闇中の灯
薄曇りの空の下、記録官の宿舎町は、不気味なほどの静けさに包まれていた。
見張り台の上で、一人の記録官が欠伸を押し殺しながら、古びた望遠鏡を覗き込む。
「……おかしいな」
低く漏れた声に、隣の男が眉をひそめた。
「どうした?」
「灯が……やけに多い」
そう答えた記録官の額には、じわりと汗が滲んでいた。
望遠鏡の向こう――谷の底から山裾をなぞるように、点々と灯が揺れている。最初はせいぜい数十の群れに見えた。だが、視界を横に滑らせるたび、灯の列は果てしなく連なっているのが分かる。
「そんなはずは……貸せ」
望遠鏡を奪い取った隣の記録官が覗き込んだ瞬間、息を呑んだ。
灯を掲げた民衆の列。
老いた背を丸めた者も、腕に子を抱いた女も、まだ幼い少年少女さえも――皆が灯を握りしめている。数にすれば五百。だが一つにまとまった光は、闇を押しのける奔流のように見えた。
その顔は疲労に沈むどころか、怒りと決意に燃えていた。
「……これは」
男の喉が震えた。
「伝令を出せッ!」
怒号が上がった途端、宿舎町の空気が張り詰める。駐屯していた記録官たちが慌ただしく走り、武具の金属音がそこかしこで響き出す。
だが、それらを掻き消すかのように――風に乗って声が届いた。
「灯を我々に返せッ!」
「灯を我々に返せッ!」
「灯の巫女を返せッ!」
「灯の巫女を返せッ!」
五百の喉が揃って叫ぶ声は、岩肌に反響して地鳴りのように迫ってくる。
足音は重く、一定のリズムで大地を震わせる。まるで一つの巨大な獣が歩んでくるかのようだった。
黒雲を押し分け、夜明けが迫るかのような光景。
それは、この世界を揺るがす反乱の兆しだった。
――
記録の塔、地下。
冷たく湿った空気が、肺の奥にまで染みついていた。
重い鉄扉が軋み、閉ざされた闇にひとすじの光が差し込む。
ギィィィィ……
独房の隅に、鎖に繋がれた影がある。
シンは上級記録官の仮面を奪われ、鉄の足枷をはめられたまま、膝を抱え、俯いて動かない。
「久しぶりだな……シン」
独房の暗がりに踏み込んだのは、ヴァルターだった。
上から見下ろすその男の瞳に、哀れみとも嘲りともつかぬ色が宿る。
シンは声に気づき、ゆっくりと顔を上げた。鎖が擦れ、金属の響きが乾いた空気に溶けた。
眉間に深い皺を刻み、その眼はなお鋭く、ヴァルターを射抜く。
「……ヴァルター」
「見窄らしい姿になったな、シンよ」
「……笑いに来たのか?」
「ふっ…、いや、貴様の処分が決まったのだ」
ヴァルターは一歩、独房の中に踏み込む。
硬い革靴が石を打つ音が、不吉な鐘のように響いた。
「上級記録官でありながら、我らの制度に刃向かった罪。反逆罪――刑は、死だ」
「……そんなことを言いに来たのか。理解しているさ」
シンは乾いた笑みを一瞬浮かべて消した。
「ならば、最後に思い出話でも……と、思ってな」
「思い出話……?」
ヴァルターの眼差しが遠くを見た。
「貴様が誑かしたあの少女が言っていた。我らは、記録官も村人も……この地に生きるすべての者が、灯の国の民なのだ、と」
沈黙。
シンは視線を落とし、何も答えなかった。
「浅はかな仮説にすぎん」
ヴァルターの声は冷え切っていた。
「貴様が吹き込んだのであろう?私が昔、戯れに語った言葉を、真実のように覚えているとはな。……だが、この世はもっと根深い。失われた歴史を追うなど愚行に過ぎぬ。かつて私も熱意を燃やしたが……全ては戯れ。現実を見るべきだと悟った」
その言葉に、シンの眼が燃え上がる。
鎖で縛られた身体がわずかに前へ傾いた。
「……ならば問おう、ヴァルター」
ヴァルターは眉をひそめる。
「何をだ」
「俺たちは……、一体、何者なんだ?」
シンの声は鎖の響きよりも重く、独房に落ちた。
「村で生きる者を村人、支配する者を記録官。同じ地に生き、同じ灯を讃えながら、互いは分断されている。……それで、俺たちは何者と呼べる?」
ヴァルターは目を細める。
「民は民だ。それ以上の名など必要ない」
「ならば、王はなぜ、ミュレットの書を残した? なぜ、石版に言葉を綴った?」
シンの眼は炎のように燃えていた。
「あの不死鳥の扉は、施錠機構が施されている。おそらく俺たち以外、他国の侵入者には決して開かれぬ仕組みだ……。灯の国の民だけに、未来を託すためにな」
「未来を託すだと? あれは灯喰いを呼ぶ呪われた書だ。辿り着いたその先に残るのは、破壊と混沌だけだ」
「違う…」
シンは首を振る。
「王は民を救うために灯を残した。国が滅んでも、その後の民が、俺たちが、再び繁栄できるように!」
ヴァルターは視線を逸らさずに答える。
「だが、我らには灯がある。危険な書に頼らずとも、記録官の手で灯を与えられるではないか」
シンは吐き捨てるように言った。
「……俺にはそうは思えん。記録官が操るあの青白い灯は、本物じゃない。ミュレットの書が生み出す純粋な灯――それこそが、王が託した未来の証なんだ!」
「……」
短い沈黙ののち、ヴァルターは背を向ける。
「何も変わらんさ。灯はすでに我々の手中にある。ならば、灯の国などという歴史に埋もれた幻想に、意味はない」
「俺は信じたい。王が残した灯――ココの灯こそ、誰もを救う真実の灯なのだと…!」
その時だった。
重苦しい空気を裂き、駆け込んでくる足音が響いた。
鉄扉の外から、切羽詰まった声が飛ぶ。
「ヴァルター様! 囚人に会いに行かれたと聞いて……探しました!」
「どうした」
ヴァルターが眉をひそめる。
「民衆が……! 灯を我らに返せと……灯の巫女を返せと……塔へ向かっております!」
「なに……っ!」
ヴァルターの身体がびくりと震えた。
硬直した顔に、わずかに恐怖の色が浮かぶ。
一瞬、独房を支配していた冷たい均衡が崩れた。
その刹那――。
「……くっ……くっくっくっ……」
鎖の中のシンが、震えた。肩が揺れ、俯いた顔の影から、不敵な笑みが零れ出す。
やがて、その震えは笑いに変わり、独房の石壁にこだました。
「ふっ……はははははは! はははははっ!」
狂気とも歓喜ともつかぬ声。
ヴァルターは言葉を失い、記録官は青ざめた。ただただその姿を凝視する。
笑いの中、その目は炎のように爛々と輝き、独房にシンの声が鋭く響き渡った。
「どうやら……笑うのは、こちらだったらしいな!民が、立ち上がったぞ!!
――はっはっはっはっはっはっ!!」
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