挟撃の夜
記録の塔南部砦
谷に沈む夜の空気は冷たく、霧のような湿り気が肌にまとわりついていた。クロー、トマスが奮闘する宿舎町から南東に位置するこの砦は、丸太を組んで築かれた粗末な要塞にすぎない。見張り台と大きな門、その周囲を囲う高い丸太の壁。記録の塔へ続く谷道を押さえるための関所であった。
だが、その警戒は緩みきっていた。門前に立つ二人の記録官は、槍を肩にかけながら、女の話に夢中だった。
「でよぉ、その女ときたらさ……」
「へへ、今度俺も誘えよな」
笑い声が夜空に響く。砦を守る者の姿勢はそこになく、欲に溺れて気を抜く、ただの男たちが立っているにすぎなかった。
その時、門の前に黒い影が現れた。複数のローブを纏った人影。ランタンの灯に照らされ、先頭に立つのは若き女――。
「……何だ?」
「こんな夜更けに、怪しいな…」
記録官たちが怪訝そうに身を乗り出す。
ローブの下から現れた顔は、闇夜の中でも映えるほどの美貌だった。
「私はグレイブ・ハルトフェルドの娘、トゥルア・ハルトフェルドです」
声は震えているようでありながら、芯の強さを秘めていた。
「父が亡き今、私にはもはや頼れる者も、あてもございません。かくなる上は、この身をもって記録官様にお仕えするしかないと……覚悟を決め参りました」
記録官たちは顔を見合わせ、下卑た笑みを浮かべた。
「今は亡き、グレイブ・ハルトフェルド上級記録官の娘か。へぇ……噂以上に上玉だな」
もう片方が他の人影を見て尋ねる。
「その周りの連中は何だ?」
人影が次々と被っていたローブのフードを脱ぐと、中から女達の顔が現れた。
「この者たちは採掘場で働いていた若い女性たちです。どうか私たちに施しを。記録官様に誠心誠意、お仕えいたします」
記録官たちは堪えきれぬ喜びを示すように、拳を打ち鳴らした。
「いいだろう。入れ。歓迎してやるよ」
門がきしみを上げて開かれ、トゥルアと共に数名の若い女たちが砦に足を踏み入れた。彼女らは皆、採掘場で酷使されてきた労働者。煤で汚れた肌の奥には、まだ若さと美しさが残っている。
中に入ると、遠くにいた記録官たちもにやにやと集まり、品定めを始める。粗野な笑い声、いやらしい眼差し。砦の中に淫靡な空気が漂い始めた、その時だった。
――ギィ……ン。
かすかな金属音が夜を裂いた。砦の左右の壁に、無数のロープが撃ち込まれていた。岩を割るような乾いた音とともに、次々と杭が食い込み、瞬く間に黒い影が丸太壁をよじ登る。
「な、何だ!? 敵襲だ!」
記録官たちが動揺する間もなく、壁の上に労働者たちが姿を現した。採掘場で崖を登り、坑道の断崖で命綱を扱ってきた労働者たちにとって、ロープで高い壁を乗り越えるなど、造作もない仕事だった。
百名近くの影が一斉に砦を囲み込む。
トゥルアは静かにローブを脱ぎ捨てる。薄絹の下から現れたのは、母の形見である細身の剣――繊細にして鋭いレイピアだった。夜灯を受け、刃は氷のように冷たく輝く。
「記録官の皆様……」
その声音は澄んで、震えひとつなかった。
「これが、あなた方の結末です」
言葉が終わるより早く、一人の記録官が怒号と共に駆け出した。剣を振り下ろそうとした瞬間――。
老いた影がその前に立ちはだかる。
「――」
黒の礼服に身を包んだ執事だった。手にしたステッキを軽く捻ると、カチリと鋼音が鳴り、杖の先から細身の刃が閃く。銀の閃光が弧を描き、次の瞬間、記録官の首筋が鮮やかに割かれていた。
赤が夜気に散り、呻き声すらなくその男は崩れ落ちる。
「な、なんだこの爺は……!?」
「執事だと……? ば、化け物か!」
戦慄が走るより早く、壁を越えた労働者たちが次々と砦の中に飛び降りる。ロープを自在に操り、丸太を蹴って身を翻す。体は細いが、採掘場で鍛え上げられた腕は岩を砕くほどの強靭さだ。つるはしが振るわれ、記録官の槍を弾き飛ばす。ハンマーが唸りを上げ、鎧を叩き潰す。
「囲まれた!? どうしてこんなに――!」
「ひ、引け! 門を閉じ――ぐあぁっ!」
混乱の中、指揮も取れず、記録官たちは一人また一人と斃れていく。
「怯むな!数はこちらが上です!彼らは堕落した豚にすぎません、恐れる理由などない!」
トゥルアが声を張り上げる。彼女は母の形見のレイピアを高く掲げ、その刃を振るう腕には、かつて父に教え込まれた厳格な武の心得が宿っていた。
力任せではなく、鋭く、速く、そして迷いなく。だが父が授けた剣は、人を殺めるためのものではなかった。
「いいか、トゥルアよ。お前に教えるのは誇りある記録官が振るう剣。命を断つためではなく、人を活かすための剣だ」
その言葉どおり、トゥルアの剣筋は急所を外しながらも正確無比で、記録官たちの手首や膝を狙い、次々とその動きを封じていく。
ヒュッ、ザシュッ、ピキィッ、スパッ、ヒュン、ズバッ、シュッ、バシッ!
血よりも呻き声を残すその戦いぶりに、労働者たちは恐怖よりも安堵を覚え、自らもまた勇気を奮い起こすのだった。
その前方で、執事は無言で先頭に立ち、鋭い剣捌きで次々と記録官を斬り伏せた。老いてなお衰えぬ剛力と、無駄のない動き。彼の姿を見て、労働者たちの士気はさらに高まる。
シュピーンッ!…シャシャシャッ!ズブシュッッ……!
「うわぁあああっ!」
「き、聞いたことがある……! 灯喰い討伐に赴いたグレイブ上級記録官。その隣に必ずいた影……!」
記録官は執事を指差し叫ぶ。
「――つむじ風のセバスティアン……!!」
記録官の叫びが、しかし烈火のように砦を包む。
トゥルアの眼差しは、やがて一人の記録官を見つけ出した。
それはかつて、彼女を力ずくで連れ去ろうとした記録官だった。
「や、やめろ……。お、お嬢様らしくないぜ……」
記録官は壁際に追い詰められ、声を震わせながら後ずさる。
トゥルアは一歩も引かず、腰に隠していた細身のレイピアを素早く抜き放った。
鋼の刃が白光を放ち、一直線に相手の喉元へと突き出される。
「す、すまなかった……! お前をただの女だと……言ったことは撤回する……。い、命だけは……!」
刃先が首筋をかすめ、白磁のような肌に赤い線が走る。血がつっと滴り落ちると、記録官の瞳は恐怖で見開かれた。
「父を辱め、私を愚弄した報い……」
トゥルアの声音は凛と震え、決して揺らがない。
「ここで受けよ!」
突き出されたレイピアの切っ先に気圧され、記録官は喉を鳴らし、口から泡を吹き出した。
足ががくがくと震え、制御を失った身体はその場で失禁し、哀れな姿をさらした。
トゥルアの瞳は氷のように冷たく、決してその光景から目を逸らさなかった。
執事が血濡れの刃を納め、静かに彼女の横へと立つ。
「ロープを打ち込み、壁を登って記録官を挟み撃ちにする。採掘場で働いてきた労働者達の腕ならば、記録官などひとたまりもない――と、お見事でございます。お嬢様」
その言葉どおり、戦闘体制を整える暇すら与えられず、記録官たちは捕らえられていった。砦の中心に集められた頃には、抵抗の声はもうなかった。
夜風が再び静けさを取り戻す。血の匂いだけが砦を覆い、倒れた記録官の呻き声が遠ざかっていく。
トゥルアは剣を下ろし、仲間たちを見渡した。労働者たちは歓声を上げる者、涙に崩れる者、ただ虚ろに立ち尽くす者。それぞれの胸に、初めて掴んだ勝利の重さがのしかかっていた。
「皆……よくやりました。これで道は開けます。灯を取り戻すための、確かな一歩です」
歓声が砦を揺らし、谷に反響した。その声は、長い沈黙を破って灯を求める民の叫びでもあった。
――こうして、トゥルア率いる労働者軍は南部砦を制圧し、記録の塔へ進むための道を切り開いたのである。
――
――カン、カン、カン、カン、カン……。
石壁に囲まれた螺旋階段を、一人の女が足早に駆け降りていた。
赤い髪が揺れ、背の矢筒が甲冑にぶつかるたび、硬い音が塔内に響き渡る。
「非常事態だーッ! 武器を掻き集めろ! 村人どもが塔に向かってきている!」
「急げ急げッ! 戦いの準備を怠るな!」
記録官たちが叫びながら廊下を走る。その中に、弓を握った女――フレアの姿があった。
しかし、その瞳は彼らとは違っていた。
彼女は周囲をちらちらと確かめながら、眉間に深い皺を刻んでいる。
「へへ……ついにこの剣を振るう時が来たな。何人殺れるか、勝負しようぜッ」
軽薄に笑う記録官の言葉が、耳に突き刺さった。
フレアの足が止まる。
次の瞬間、彼女はその男の後頭部を鷲掴みにし、容赦なく石壁へ叩きつけた。
――ドンッ!
「うげぇッ!」
血と呻き声が散り、記録官は床に崩れ落ちる。
フレアの顔は、いつもの冷静な仮面を剥ぎ取られたように険しかった。
その圧倒的な威圧感に、周囲の記録官たちは息を呑む。
「フ、フレア上級記録官……!」
誰かが掠れ声で呟く。
次の瞬間、彼女を取り巻いていた記録官たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
フレアは何も言わない。ただ前を見据え、再び階段を下り始める。
――カン、カン、カン……。
胸の奥に溢れる疑念が、もう抑えられなかった。
なぜ……。
なぜ記録官が民と刃を交えている?
なぜ、人を守る者であるはずの私たちが、民を傷つけている?
なぜ、民が命を賭してまで訴えているのに、灯を分け与えない……?
ひとつ、またひとつと疑問が胸を穿つ。
それは、張り詰めた水門がきしむ音のように、心の奥を揺らし続けた。
やがて、理性という堤は決壊しようとしている。
フレア自身も、それを危機として感じていた。
足音は次第に速くなる。
鼓動もまた、階段を叩く拍子のように高鳴る。
――そして彼女は、一つの扉の前で立ち止まった。
そこはかつて、記録官を志していた若き日。
シンと机を並べ、剣を握り合った訓練室だった。
静寂の中、部屋の片隅にひと振りの剣が置かれていた。
それは――シンの剣。
フレアの呼吸が一瞬止まる。
胸に押し寄せる過去の記憶と、いま目前に迫る危機感。
彼女はゆっくりと歩み寄り、伸ばした指先をその柄に触れさせた。
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