邂逅
山稜を越えた先には起伏の激しい荒野が広がっていた。
蛇行する道は踏み固められただけの粗末な土道。
道と呼ぶにはあまりに心許ないが、塔を起点に四方八方へと放射状に伸び、遠い村々を結んでいた。
その道を、二頭の黒いアグリが砂埃を巻き上げながら進んでいく。
軋む車輪と幌の揺れが荒野に響き、その前後には、
同じ黒いアグリに跨った記録官が、無言のまま付き従っていた。
やがて塔の麓の石畳に、車輪のきしむ音が止まった。
アグリの鼻息と、木製の幌が揺れる乾いた音が響く。
記録官の一人が無言で扉を開ける。
その手が無造作にシンの腕を掴むと、引きずるように外へ降ろした。
シンは顔を上げず、靴先だけを見つめて立つ。
一拍遅れて、ココも外へ降ろされる。
足元の石畳は冷たく、膝がわずかに震えた。
目の前にそびえ立つもの――
それは扉と呼ぶには重苦しく、壁と呼ぶにはあまりにも巨大だった。
毎日のように遠い空の向こうに眺めていた塔は、いざ目の前に立つと、見上げてもなお頂が見えなかった。
雲に呑まれ、地平へ刺さるように伸びるその威圧が、息を押し潰す。
ココは喉に声を詰まらせながら、シンを振り返った。
「シン……」
だがシンは視線を上げない。
ただ前を見たまま、影のように歩き始める。
記録官が冷たく告げた。
「双方、別に引き渡す」
そのひと言で、ココは縛られた手を引かれ、反対の方向へ引き離される。
「シン! シン、待って……!」
声は澄んでいるのに、塔の壁にぶつかって濁ったように響き返る。
シンの足取りは止まらない。
振り向きたい気配だけが、一歩遅れて揺れている。
フレアが馬車から降り、小さく目を伏せる。
ノエヴィアは仮面越しに笑う。
「ふふっ……いい夜ですねぇ。塔は静寂がよく似合う」
石畳を踏む足音が、微かな残響となって散る。
そのわずかな音だけが、圧倒的な沈黙の余白を埋めていた。
――
記録の塔地下・独房室
重い鉄扉が軋み、冷え切った石造りの廊下に不快な金属音が低く響いた。
記録官二人がシンの両腕を荒々しくつかみ、引きずるようにして奥の独房へと押し込む。背中が石壁に叩きつけられ、鈍く湿った音が独房の中にこだました。
「……っ」
短く息を吐きながらも、シンは倒れ込むことなく壁に手をついて立ち上がる。仮面は記録官に回収され、すでに反逆者となったが、その目はまだ、折れてはいない。
扉の外でノエヴィアが立ち止まり、素顔が見えない仮面の下でにやりと笑う気配を漂わせた。
「シン殿、寂しいでしょうが……しばらくこちらでごゆるりとお寛ぎください。ふふっ」
その声は、湿り気を帯びた石壁にまとわりつくように響く。
シンは険しい顔で睨み返し、扉が閉じられる寸前に鋭い視線をノエヴィアに突きつけた。
「……」
ノエヴィアは仮面越しに愉快そうな気配を漂わせ、片手をひらひらと振る。
「チャオ♪」
その奥で、石の冷気に沈む闇の中、フレアが無言のまま立っていた。影に溶けるような彼女の姿は、表情すら見えない。
視線が一瞬だけ絡む。
カン、と鉄が噛み合う音とともに扉がすぐ閉ざされた。厚い鉄の隔たりが、静けさと暗闇を独房に閉じ込める。
残されたのは、閉ざされた鉄扉の外で響く記録官たちの靴音と、冷たく湿った空気だけだった。
――
記録の塔・上層――ヴァルターの私室。
高い書棚に囲まれ、わずかな明かりが木の机を照らしていた。
窓の外は薄暗く、黒い雲が塔を中心に渦巻くように伸びている。
部屋の中央には小さな椅子が置かれ、その両端に背筋を伸ばした記録官が待機している。
椅子には、ココが両手を後ろで縛られ、座らされていた。ミュレットの書は既に奪われ、その手の中には何もない。ココは俯いたまま、無力感と不安を押し殺すように唇を噛んでいた。
やがて、重々しい扉が音を立てて開く。長髪、白髪の背の高い男が杖をつき、静かに入ってきた。ヴァルターである。長いマントの裾が床を擦り、手にはミュレットの書が握られていた。彼は俯くココの前に立ち止まり、その威圧感だけで彼女の体を震わせる。
「私は記録官長、ヴァルター・ウォールデン。灯の巫女よ。お前とは、話がしたいと思っていた。名を何という?」
低く落ち着いた声が降りかかる。
「…ココ」
ココは怯えながらも、小さな声で答えた。
「灯の濫用の罪、分かっているのか?」
ヴァルターは俯くココの顔を覗き見るように言う。
「私はただ、みんなを助けたかっただけ……」
「助ける?」
ヴァルターの目が冷たく細められる。
「灯をばら撒くことが、どれほどの危険を招くかも知らずにか」
「……知ってる。灯は……灯喰いを呼び寄せる……」
ココは小さく首を振った。
「ならば、何故それが人の救いになる?」
ヴァルターの声は揺るがない。
「記録官の制度は、灯喰いの出現を抑え、人々を守るためのものだ」
「守る……?」
ココの脳裏に、旅の途中で出会った人々の顔が浮かぶ。制度に縛られ、苦しみに耐えていた人々の表情――。彼女はきゅっと眉を寄せ、顔を上げた。
「その制度によって、自由を奪われた人たちの気持ちが……あなたに分かるの!?」
少し癖のある金色の髪が揺れ、大きな瞳がヴァルターを映す。一瞬、ヴァルターの鋭い目がわずかに揺らぎ、しかしすぐに立ち直る。
「自由など幻想に過ぎん。人はすべからく愚者。規律を守る者は選ばれ、それ以外は管理される。それが、人が人として生きる手段だ」
「規律、規律って……! 人が苦しんでいるのを上から見て、何もしないほうが正しいっていうの!?」
「規律はこの世界を保つためのものだ。お前のような者が灯を使えば、争いを呼ぶだけだ」
「でも……」
ココは必死に声を張る。
「笑ってくれた人がいた。喜んでくれた人がいた! それのどこが悪いの!?」
ヴァルターは一歩踏み出し、その影がココの身体を覆った。
「理想だけで人は守れん!感謝の笑顔の裏で、別の誰かが血を流す!灯を扱える者は、救う命も選ばなければならないッ!」
「シンは言ってた!」
ココの声が力強く響く。
「私たちは……記録官も、村人も、この地に生きるすべての人は、灯の国の民なんだって!」
ヴァルターの眉間に皺が寄る。
「私たちは同じ民……同じ血を継いでるんだよ。それって……」
ココは目を見開き、真っ直ぐに彼を睨みつけた。
「それって……家族ってことだよね! どんなに弱くても、どんなに愚かでも……私たちは、灯を共に分かち合える!誰も見捨てたりなんかしない!」
その言葉に、ヴァルターの脳裏をかすかな記憶が掠めた。
遠い遠い日、――妻と娘が自分に向けて笑ってくれた光景。
ヴァルターの胸に、瞬間、揺らぎが走る。
「……!」
彼は歯を食いしばり、かき消すように首を振った。
そしてミュレットの書を掲げ、怒声を放つ。
「黙れッ! この書がなければ、お前はただの小娘だ!」
ココは眉尻を下がらせ、両手は震えていたが、必死に表情を整え、不安に堪えていた。
「この呪われた書は、私があの遺跡で見つけたものだッ!お前たちには、二度と渡さんッ!」
ヴァルターは踵を返し、側で控えていた記録官に問う。
「巫女が蒔いた灯の回収は進んでいるか」
記録官は一瞬言葉を選び、恐る恐る答えた。
「手間取っておりますが……概ね、順調かと」
「ふむ……。巫女と名乗る不届き者とその連れを捕縛した。そのことを全域に伝えよッ!分かったら連れて行けッ!」
「はっ!」
記録官は敬礼し、ココの肩を取る。立たされたココは一瞥だけヴァルターを見上げたが、すぐに視線を逸らし、俯いたまま歩き出す。
扉が閉じ、部屋に再び静寂が満ちた。
ヴァルターは机に腰を下ろすと、静かに息を吐き、ミュレットの書を机上に置いた。重厚な革装丁は、長い時を超えてなお威厳を放っている。
「……シンの奴め。書の廃棄を命じたはずだが」
ゆっくりと手を伸ばし、表紙を開こうとした。だが、書は沈黙のまま動かない。ページは一枚もめくれず、まるで意志を持つかのように彼の指先を拒んでいた。
「……これは……」
眉をひそめたヴァルターの瞳に、わずかな動揺が走る。
だがすぐに顔を引き締め、唇を結んだ。
「……この書は、主人を選ぶ……。あの時と……同じだということか」
言葉は誰に向けられたものでもなく、静かな室内に溶けていく。ただ、同時にヴァルターの脳裏には、一つの疑問が過っていた。
――
木の壁に囲まれた薄暗い酒場は、以前よりわずかに明るかった。灯のともるランタンが揺れ、男たちの合唱が響く。
麦酒の香りと笑い声が混ざり、夜の疲れを忘れさせるような賑わいだった。
その時――
重い扉が軋みを上げて開く。冷たい風と共に、酒場の空気が一瞬にして凍りつく。
「……おい」
誰かが低く呟いた。
視線が扉に集まり、歌声が途切れる。
灰色のマントを翻し、数名の記録官が足を踏み入れた。床板が彼らの靴音にきしむ。
「この村に無許可で配られた灯を回収する。巫女の所業は、規律違反だ」
隊長格の記録官の声は、氷のように冷ややかだった。
だが、酒場の男たちは誰一人として立ち上がらず、静かに彼らを睨み返す。
杯を置く音さえ聞こえぬほどの沈黙。
空気に張りつめた緊張が走り、灯の揺らめきがやけに大きく見えた。
『灯の断章 〜ココと記録の塔〜』を読んでいただきありがとうございます。よろしければ、ブクマ、評価をお願いします。励みになります。
『灯の断章 外伝 〜赤い髪のフレア〜』も投稿しております。合わせて楽しんでいただけると幸いです。
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