解放の時
地下の独房は、地上の喧噪とは無縁の、重苦しい静寂に沈んでいた。
苔に覆われた石床には、天井から滴り落ちる水が黒く染みを広げ、時折ぽたりと落ちる音が響いては、すぐに闇に溶けていく。
その薄暗がりの中、シンは背をひやりと冷たい石壁に預け、膝に置いた腕をだらりと組んだまま、深く俯いていた。
伏せられた瞳は揺らぐことなく、ただじっと沈黙に耐えている。だがその姿は、すべてを諦めた者のものではない。
呼吸を潜め、時間の流れさえ押し殺すように――
その瞬間を、ただ待ち続けているかのように。
――コツ、コツ。
足音が近づいてきた。規則正しくもどこかためらう響き。やがて鉄扉の向こうに気配が立ち、震える声が囁くように届いた。
「……シン」
その声に、シンはわずかに顔を上げ、ゆっくりと扉の方へ視線を向ける。
「……フレアか」
「今、外では大変なことになってる。民が記録官に反旗を翻して……進軍してる」
「……わかってる。ヴァルターと記録官が話しているのを聞いた」
低く、しかし確信を孕んだ声音。
フレアは息を詰め、吐き出すように言葉を重ねた。
「もしかして……あんたの狙いは、初めからこうなることだったの?」
問いかけても、シンは沈黙したまま、ただ暗い鉄扉を見つめる。
「……あんたの目的は、灯を配ることじゃない」
フレアの声は強く、それでいて揺れていた。
「ココを利用して、記録官制度の非合理性を、民に証明してみせた。民の意識に灯をともして……立ち上がらせた。……あんたの真の狙いは、記録官制度の打倒なんじゃないの?」
シンの瞳に、深い静かな光が宿る。
「……あんたは――」
「フレア」
シンはその先を制するように名を呼んだ。
「違う。記録官制度の打倒も……それは計画の一部にすぎない」
フレアの瞳が大きく見開かれる。
「この地に生きる人々は、皆、今は亡き灯の国の血を受け継ぐ者たちだ。灯は本来、誰にでも与えられるはずの光……それを奪い、独占した記録官の罪は重い」
フレアは、胸の奥を強く掴まれるような感覚に耐えきれず、思わず胸元を押さえた。
自分達が記録官であるその事実が、いまさらながらに重くのしかかる。
これまで自分が見てきた数々の光景が、脳裏に鮮やかに甦る。
命を記録の名のもとに切り捨てる者。
苦しむ人々を冷ややかに見下ろす者。
自らの正義を疑いもせず、淡々と命令を遂行する者たち。
その一つひとつが、胸を焼くような痛みとなって彼女を苛んだ。
「だが、俺の目的は、記録官制度を打倒し、灯の国を再建することだ。そのためには、民の力でこの戦いを勝ち取らなければならない。そして――ココは、俺たちが新たに築く灯の国の、その象徴になるだろう」
その言葉は重く、フレアの全身に戦慄が走る。血が一瞬にして冷え、心臓の鼓動が乱れる。
シンが語るのは、単なる反乱や抗議ではない――それは革命、世界の秩序そのものを塗り替える野望。
「ば、馬鹿なこと言わないで……! ……そんなの、できるわけ――」
否定しようとした言葉は震えてほどけた。
共に歩んできたつもりだった。
そう、ずっと隣にいて、同じ理想を見ているのだと――そう信じていた。
けれど、いま目の前にいるシンは、自分の理解をはるかに超える場所に立っている。
その隔たりに、足元が崩れ落ちるような感覚が押し寄せた。
思わず壁に手をつき、肩を震わせる。
(……どうして……
どうしてあんたはいつも……私の届かないところへ行ってしまうの……?)
声にならない胸の内には、かすかな痛みと共に、長く抑えてきた想いが滲んでいた。
「叶うさ」
シンの声は低く、揺るぎがなかった。
「ココが現れた今こそ、全てを終わらせ、新しい秩序を作る好機なんだ。民の苦しみ、怒り……お前なら理解できるはずだ」
鉄扉の向こうで、フレアは唇を強く噛み、俯いた。
「……それでも何であんたが――」
彼女はか細く呟き、視線を落とす。
怒りや戸惑いではない。理由の分からない想いが言葉となり零れ出た。
シンは顔を上げ、身体をわずかに前に倒す。
鎖が床を擦り、鈍い音が鳴った。
――ジャリリ。
「俺がヴァルターを討つ!この命に……替えても!」
その眼差しには、炎のような決意が宿っていた。
「フレア、俺をここから出してくれ!」
フレアは一瞬、呼吸を止めた。
心の奥で渦巻く迷いが、熱となって目頭に滲む。
堪えきれず、涙が堰を切ったように零れ落ちる。
やがて彼女は深く息を吐き、震える指をゆっくり自分の頬へ運んだ。
カチャ――
仮面が外れ、石床に落ちる。
――カラン。
その乾いた音が、限界を断ち切った。
涙を拭い、腰の鍵束に手を伸ばす。
その指は小刻みに震えていたが、錠前に差し込み、何度か外して、それでも諦めず回す。
――カチリ。
重い扉が軋みをあげ、わずかに開いた。
冷たい空気が流れ込み、二人の視線が交わる。
フレアの瞳にはなお涙が揺れていたが、その震えはもう迷いではなかった。
彼女は背からシンの剣を抜き取り、両手でしっかりと握りしめた。
その剣は鞘に収められたまま、持ち主を待ちわびるかのように重く静かに光を帯びていた。
フレアはそれをシンへと差し出す。
「あんたを……信じる」
声は震えていた。
だが、その手の剣の重みには、彼女の決意と想いが確かに込められていた。
「ありがとう……フレア……」
――
石の階段を駆け上がる。
前方に記録官の影が現れ、武器を構えて迫ってくる。
「貴様ッ!反逆者シンッ!」
叫びと同時に振り下ろされた刃を、シンは半身をひねって受け流した。
抜き放った剣がきらりと光り、相手の手首を正確に叩く。
ガンッ!
「うあっ!」
痺れた手から剣が滑り落ちる。
シンはその胸元を足で押し返し、壁に叩きつけて気絶させた。
「まずは――ココを助け出す!」
振り返らず、シンの声が響く。
「民には、あいつの灯が必要だ!」
「ええ!」
フレアは階段の踊り場に身を滑り込ませ、迫る影に弦を引き絞った。
シュッ、シュパンッ!
放たれた矢は、記録官の肩口すれすれを掠めて壁に突き刺さる。
反射的に身をすくめた記録官の足元へ、次の矢が滑り込んだ。
ガンッ!
踵を弾かれ、記録官がバランスを崩して膝をつく。
その脇を、シンが疾風のように駆け抜けた。
「動くな」
剣の峰が鳴り、男の首筋を軽く叩く。
カクン、と力が抜け、記録官はその場に崩れ落ちた。
「殺してはないわよね?」
フレアが息を切らしながら問う。
「そんな暇はない」
短く返す声は冷静だが、その刃は一度も急所を狙っていなかった。
次の記録官が突きを繰り出す。
シンは剣を滑らせて軌道を外し、相手の腕を捻り上げるようにして床へと叩きつける。
ドンッ!
「ぐっ……!」
「立てるなら、民の声を見届けろ」
呻く男を、それ以上踏みつけることなく通り過ぎる。
「こっちも、ちょっと寝ててもらうわね」
フレアの矢が、別の記録官の足元の石段を撃ち砕く。
欠けた石片が弾け、男の視界が揺れた隙に、フレアは間合いを詰めて柄で鳩尾を打ち込んだ。
「ぐはっ……!」
記録官が息を詰まらせ、その場に膝をつく。
シンの前進を、フレアの矢が支え、フレアの隙をシンが埋める。
息を合わせた攻防は、まるで一つの舞のようだった。
「ココは――中層の用心隔離室に閉じ込められているはず!」
「よし、突っ切るぞ!」
二人は声を交わすと、立ち塞がる記録官たちへ猛然と駆け込んだ。
刃が閃き、斬撃が階段に血を散らす。
次々に立ちはだかる者をシンは切り伏せ、矢の雨が彼の隙を覆った。
階下には倒れ伏した記録官たちが、息を荒げながら身じろぎしていた。
二人は一度も振り返らず、さらに上階へと駆け上がった。
――
鋼と鋼がぶつかり合う音が塔の周囲に響き渡る。
夜気を裂く怒号、血と灯の入り混じる匂い。
「押せぇぇっ!」
ドドドドドドドドドドドドッッ!!
前衛に立つクローが、盾を構えて突進する。分厚い鉄の壁のように記録官たちを薙ぎ払い、転倒した敵を踏み越える。
「今だ、突けっ!」
後方からトマスたち農夫が鍬を突き出し、呻き声と共に血飛沫が飛んだ。
「下がらせない!」
ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ビシッ
トゥルアのレイピアが閃き、記録官の刃を逸らして一瞬の隙を作る。その背後で、執事が滑るように現れ、鋭い剣技で記録官を薙ぎ倒す。
数の上では村人たちが優勢だった。記録官たちは押され、必死に隊列を組み直そうとする。
だが、その混乱の最中、一人の記録官が血塗れの手で懐から小さな装置を取り出した。
それは黒鉄でできた掌ほどの円筒で、側面には幾何学模様のような刻印が刻まれている。角度によっては模様が光を反射し、不気味な輝きを放っていた。
記録官は震える声で呟く。
「……ノエヴィア様。今こそ……」
出陣前、上級記録官ノエヴィアから密かに託された秘密兵器――。
彼は装置の中央に埋め込まれた小さな石に触れた。
カチリ、と何かが噛み合う乾いた音が響いた瞬間――。
戦場の空気が一変した。
剣を振りかざした者の腕が宙で止まり、叫び声が途切れ、まるで時間そのものが一拍遅れたかのような奇妙な静止。
次の瞬間、人々が腰に吊したランタンの灯が一斉に輝き出した。
キィィィィィィィィィィィィン――
うるさいほどの耳鳴り、目が眩む様な光度――。
「な、なんだ……!?」
「ランタンが……勝手に……!」
光は次第に強さを増し、戦場全体を覆い尽くすように空間を歪ませる。地面が振動し、空気が軋む。
トゥルアは顔を伏せ、唇を噛んで耐えていた。
眩い光が収束し、戦場を包んでいた異様な輝きがふっと消える。
――静寂。
耳をつんざく剣戟も怒号も、まるで遠くへ追いやられたように感じられた。
「ひ、ひぃぃっ……!」
背後で、作業服を着た男が腰を抜かし、手にしていた工具を落とす。乾いた音が地面に響き、怯えた声が戦場に波紋のように広がった。
「な、なんだ……」
「や、やばい……近づくな!」
数名の村人が恐怖に駆られ、武器を握ったままじりじりと後退を始める。
トゥルアは震える胸の奥を抑え、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳に映ったのは――。
空間が熱に揺らめくように波打ち、その中からじわりと黒い影がにじみ出てくる光景だった。
それは煙のように形を変えながらも、不確かな輪郭を持とうとする。
光を拒絶し、周囲の灯を吸い取るかのように渦を巻きながら。




