
誰もが息を詰まらせ、目を見開いた。
大地が揺れる。
砂塵が舞い上がり、村人たちの視界を白く覆った。
耳鳴りの中で、誰かが叫ぶ。
「な、なんだ……地震か!?」
だが違った。揺れは塔から響いていた。
あの青白い脈動と共鳴するかのように、大地全体がうねりをあげている。
狼の灯喰いが一斉に吠え立てた。
「グルルルゥゥ……ッ!」
「ガゥオォオオオオオオオン!!」
「ワオォォォ――ン!!」
その時――。
「突撃ぃ――――ッ!!!」
轟く咆哮が戦場を切り裂いた。
砂塵を突き破り、無数の影が地平を覆う。
アグリの群れ。
巨馬にも似た幻想の獣たちが、金色の鎧を纏った記録官を背に一斉に駆けてきた。
その蹄音は大地を打ち砕き、地鳴りと重なり合う。
ドドドドド――!
地を裂く怒涛の響きが、恐怖に沈んだ人々の心を震わせた。
「うおおおおおッ!!」
先頭に立つ記録官が雄叫びを上げ、槍を掲げる。
後列の記録官たちも剣を抜き、怒涛の突撃に身を任せた。
その光景は、炎の奔流にも似ていた。
灯喰いの群れが次々と薙ぎ払われ、黒い霧が爆ぜる。
狼の影が悲鳴をあげるように弾き飛び、空に消え去っていく。
「進めぇえええ!!我らは誇り高き記録官!!灯喰いを殲滅し、民を守れぇえええ!!」
――誇り高き記録官。
トゥルアの目が見開かれた。




