奪還作戦
記録の塔・中層 要人隔離室
ココは一人、寝台にうつ伏せになっていた。
部屋の天井に吊るされたランタンが、青白い光を揺らめかせている。外の騒音に合わせて塔がきしみ、その淡い光は冷たい床に弧を描き、揺れながら伸びていた。
(みんなが私を助けるために塔に向かっている……。それは、私が灯を配ったから?)
胸の奥で言葉が渦を巻く。
人々にただ喜んでほしかった。笑顔が見たかった。
けれど今、灯のために人々は戦っている。
村人も、記録官も、そして――トマスおじさんも。
(灯を配ることは正しいの? 間違っているの?)
確信は何度も揺らぎ、また戻り、そして再び崩れる。
答えは霧のように散り、渦の様にぐるぐる舞う。
頼みの綱であったミュレットの書も、ヴァルターに奪われてしまった。
もはや自分には灯を扱う術もない。
ただ、この狭い部屋で、無力をかみしめることしかできない。
(私はどうしたらいいの……シン……)
その時――。
カチャリ、と小さな音がした。
錠が外れる乾いた響きが、石壁に反射して広がる。
扉が開き、見慣れた小柄な記録官が姿を現した。
両手に銀の盆を抱え、その上にはパンと水差しがのっている。
「ココ様……。パンとお水をお持ちしました」
声はかすかに震えていた。
「……はい」
ココは顔を上げず、布に頬を埋めたまま短く答えた。
扉は閉ざされ、記録官は机の上に盆を置く。
水差しを傾け、コップに透明な水を注ぐ音だけが、やけに大きく響いた。
「ありがとうございます……」
寝台に身を伏せたまま、ココは礼を述べる。
しかし記録官の方へ振り向くことはしなかった。
「……」
しばしの沈黙が、部屋を支配する。
記録官は立ち尽くし、うつ伏せの少女を見つめる。
眉尻が下がり、何かを言いたげに唇を噛んだ。
「……あの」
声を絞り出す。だが次の言葉はすぐには続かなかった。
胸の奥にたまった思いが喉を塞ぎ、息が苦しくなる。
「……す、すみません。こんなところに、あなたを閉じ込めてしまって……」
その声は、罪悪感と後悔に押し潰されるように小さく震えていた。
ココは、うつ伏せたまま動かなかった。
「……ですが、ヴァルター様が、牢屋ではなくこの部屋にあなたを閉じ込めている理由……わかりますか?」
小柄な記録官は、そっと声を落とした。
その瞳は、恐怖に揺れているようでいて、どこか確信を秘めていた。
「きっと……あなたが、唯一、灯を生み出すことのできる人だからです」
ココは、うつ伏せのまま閉じていた目を、ゆっくりと開いた。
記録官は両手を胸元で握りしめ、言葉を選ぶように続ける。
「僕たち記録官の灯は……厳格に管理されます。ひとつ残らず帳簿に記され、輸送され、必要な場所には補充され、不必要な場所からは回収される。
それが僕らの務めであり、誤差は許されない。ですから帳簿は、包みなく正確でなければならないのです」
淡々とした口調に、しかし次の言葉には確かな震えが混じった。
「……けれど、あなたの灯は違う。
管理の外に生まれ、記録官の手をすり抜け、誰にでも分け与えられてしまう。
――もし、それが自由に生み出せるのなら……」
小柄な記録官は、声を詰まらせた。
一瞬の沈黙のあと、震える吐息とともに言葉を吐き出す。
「もはや、僕たちの管理など必要としない時代が……訪れてしまうかもしれないのです」
部屋の冷気が深く染み入り、ココの胸に重くのしかかる。
しかし、その重みは、恐怖ではない。それは、灯がどれほど大きな力を持ち、どれほど人々を救えるかを思い知らされる重みでもあった。
だけど――
ココは重く沈んでいた身体を、ゆっくりと起こした。
寝台の上でうつむきながらも、小柄な記録官を真っ直ぐに見据える。
「……だけど、私はもう灯を使えないの。
ミュレットの書がなければ、私は灯を生み出すことはできないの……」
その言葉に、記録官は首を捻った。
「ミュレットの……書?」
「ええ。村はずれの祠から見つけた、古い魔法の本。
それを開いたら、私は初めて灯を使えるようになったの」
ココの声は、懐かしさと痛みを孕んでいた。
あの日の光、あの日の喜び。村人の笑顔が胸を過ぎる。
「そんな……本が……」
記録官は思わず息を呑む。
「でも今は……ヴァルターさんに取り上げられているの」
ココは拳を握りしめ、悔しさに声を震わせた。
「……なるほど……。記録官長に……」
記録官の呟きを遮るように、ココは身を乗り出した。
その瞳に、かつての灯と同じ輝きが宿っている。
「私は――ミュレットの書を取り戻したい!」
小柄な記録官の表情が、はっとして強張る。
声を裏返しながら叫んだ。
「む、無理ですよッ! 取り返したところで、どうするって言うんですか!?見つかれば、その場であなたは……!」
「……灯があれば、みんなを助けられる。この戦いを――止められるッ!」
その声に、確かな根拠はなかった。
理屈を並べるでもなく、ただ真っ直ぐな願いを放つだけ。
幼子のような言い分。けれど、その澄んだ眼差しは迷わず彼を見据えていた。
胸の奥が微かにざわつき、何かが揺れる。
長い間、命令と帳簿に縛られていた心に、ほんの小さな灯がともったような――そんな感覚。
しばらく、言葉が出なかった。
目の前の少女の瞳に、胸を突かれたようにじっと見つめられる。
鼓動が早まるのを、必死に押さえながらも、体のどこかが熱を帯びるのを感じる。
やがて、小柄な記録官はゆっくりと息を吐いた。
「……わかりました」
言葉にした瞬間、さらに胸がきゅうと痛む。
迷いの中に浮かぶ小さな灯は、ただ確かに、彼を前へと押し出していた。
彼は静かに部屋を出て行く。
ココは驚きに目を見開き、扉の向こうを見つめる。
――カチャリ。
再び錠が外される音が響いた。
扉が開くと、記録官は両手に抱えていたものを差し出した。
折り畳まれた記録官の制服とマント。そして、無機質な戦闘用のヘルメット。
「これを……着てください」
彼は小さな声で言う。
「僕の予備の制服です。背丈がよく似ていますから……きっと、合うはずです」
ココはしばし迷った。
しかし、その装束に手を伸ばし、そっと抱きしめる。
布地の冷たさが、今の自分の心の熱さを際立たせるように感じられた。
そして――ゆっくりと着ていた衣の上から記録官の服に袖を通した。
重みを持つマントが肩にかかると、まるで別人のように背筋が伸びる。
最後に、無骨なヘルメットをかぶると、鏡はなくとも、自分の姿が確かに変わったのを感じ取れた。
「……あ、頭が重い……」
ココはヘルメットに手を当て、ふらつく。
「し、しょうがないです!顔を隠さなければ!」
くすくすと笑うココを見て、慌てたように手を動かす記録官。
「あなたの名前は?」
ココが尋ねる。
「あ……、ええと……」
記録官は一瞬だけ言葉をためらったが、やがて小さく答えた。
「ロイです……」
「ロイ、ありがとう」
ココは微笑み、手を差し出す。二人の手が触れ合い、握手を交わした。
二人は用心隔離室を静かに抜け出した。
背後でロイが扉を閉め、慎重に錠を回す。
外の廊下は慌ただしい気配に満ちていた。階段を駆け降りる記録官たちの靴音が、塔全体に反響している。
ロイは声を潜め、ココにささやいた。
「……もしヴァルター様が本を持っているのだとすれば、それはヴァルター様の私室でしょう」
その言葉に、ココの脳裏にあの時の記憶がよみがえる。
鋭い目を向けて、ヴァルターが吐き捨てたあの瞬間。
「黙れッ! この書がなければ、お前はただの小娘だ!」
空気は震え、ココの胸は締め付けられた。
怒声の残響はいまも消えず、耳の奥に焼き付いている。
――確かにあの時、ヴァルターはミュレットの書を持っていた。
ロイはココの目の前で静かに人差し指を立て、真っ直ぐ彼女の瞳を見据えた。
「いいですか。もし無事に本を取り戻せれば、そのまま塔を抜け出して、村人たちと合流し、あなたの力で戦いを止めさせます」
次に、中指を立ててゆっくりと言葉を続けた。
「もしダメなら、無理はせず、この部屋まで戻ってください。そのときは、もうこんな無茶なこと、諦めてくださいね……」
ココは一瞬言葉に詰まるが、すぐにロイの目をじっと見返した。
そして、わずかに頷く。決意を込めたその動作に、ロイも小さく息をつく。
「こっちです……!今はほとんどの記録官が下層に回され、塔の守りについています。上に残っているのは数名のはず!」
ロイが先導し、二人は音を立てぬよう、目立たぬよう、慎重に階段を登る。
通りすがりに記録官とすれ違う場面もあったが、深く被ったヘルメットに救われ、誰も不審に思わなかった。ココは胸を撫で下ろす。
やがて、開けた階層に出た。
そこには記録官会議室があった。扉は開け放たれ、中には数名の記録官が待機している。空気は張りつめ、ただならぬ緊張感に満ちていた。
「この上がヴァルター様の私室です」
ロイが小声で告げ、決意を固めるように息を吸い込む。
「記録官は僕が惹きつけておきます。そのうちに」
そう言うと、彼は会議室へと足を踏み入れた。
「おい、貴様。この非常時に何をしている?」
鋭い声が飛び、視線が一斉にロイへ集まる。
「お、お疲れ様です……! 巡回に伺いました――」
震える声で言い訳をしながら、ロイはそっと扉を閉めた。
だが。
「……おい。なぜ扉を閉めた?」
ロイはびくりと肩を震わせる。
「……はっ……! 音が漏れると、下の階の記録官が……緊張するので……」
赤面しながら答えた途端、すぐさま怒声が走った。
「緊張しているのはお前だ!」
会議室に一瞬、張り詰めた空気が走る。
――その直後。
バタンッ!!!!
「きゃっ……!」
ヘルメットの重さにふらつき、廊下側で派手な転倒音。ロイも記録官たちも一斉に振り返る。
(ココ様ぁぁぁぁッ!! なんで今こけるんですかッ!!)
「今の音はなんだ!?」
「っ……た、た、ただの……物音です!倒れただけです!廊下に置きっぱなしの……えっと……」
「廊下に物など置いていない!」
記録官の一人がロイを押しのけ、勢いよく扉を開いた。
ロイは心臓が止まりそうになりながら、祈るように後ろ姿を見守る。
扉の向こう。
ヘルメットが深くずれ、前が見えなくなった“小柄な記録官”が尻もちをついていた。
「うぅ……すみま……せん……っ……視界が……狭くて……」
声はどう聞いても少女。
だがヘルメットに隠れて、誰かは判別できない。
「……誰だ?」
記録官たちの視線がココを刺す。
その瞬間。
「こ、こらッ!新人!
廊下で“立って待ってろ”って言ったのに、じっと立ってることもできないのか!」
ロイが咄嗟に声を張り上げる。
「新人……? 女か?」
記録官の眉がひそめられた。
ココは必死に震える声をつくる。
「し、新人……です……!
そのっ……ロイ先輩に“ぼくがエスコートするよ”って言われて……!」
会議室の空気が一気に冷え込む。
「……ロイ。ちょっと来い。
新人の“女”を非常時に口説く理由を――しっかり説明してもらおうか」
(いやぁぁぁ誤解ですぅぅぅ!!)
ロイの悲鳴は届かず、
両腕をつかまれ、そのまま会議室へ連行されていく。
「新人は下の階に戻っていろ!」
扉がバタンと閉まり、室内から怒声が漏れた。
ココはそっと胸に手を当て、つぶやく。
「……ごめんなさい、ロイ……」
そして、足音を殺して廊下をすり抜け、
誰にも気づかれぬまま、上階へ続く階段へと身を滑らせた。
――そして。
階段を登り切った先、ココは記録官のヘルメットと制服を脱ぎ、息を殺して廊下を覗いた。
そこにあったのは――記憶に刻まれた重厚な扉。ヴァルターの私室だ。
その時、扉が音もなく開いた。
影のように現れたのは、記録官長ヴァルター・ウォールデン。そして、その隣を歩む白い上級記録官ノエヴィア・ホープ。
「……裂け目が拡大している」
低く落ち着いた声でヴァルターが口を開いた。
「灯が一箇所に集まりすぎている。民が反旗を翻し、これ以上規律が乱れれば……、ルメオティスそのものが崩れる危険がある……」
ノエヴィアは無造作に肩をすくめた。
「ふふっ、心配しすぎです、ヴァルター殿。僕らのルメオティスに問題はありません。それに一部の記録官には良いものを配備してあります故〜」
ヴァルターの表情は険しい。
「因果を結びつけるのは早計ですよ〜」
ノエヴィアは両手をひらひらと振り、二人は肩を並べて上階へと歩み去っていく。
ココは咄嗟に柱の陰へ身を滑り込ませた。足音が遠ざかるまで、胸の鼓動がやかましいほどに響く。
やがて廊下に静寂が戻る。
――今しかない。
ココはそっと柱から顔を出し、目の前の扉へ歩み寄る。手をかけた瞬間、意外にもあっさりと取っ手が回った。
鍵は、かかっていなかった。
胸の奥から緊張が一気に押し寄せ、ココはごくりと喉を鳴らす。鼓動が耳に響き、手のひらにじんわりと汗が滲む。
扉をゆっくりと押し開けると、中の薄暗い部屋が視界に広がった。
机の上には、ココが探し求めていたもの――ミュレットの書が、静かに置かれている。
ココは息を殺し、机へ歩み寄る。伸ばした指先が、ついにその表紙へ触れようとした瞬間――
ガシッ
背中を掴まれた。
血の気が引く。心臓が凍りつく。
「……ダメダメ、巫女殿」
耳元で、低く湿った声が囁いた。
「人の物を勝手に取るのは、泥棒ですよ〜?」
ぞくりと悪寒が走り、ココの身体は石のように固まった。
1日1話投稿頑張ってます。よろしければブクマ、評価お願いします。励みになります。




