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戦いの火蓋

記録の塔・中層。

塔全体がざわめきに包まれていた。どこかで怒号が上がり、記録官の駆ける足音が石壁に反響する。


要人隔離用の一室に閉じ込められていたココは、落ち着かぬ気配を敏感に感じ取っていた。

粗末ではないが殺風景な部屋。机と椅子、寝台が一つ置かれているだけ。窓はなく、分厚い扉が世界を閉ざしている。


ココはその扉に耳を当て、小さく息を呑んだ。

――外が、慌ただしい。

何が起きているのだろう。


その時。


カチャリ、と金属が鳴る。

扉の錠が外れる音だった。


ココははっとして両手を広げ、一歩身を引く。

軋む扉の隙間から現れたのは、両手に盆を抱えた一人の記録官だった。

彼もココと同じように驚いた表情を浮かべた。


「ココ様……。パンとお水をお持ちしました」


「あ、はい……」


彼は食事係だった。塔に連れて来られて以来、毎日欠かさず顔を見せる男である。

灰色のマントの下に記録官の鎧を着けてはいるが、背丈はココと同じほど。小柄でまだ若い。眼差しは穏やかで、どこか村人を思わせる気配がある。


扉を閉め、盆を机に置くと、コップに水を注いで差し出した。


「こんな物しかないのですが……どうか、お召し上がりください」


「ありがとうございます」


ココは椅子に座り、小さく会釈した後、パンを手に取った。

村で食べてきた固いパンとは違い、白く柔らかく、指先で押すとふわりと沈む。かすかに甘い香りが漂い、ココの胸を温める。

ここに閉じ込められてから、このパンだけが小さな楽しみだった。


彼女が口に運ぶのを、記録官は黙って見ていた。

その視線に気づいたココが、訝しげに問いかける。


「……何ですか?」


男はわずかにためらい、そして苦笑を浮かべた。


「僕は……あなたに感謝しているのです」


「え……?」


「ずっと足を患って歩けなかった祖母が……泣きながら、あなたの話をしていました。『灯の巫女様は、私たちを救いに来てくださった』と」


その言葉に、ココの胸が震えた。

脳裏に浮かんだのは、ノルト村で出会った老婆の姿だった。あの時、思わず抱きしめた丸く小さな背中。皺に刻まれた笑顔と涙。


――記録官を嫌い、声をあげて杖をついていたおばあちゃん。


だが小柄な記録官の顔に浮かんだのは、迷いを帯びた影だった。


「正直、僕には分かりません。あなたが正しいのか、記録官が正しいのか……」


彼は声を潜め、言葉を続ける。


「ただ……灯の管理が、あまりにも厳しすぎるのではないかと。時に……そう思うのです」


ココは思わずパンを持つ手を止めた。

この塔の中にも、揺らいでいる人がいる。

恐怖と義務に縛られながらも、どこかで疑いを抱いている者が。


ココは少し驚いたものの、柔らかく微笑んだ。


「あなたのような記録官もいるんですね。私が見てきた記録官は、ほとんどが人を縛る人たちばかりでした」


記録官は肩を竦めて答える。


「規律を重んじる方や、世襲の記録官は大体そうですね。彼らは村の実情を見ていない。

ですが、僕は違います。ノルト村を出て記録官になりました。祖母にはこっぴどく叱られましたが……」


ココは目を丸くし、それからくすっと声を漏らした。

両手で膝を抱えるようにして、身を揺らす。


「あぁ、ですね。あのおばあちゃんなら、杖で頭をこつんとやりそうです」


記録官も吹き出し、二人は自然と笑い合った。

塔の冷たい空気の中で、ほんの一瞬だけ、村の縁側にいるような安らぎが生まれる。


束の間の温もりが、石造りの塔に小さく灯る。


「ココ様、実は今、塔の外で……大変なことが起こっています」


「ど、どうしたんですか?」


記録官は言葉を選ぶように息を呑んだ。


「灯を返せと……あなたを返せと……村人たちが、武器を手に、塔に向かっております」


「えっ……」


ココは思わず立ち上がりかけ、裾を踏んで小さくよろめいた。

胸の奥で、かすかな灯が不安に揺らいでいた。


――


「灯を我々に返せ!」

「灯の巫女を返せ!」


群衆の叫びが波のように広がり、記録官宿舎町の石畳を揺るがした。

ランタンを掲げた民たちが塔を目指し、谷を隔てる関所へと押し寄せてくる。


その前に立ちはだかるのは、黒衣をまとった記録官たち。

彼らの眼差しは冷たく、剣の鞘に手を添えながら叫ぶ。


「静まれ! 灯は我らが管理しなければならない!

それが秩序というものだ! お前たちには扱えぬ!」


怒声が響いたそのとき、群衆の先頭にいたクローが一歩踏み出した。

無精髭を歪ませ、声を張り上げる。


「うるせぇッ! 灯がなけりゃ俺たちは腹も満たせねぇし、夜も眠れねぇ!

まともな暮らしもままならねぇんだよッ! もっと灯をよこせッ!」


その怒りに呼応するように、群衆の奥から別の声が重なった。


「お前らみてぇな石壁の家に住む連中に、俺たちの苦しみが分かるか!」


「いつも高いところから見下してばかりだ!」


「巫女のあの子の灯だけが、私たちを救ってくれた! お前たちじゃない!」


叫びは次第に渦となり、記録官たちの声をかき消していく。

やがて群衆の一角から、――トマスが前へ踏み出した。

その顔は憔悴しながらも、眼差しには必死の光が宿っている。


「俺たちは、昔のように灯を囲み、畑で子供たちが走り回り、大人たちが酒を酌み交わし笑う。そんな日常を取り戻したいだけなんだ!」


トマスの声が、谷を越えて響いた。


彼の脳裏に浮かんだのは、小麦畑でスカートを揺らし、笑っていた少女の姿。

――ココ。あの子がいなければ、もう村に明日はない。


トマスは歯を食いしばり、拳を突き上げた。


「俺たちの日常を奪い、俺の大事な娘を、塔に閉じ込めた!俺の大事な娘を――ココを返せぇッ!!」


「ココを返せ!ココを返せ!」


押し寄せる声の波は、怒りと渇望を孕みながら、地鳴りのように記録官宿舎町を震わせた。


宿舎町の関所を守る記録官たちは、群衆を前に互いに顔を見合わせた。普段なら冷静に秩序を説く彼らも、今ばかりは声の圧力に喉を詰まらせていた。


「静まれ!」


「灯は我々が管理するものだ!お前たちに渡すことはできぬ!」


必死に言い返すが、その言葉は虚しくかき消される。群衆は動きを止めない。一歩、また一歩と前に進む。土埃が舞い、足音が地面を揺らす。


「これ以上の進行は許さん!」


ついに、ひとりの記録官が堪えきれず剣を抜いた。刃が灯の光を弾き、ギラリと光を走らせる。


「ここから一歩でも進めば――斬る!」


その言葉に、群衆が息を呑む。だが次の瞬間、抑えてきた怒りが爆ぜた。


「ふざけやがって!この野郎ッ!」


民衆の列から、一人の男が飛び出した。顔は煤け、痩せた手に握られた鍬が振り上げられる。


刹那、記録官の眼が大きく見開かれる。反射的に剣が振り抜かれた。


――音が消える。


群衆の喉が凍りつき、風さえ止まったかのように時間が引き延ばされる。


鍬が振り下ろされるより早く、鋭い銀の軌跡が夜気を裂いた。

刃は抵抗をほとんど感じることなく肉を断ち割り、わずかな遅れをもって血が噴き出す。


ブシャアアアッ――!


紅の飛沫が宙を舞う。

それはただの血ではなかった。灯の光を受け、無数の赤い花弁のように煌めき、空へ散っていく。

ひとしずくが石畳に落ち、次いで、滝のように溢れる鮮血が土を黒く染めた。


男の目は驚愕に見開かれたまま、声を発する暇もなく揺らぎ、膝が崩れる。

鍬が手から離れ、鈍い音を立てて転がる。その音すら、谷に響き渡る鐘のように長く尾を引いた。


――倒れる。


体が地面に沈む瞬間、世界は息を殺したように静まり返った。

群衆は叫びも忘れ、記録官たちも剣を振り切ったまま硬直している。


その静寂の中で、血の匂いだけが濃く広がっていく。

夜気と混じり、鉄の甘さを帯びて、誰もが喉に苦味を覚える。


世界は確かに動いているはずなのに、誰もが「時間が止まった」と錯覚した。

血の赤だけが、現実であり、抗えぬ事実だった。


そして――。


「やりやがったなッ!」


クローの怒声が空気を切り裂いた。

アーゼの民を率いるその男が、前へと踏み込み、分厚い盾を掲げた。


「俺たちはもう引けねぇ!道を開けないなら、開けさせるまでだッ!」


その叫びと同時に、アーゼの民が一斉に動いた。盾を前に突き出し、互いに肩を押し合わせ、密集した壁を築く。鉄が擦れる音が響き、ファランクスが形成されていく。


「うおおおおおおおおおッ!」


雄叫びが夜空を震わせ、盾の壁がうねりを上げて前進する。


記録官たちは慌てて剣を構え、槍を突き出す。だが群衆の勢いは止まらない。

土煙が舞い上がり、鉄と鉄がぶつかり合う甲高い音が響く。


「押せぇッ!」


クローの怒号に応え、アーゼの民が足を踏み鳴らす。盾が押し込み、記録官の列が揺らぐ。


「止めろ!止めろォ!」


記録官の声は必死だが、恐怖に震えている。仲間の剣がぶつかり火花を散らす。斬りつけたはずの刃は、分厚い盾に弾かれ、逆に押し返される。


「ぐああっ!」


一人の記録官が弾き飛ばされ、地に転がった。すかさず群衆の怒りが降り注ぐ。石が飛び、棒が振り下ろされ、呻き声が響く。


血の匂いが濃くなる。叫びと怒号と鉄のぶつかり合う音が混じり、もはや秩序など存在しない。


トマスは群衆の中で震えていた。だが、その目には迷いがなかった。

――ココ、お前を助けに行く。


胸にその決意を燃やし、彼もまた前へと踏み出した。


戦いの火蓋は、完全に切られたのだった。

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