受け継ぐ意思
トゥルアの邸宅
サロンのテーブルに両手を置き、俯いたまま微動だにしないトゥルア。
大きな窓の外には、手入れのされなくなった花園が広がっていた。色鮮やかだったはずの花々は、いまや黒ずんで萎れ、土ばかりが露わになっている。
外の静けさは、まるで何かが終わった後の世界のようであった。
チリン、チリン――。
玄関の呼び鈴が鳴り響く。
「お嬢様、どなたか来られたようです」
「……いいわ。私が見てきます」
掠れた声で答え、トゥルアは俯いたまま重たい足を引きずるようにして玄関へ向かった。
扉を開けると、そこには三人の記録官が立っていた。どの顔もいやらしい笑みを浮かべ、こちらを見下ろしている。
「灯の巫女が捕まった。採掘場も、あの有り様ではもう終わりだ。この区域に灯はいらん」
一人が吐き捨てるように言う。
トゥルアの脳裏を、一瞬、あの灯を配っていた少女の顔がよぎった。しかし口は閉ざしたまま。
「この屋敷の灯も、もはや必要ない。だが……どうしてもと言うなら、残してやってもいい」
別の記録官が舌なめずりするように笑う。
「条件は簡単だ。俺たちに奉仕することだ、お嬢様」
言葉に濁った笑いが続く。
「グレイブ上級記録官が死んだ今、お前はただの女だ」
「お前の親父が血まみれで築いた権威も、今や残りカスだ」
「だからよ――俺たちに抱かれて生き延びろ。そうすれば灯は消さずにいてやる」
吐き捨てるような声とともに、ひとりがトゥルアの頬を撫でようと手を伸ばした。
「さ、触らないで……!」
彼女が思わず身を退くと、別の記録官が腕を掴み、強く引き寄せた。
「おい、逃げるなよ。いい身体じゃないか」
「上玉だな。汚れる前に味わってやるさ」
にやついた顔が間近に迫る。
トゥルアは必死に身を捩る。
「い、いや……! 離してッ!」
「叫んでも誰も来やしないさ。採掘場の村人どもは全員廃人さ」
「お前が泣こうが喚こうが、俺たちの糧になれるんだ。誇れよ」
必死に抵抗するが、力は及ばない。記録官の顔に、いやらしい笑みが広がった、その瞬間――。
ドゴッ!
家の奥から、鋭い音と共に鉄骨のように硬い衝撃が走った。記録官が呻き声をあげ、顔を押さえる。
そこに立っていたのは、老練な顔に深い皺を刻んだ執事だった。手には長いステッキを握りしめ、殺気を孕んだ眼光で侵入者を射抜いている。
「……お帰りください」
静かな一言。
バタン、と無慈悲に扉が閉ざされる。
「おい、覚えてろよ!また来るからなッ!」
「こんな小娘と老いぼれに刃向かわれるとはな」
「次は屋敷ごと焼き払ってやる!」
捨て台詞を残し、記録官たちは去っていった。
扉が閉まった瞬間、トゥルアの膝が崩れ、床に沈む。
堰を切ったように嗚咽が溢れ出した。
「う……うぁぁぁ……あぁぁあぁぁ……!」
「お嬢様……」
「私が……!私が信じていたものは…、全部…、全部嘘だった……!」
執事が苦悶の面持ちで立ち尽くす。
「私が夢見た記録官とは……あのような卑劣な者達でしたの……!?父の採掘場も……あんなもの…誇りでもなんでもない……!!」
――チリン、チリン。
その時、再び呼び鈴が鳴った。執事がトゥルアを庇うように前に立ち、険しい目で扉を開ける。
そこに立っていたのは、煤にまみれた男たちだった。破れた作業服、固く握りしめた手。その中の一人がかすれた声で口を開いた。
「……仕事を……ください」
トゥルアは振り返る。見窄らしい男たちが並んでいた。
「俺たちに……仕事をください」
「仕事をください……」
繰り返される声。
だがトゥルアは視線を落とし、首を横に振る。
「わ、私は……父のような管理者でも……記録官でもありません……」
か細い声。だが男たちは退かなかった。
一歩踏み出したところで、執事が手を上げて制する。
それでもなお、男の声は力強さを帯びていた。
「……あんたは、グレイブさんの娘だろ。俺たちは知っている。あの人は確かに厳しい人だった。だが、誰よりもツルハシを振るい、泥にまみれ、血を流して働いていた」
トゥルアの瞳が揺れる。
「その背中が、どれほど傷だらけだったか、俺たちは見てきた。……あの背中に、何度もついていこうと思ったんだ」
冷たい夜風に混じり、煤の匂いをまとった声が彼女の胸に深く響く。
「だから……あんたなら。グレイブさんの娘のあんたなら……俺たちをどうにかしてくれる」
沈黙が落ちた。
執事は無言で、ゆっくりと扉を閉じる。
冷たく閉ざされた玄関口に、男たちの影が残った。
彼らの声はまだ、扉の奥の少女の胸の奥底で木霊していた。
サロンの奥。
トゥルアはまた椅子に沈み込み、両の手を握り締めていた。
その横で、執事は静かに棚の奥に歩み寄る。
鍵を取り出し、埃を被った長細い箱を抱えて戻ってきた。
「……お嬢様」
低く落ち着いた声。
彼は箱をテーブルに置くと、丁寧な手捌きで蓋を開いた。
中には、布に包まれた一本の剣が収められていた。細身の刃。美しい銀の鍔には繊細な装飾が施されている。レイピアだった。
「これは……」
トゥルアの目が揺れる。
「お母様が、生前お使いになっていた剣です」
執事の声には、静かな敬意が滲んでいた。
「お母様もまた、立派な記録官でおわせられました。柔らかく、しかし強く。……誰よりも民を守ろうとされた方でした」
トゥルアの記憶に、母親の面影はない。
物心ついた頃から、彼女の記憶には、父と執事の二人しかいなかった。
「お嬢様……。あなたが生まれる前のことを、お話ししてもよろしいでしょうか?」
トゥルアは静かに頷く。
「あの岩山で、最初に鉱脈を見つけられたのは、グレイブ様と奥様――あなたの母君でございました。
二人が見つけたのは、ただの山ではなく、崩れて土に埋もれた、古い鉱山の跡でした。
岩を砕くと、中からいくつもの希少な鉱石が姿を現しました。お二人は迷うことなく掘り進め、やがて深く穿った先で、先人が空けた坑道とつながったのです。
それから労働者が増え、私もまたその内の一人でした。仲間と共に鍬を振るい、灯の明かりを頼りに坑道を掘り――
ですが、灯を使えば必ず奴らが現れる。灯喰いと呼ばれる魔物です。
奥様は剣を振るい、グレイブ様は鋼のつるはしを武器に、そして我ら労働者は鋤を。
皆で命を張りながら、坑道を広げていったのでございます。
やがてさらに人々が集い、採掘場は町のように賑わいを見せました。
その中で奥様はあなたを身籠られたのです。
……けれど、お嬢様。
その喜びは、長くは続きませんでした。
あなたがお生まれになる時、奥様は長い長い苦しみの末に……力尽きられた。
グレイブ様は深い悲しみに沈まれました。
しかし、それでも立ち止まることはなさいませんでした。
灯をともし、鉱石を掘り、あなたを育てることを、奥様との誓いとされたのです。
私はその時、心に決めたのです。この身を、この方に捧げようと。
それからはグレイブ様と二人で、あなたを育てる日々でした。
あなたが成長されるにつれて、私は誇らしく思いました。
なぜなら――お嬢様は、奥様と生き写しのように似てらっしゃるからです。その瞳は、奥様と同じ強さを宿しておられる」
トゥルアの瞳に、ゆっくり光が入り、涙が溢れる。
「世の中は変わり、記録官が灯を管理するようになり、採掘場は『労役場』と呼ばれるほどの過酷さを増しました。
人は資源と数えられ、汗と命はただの数値に換えられてゆく。
グレイブ様は表向きには制度を守り、人を資源と呼ぶこともなさいました。
ですが、その胸の内では、彼らを仲間と呼んでおられた。――労働の徒、と。
だからこそ命を張り、灯喰いと戦ったのでしょう」
執事は剣を布から抜き取り、鞘ごと差し出す。
銀の刃がわずかに煌めき、サロンの薄暗い灯りを反射する。
「グレイブ様が背負ったものと同じく、これはお嬢様にこそ受け継がれるべきもの。……グレイブ様は剛毅で不器用なお方でしたが、奥様は剣と心で人を導かれました」
トゥルアは震える指で、その剣を受け取った。
掌に伝わる冷たさが、胸の奥で静かな痛みに変わる。
「……私は……」
言葉が喉で詰まった。
自分には父のような力も、母のような気高さもない。だが――。
執事は静かに言葉を重ねた。
「選ばれるのではありません。意思を継ぐか否かは……お嬢様が決めることです」
――
採掘場の門は開かれたまま、中はどんよりと暗く、石壁から滲み出る水が、ぽたり、ぽたりと泥の地面に落ちていた。
灯は乏しく、労働者たちの顔は闇に溶け、判然としない。
道具を膝に置き、背を丸め、ただ座り込む。
吐息すら重く、疲弊の色は拭えなかった。
その時――。
「ぐああああッ……!」
門の外側から、肉を裂くような見張りの記録官の断末魔が響いた。
労働者たちはびくりと肩を震わせ、一斉に振り向く。
だが、何が起きたのかは誰にも見えない。
直後、その空気を破るように、地面を引きずる足音が近づいてくる。
やがて視界の奥から、一人の女性とステッキを持つ老執事が姿を現した。
かつては上質だったであろうスカートは泥に濡れ、裾はほつれ、靴はぬかるみに重く沈む。
それでも背筋は真っ直ぐに伸び、その瞳は闇の一点を射抜いていた。
中央で立ち止まると、彼女は深く息を吸い、はっきりと声を放つ。
「私は――グレイブ・ハルトフェルドの娘、トゥルア・ハルトフェルドです」
わずかなざわめきが広がる。
名を知る者は多い。
かつてこの採掘場を築き、命を賭して守った男の名は、この場所において特別な重みを持っていた。
「……私は、何も知らなかった」
トゥルアは俯き、泥に濡れた手を握りしめる。
「父が記録官であることで、私は守られ、与えられる暮らしの中にいました。
記録官の制度の中で、誰もが手を取り合い、豊かで幸せに暮らしていると――私は、そう信じていたのです」
暗がりの奥で、誰かが低く呻いた。
その声は疲労でもあり、諦めでもあった。
「でも違った。
皆さんは毎日、泥に塗れ、血を流し、過酷な労働を強いられていた。
私は……その現実から目を背けていただけだった!」
彼女の声が震える。涙が頬を伝い、泥に落ちて消える。
「……私は、無知で、非力で、もはや全てを失い、何もない…!だからこそ…、一つだけ、父の意思を、代わりに伝えたい…!」
トゥルアは顔を上げた。
その瞳には、迷いを突き破った光が宿っていた。
「父は記録官として、制度に逆らうことはできませんでした。それでも命を守るために、自らの命さえ賭けた。
私はそれこそが、父が最後に示した本当の言葉だと思います。
制度は人を守れなかった。守ったのは父の意志です。
何者でもない私だから言える。こんな制度が――正しいはずがない!」
沈黙。
だが、その沈黙の奥から、一人の老人が顔を上げた。
「……俺は知ってる。あんたの父ちゃんが採掘場に来た時、記録官でありながら、泥にまみれて俺たちと同じように汗を流していた。…あんな記録官、あの人しかいなかった」
別の男が口を開いた。
「そうだ。俺たちが崩落で死にかけたとき、真っ先に飛び込んで来たのはグレイブ様だった。責務だとかなんとか言ってさ」
声が重なり、暗闇の奥からいくつもの吐息が灯のように漏れる。
小さな火が、確かに芽吹いていた。
トゥルアは人々を見つめ、懐から一本のレイピアを抜いた。
それは母の遺した剣。細身の刃に、かすかな灯が映り込み、淡く輝いた。
「私に――皆さんの力を貸してください。
この制度を終わらせ、皆さんの幸せを取り戻したい。
希望の灯を……掲げましょう!」
刃先が天に掲げられた瞬間、ひとりの労働者がスコップを持ち上げ、地面を打ち鳴らした。
カン……カン……
澱んだ空気を裂くように、その音が坑道に響く。
やがて別の者が鍬を、また別の者が槌を。
カン、カン、カン……。
音は幾重にも重なり、採掘場全体が地鳴りのように震えた。
その振動の中で、労働者たちの瞳が一つ、また一つと光を帯びていく。
泥に塗れた足元から、確かな希望が芽吹くようだった。
体力が残ってる限り、毎日1投稿目標にやってるので、よければブクマ、評価ポイントよろしくお願いします!




