白の記録官
ココは息を詰め、思わずシンの袖を握る。
フレアは唇を噛みしめ、シンはただ無言で前へ一歩進んだ。
「……ノエヴィア・ホープ」
シンが口にした名、それが彼の名前だった。
白装束に身を包み、他の上級記録官と違い、頭をすべて仮面で覆っている。
彼の素顔を見た者はいない。だが、その地位は、シンやフレアより新参にも関わらず、既に上級記録官として並び立つ異例の存在。
その立ち姿には、不自然なくらいの威圧感と、不気味な影がまとわりついていた。
「シン殿、そんな怖い顔をなさらずに……」
仮面越しの声は妙に朗らかで、それなのに、底に冷たさが沈んでいる。
シンは一瞬たりとも視線を外さない。
ノエヴィアはその沈黙を楽しむように、ゆっくりとココへ視線を滑らせた。
「おやおや〜、その子が……灯の巫女ですか。ふふ……ずいぶんと可愛いですねぇ。僕の好みです」
場違いな発言に、空気が一瞬凍りついた。
「えっ……?」
ココは恐怖と困惑に目を丸くし、思わず一歩下がる。
その瞬間、シンは無言で剣を抜いた。
冷ややかな金属音が響くと同時に、背後の記録官たちが一斉に武器を構える。しかしノエヴィアは軽く腕を上げ、ひらりと制した。
「下がっていなさい。……せっかくの機会なんですから」
記録官たちは命令に従い、息を揃えて一歩下がる。
広がった空間に、ただシンとノエヴィアだけが向かい合った。
ノエヴィアは顎に手を添え、愉快そうに笑う。
「シン殿。僕はね……前から一度、本気でやってみたかったんです。上級記録官同士……どちらが上かをね」
仮面の奥で笑う気配がする。
シンは鋭く睨み返した。
「勝負だと……?」
「ええ」
ノエヴィアは楽しげに顎に手を添えた。
「もしシン殿が勝てば、僕らはここを引きましょう。……ですが、もし負ければ――」
わざと間を空け、仮面の奥で口元が吊り上がる気配を漂わせる。
「シン殿は塔に帰って、お仕置き。巫女殿は僕が貰います」
ココはびくりと肩を震わせた。
その一瞬に、シンが飛び出す。黒銀の剣が閃き、ノエヴィアに迫る。
――キィィン、キィィン、キィィィン!
鋭い金属音が城内に反響する。
ノエヴィアは仮面の奥で笑みを浮かべているように見えた。シンの連撃を、余裕を見せるように受け止め続ける。
「何を意地になっているのです?ふふっ」
――キィン、キィン、キィン、キィン!
「ふふっ……もっと早く! もっと早くですよ、シン殿!」
――キン、キン、キン、キン、キンッ!
シンの剣速はさらに上がり、影のように揺らめく。
だが、ノエヴィアもまたその速度に食らいつき、受け流していく。
「……チィッ!」
シンは歯を食いしばり、舌打ちをする。
不意にノエヴィアの右脚が閃く。
ドンッ!!
鈍い衝撃音とともに、シンの腹部に重い一撃がめり込み、身体が宙を舞った。
「……ッ!」
シンは地面に手をついて着地し、苦悶に顔を歪めながらノエヴィアを睨む。
「おやおや、その程度では……可愛い巫女殿を取られてしまいますよ?」
ノエヴィアは両手を大仰に広げてみせ、仮面越しに不気味な笑いを響かせた。
「っ……!」
ココは慌ててミュレットの書を開こうとする。
「やめろ!」
シンの声が鋭く飛ぶ。
「で、でも……怪我してるから!」
「大丈夫だ……はぁ、はぁ……」
荒い息を吐きながら、シンは黒銀の剣を再び構え直す。
ノエヴィアも愉快そうに剣を掲げる。
「さぁ、続きを!」
「うおおおおおおおおおおッッ!!」
雄叫びと共に、シンが駆けた。
ノエヴィアも地を蹴り、二人がぶつかる。
――ガキィィィィィィィン!!
衝撃が走る。
ギギギギギギッッ!!
渾身の力を込めたシンの剣撃に、ノエヴィアの腕が押し返され――
カラン、カランッ!
その手から剣がこぼれ落ち、床を転がった。
「……!」
その場の全員が凍りつく。
シンは止まらない。斬り伏せんと次の一撃に移ろうとした、その刹那――
「な〜んちゃって」
――バァァンッッ!
乾いた破裂音。
シンの頬を裂き、鮮血が飛んだ。
シンは大きく後退し、歯を食いしばってノエヴィアを睨む。
ノエヴィアの左手に握られていたのは、記録官の装備には存在しない、火薬式の飛び道具。鈍色の鉄器――フリントロック銃。
銃口からはまだ煙が立ち昇っている。
「なっ……なにあれっ……!?」
ココの声は恐怖と驚愕で震えた。
ノエヴィアは楽しげに銃を回しながら笑う。
だが、なおもシンが突進しようとした瞬間――
――ピシュッ!
鋭い風切り音。
シンの足元に矢が突き刺さった。
「……動かないで」
低く冷たい声が場を制する。
弓を構えていたのは、フレアだった。
氷のように澄んだ瞳で、彼女はシンを射抜くように見据えていた。
「フレアさんッ!?」
ココの叫びが上擦る。
「フレア……おまえ……!」
だが、フレアの目は冷静だった。
感情に流されることなく、鋭く状況を見据えている。
「……命令に逆らえば、もっと酷いことになる。ここで反抗するのは賢くないわ」
淡々とした言葉に、ココの胸が冷たく締めつけられる。
夜の帷で語らい、親密になれたと思っていた矢先、その裏切りは、ココにとって、何よりも残酷だった。
「ふふっ、フレア殿」
ノエヴィアは肩をすくめ、芝居がかった声を上げた。
「楽しい勝負事に、水を差すなんて……」
「…ふざけないで!」
矢をつがえたまま、フレアの声は低く鋭く響いた。
「おやおや……怖いですね。」
ノエヴィアは愉快そうに笑みを漏らし、銃をゆるりと下ろした。
そして、シンを一瞥する。
「……残念でしたね」
仮面の奥から冷ややかな視線が注がれる。
シンは無言で顔を伏せる。
「この二人を連行しなさいッ! 巫女は……丁寧に扱うようにッ!」
フレアの号令と同時に、周囲を取り囲んでいた記録官たちが一斉に動き出す。
硬い鎧が軋み、武器が擦れ合い、不気味な足音が朽ちた城の石畳を満たしていく。
ココは目を大きく見開き、震える声でシンの名を呼んだ。
フレアは矢を放たぬまま、表情ひとつ変えず、冷たく沈黙を貫いていた。
――
森の中。
ココとシンは両手を縄で縛られ、記録官たちの列の中に組み込まれて歩かされていた。
足音が乾いた落ち葉を踏み、一定のリズムで森の奥へと続いていく。
ココはおずおずと周囲を見回した。
行きに通ったはずの森が、今は全く違うものに見える。まるで森そのものが、この異質な一団を監視しているかのように。
小枝が軋み、小さな目が草陰からじっとこちらを窺っていた。
シンは終始無言だった。うつむいた顔は影に隠れ、感情を読み取ることはできない。
ココは胸が苦しくなり、声をかけたくても声が出なかった。
列の後方を進むノエヴィアは両手を頭の後ろで組み、まるで散歩でもしているかのように鼻歌を歌っている。
ひどく不気味な旋律が森に溶け、鳥のさえずりさえ押し殺していく。
その後ろ、列の最後尾にはフレアがいた。
彼女は弓を背負ったまま、口を閉ざして歩く。背筋はまっすぐで、仮面の下に浮かぶ感情はまるで掴めなかった。
「それにしてもフレア殿、迫真の演技でした」
ノエヴィアは気取った仕草で立ち止まり、フレアに振り向き、小さく拍手を送った。
「まるで、僕らのほうが裏切られていたのかと、錯覚してしまいましたよ」
その声は笑い混じりでありながら、どこか湿り気を帯びていた。仮面の奥の素顔は知らないが、その笑みが、底知れぬ悪意を孕んでいることを、フレアは感じ取った。
フレアは無表情のまま、淡々と答える。
「……私は、記録官の制度に忠誠を誓っている」
「ふふっ……」
ノエヴィアは怪しく笑い、首をわずかに傾けた。
「それは何より。ですがね……」
彼は歩きながら、ひそやかに声を落とす。
「忠誠の証明は、これからいくらでもしていただきますよ」
その言葉は脅しのようでもあり、愉快な遊戯の誘いのようでもあった。
森は静かなざわめきを響かせていた。
背の高い茂み。その向こうの木立の陰から二つの影が並んで列をじっと見つめていた。
ぱちり、と目を見開かせながら、
そして、淡く光る光球を揺らしながら――
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