真実
朝霧がまだ森に薄く漂い、木々の合間からかすかな鳥のさえずりが聞こえていた。
シンが先頭を歩き、その背を追うようにココとフレアが並んで進む。湿った空気の中、二人の靴音だけがやけに響いた。
「……ありがとう。昨夜は話ができて嬉しかった」
ココの声は小さく、霧に溶けそうだった。
「べ、別に……話したかったわけじゃない。ただ……口が勝手に動いただけ」
フレアは少し顔を背け、声を張るように答える。
「それでも、嬉しかったよ」
ココは柔らかく笑った。
その時、フレアがふいに足を止めた。前方をじっと見つめる。霧の帳の奥に、木々に呑まれた巨大な影が浮かび上がっていた。崩れかけた城の輪郭。
近づくにつれ、それが城門であることが分かる。
アーチ状の石造りは半ば壊れ、太い根と茎が石材を締め付け、まるで自然そのものが人の痕跡を飲み込もうとしているようだった。
「……ここから先は、古の王の領域だ。気を引き締めて行け」
シンの声は低く、張りつめていた。
「古の王……? ここに王様がいたんだ……」
ココは呟き、半ば信じられないように朽ちた門を見上げた。
三人はゆっくりとその門をくぐる。踏み込んだ瞬間、空気がわずかに変わった。
湿った土の匂いに混じり、長い時を経て風化した石の匂い、そして人の手が作り出した文明が土へ還っていく気配が漂っていた。
シンは迷いなく奥へ進み、崩れかけた壁の前で足を止める。
そこに埋め込まれていたのは、古びた金属の扉。中央には翼を広げた不死鳥の紋章が刻まれていた。
「これは……?」
ココが小さく問いかける。
「地下へ続く扉だ。……試してみろ」
シンは短く言い、扉を顎で示す。
促されるまま、ココは恐る恐る扉に手を置いた。
その瞬間、不死鳥の紋章がぼんやりと赤く輝き出し、低く震えるような音が響く。
長い眠りから覚めたように、扉はゆっくりと、静かに開いていった。
「……なに、今の……」
フレアは目を見開き、思わず声を漏らす。
ココも言葉を失い、息を呑んだまま光の消えた紋章を見つめていた。
だが、シンだけは冷静にランタンを掲げ、暗い扉の奥を覗き込む。
「行くぞ」
短いその声に導かれるように、二人は互いに目を見合わせ、息を合わせるようにして扉の中へ足を踏み入れた。
地下道はひんやりとした湿気に包まれ、土と石が混ざった匂いが鼻を突いた。
長い階段を降り、また登り、狭い通路を何度も曲がり抜けていく。
足音と衣擦れの音だけがこだまし、言葉は互いに飲み込まれたまま、沈黙だけが支配していた。
やがて、通路の先がふっと開ける。
三人が足を踏み入れたそこは広間だった。
天井は高く吹き抜け、割れ目から外の光が差し込んでいた。
そのわずかな光に浮かび上がったのは、壁一面に広がる巨大な壁画。
長い時を経て色は褪せていたが、それでも線ははっきりと世界の形を描き出していた。
ココは思わず息を呑む。
「……これは……何?」
それは、ひとつの大陸だった。広大な陸塊が海に囲まれ、複雑に入り組む海岸線や、果てしなく連なる山脈、絡み合うように流れる大河が精緻に刻まれている。
その大陸には、中央を縦横に走るように太い線が引かれており、まるで大陸全体を四分割するかのように区切られていた。
そして、それぞれの区画の中心には、大きな紋章がひとつずつ描かれていた。
赤は不死鳥を象り、青は龍を描き、黒は獅子を刻み、白は三つ首の蛇を示す。
四つの紋章は、この世界を支配する四つの国の存在を表し、各地には都市を示す点が散らされていた。
それはココが知る小さな村や採掘場の世界とは比べものにならない、はるかに大きな「世界」の姿だった。
シンは壁画を見上げたまま、低い声で言った。
「これが……俺たちの生きる世界だ」
「世界……?」
ココの瞳が揺れる。
シンはゆっくりと顎を上げ、壁画の不死鳥の紋章を指さす。
「これが今、俺たちのいる地点。灯の国だ」
そこから上にゆっくり指をやり、ほんの点のように小さく囲まれた区画を指差す。
「俺たちの暮らす土地は、この大陸のほんの点……。記録官が管理している区域など、この世界のほんの一部に過ぎない」
広大な地図の中で、彼らが暮らしてきた場所は、まるで砂粒のように小さかった。
フレアもまた、声を失ったまま壁画を見上げ、かすかに唇を噛みしめた。
「……灯を届けられる場所が、まだこんなにも…あるの?」
ココがかすれた声で呟く。
壁画の壮大さに圧倒されながらも、胸の奥で強く何かが脈打つ。
「かもな」
シンは静かに答えた。
「灯を必要としている人間は、おそらく大陸のどこにでもいるだろう。だが今は……俺たちは、俺たちの土地に生きる命を救うしかない」
そう言って、シンは背を向けると広間の中央に立つ石版の前へ歩み寄った。
苔むした灰色の石は厳かにそびえ、そこに刻まれた文字は、長い時を経てもなお筆の力を宿しているかのようだった。
「……これを見てくれ」
促されて、ココとフレアはゆっくりとシンの隣へ進み出た。
石版の文字に視線を落としたその瞬間、二人の心に暖かいものが込み上げた。
シンは深く息を吸い込み、石に刻まれた言葉を読み上げる。
「余は、灯を携えし王なり。
灯の国の愛しき子らよーー
灯を掲げよ。夜の闇を祓い、恐れず進め。
灯を束ねよ。隣人を敬い、心を寄せ合え。
灯を分けよ。命を助け、永く繁えよ。
たとえ闇がこの世を覆うとも、
旭日の日まで、灯は決して絶えぬ。
そは我が願い。そは我が誇り。
其方らの歩む未来に、永遠の愛と祝福を」
言葉が石からあふれ出し、胸の奥に染み込んでいくようだった。
ココは思わず両手を胸に当て、視界を潤ませる。熱がせり上がり、頬を伝って雫がこぼれた。
「灯の国は、今はもうない。だが、俺たちは……記録官も、村人も、この地に生きるすべての人間は、元をただせば同じ血脈――灯の民なんだ」
シンの低い声が、崩れかけた地下の石壁に反響する。
その言葉の意味を悟った瞬間、フレアの肩が震えた。隣にいたココは息を呑み、彼女の変化を見つめる。
「っ……」
フレアは耐えきれずに顔を覆い、しゃがみ込んだ。押し殺した嗚咽が漏れる。
「歴史も、文化も、文字も、言葉も……今ではすべて失われて、怒りや悲しみ、憎しみが蔓延る世界になっても……」
シンは石版に手を当て、強く押し込むように言葉を絞り出した。
「俺たちの中に――この血と肉の奥底に、同じ“灯”はまだ生きている……!」
ココは胸を詰まらせ、こみ上げるものを抑えられなかった。
「……灯を配ることは……間違いじゃなかった……。まち……がって……なかったんだ……!」
嗚咽混じりに吐き出されたその声は、震えながらも確かな確信を帯びて響いていた。
広間は静かだった。
ただ三人の心臓の鼓動と、石に宿る王の声だけが確かに響いていた。
シンはしばらく黙って二人を見つめていた。
石版に刻まれた王の言葉を背に受けながら、苦悩の影がその瞳に宿っている。
やがて低く、押し殺すような声で口を開いた。
「……ずっと言わなければならなかったことがある」
涙に濡れた顔を上げ、ココは驚きと不安を混ぜて彼を見つめる。
シンはその視線を正面から受け止め、深く息を吸い込んだ。
「……ミュレットの書を祠の下に隠したのは……俺だ」
「……え?」
ココの口からかすれた声が漏れる。
フレアも息を呑み、動きを止めた。
「どういう……こと?」
シンは目を閉じ、暗闇に沈む記憶を掘り起こすように、ゆっくりと語り始めた。
「……十三年前。俺は探究の旅の途中、この場所でミュレットの書を見つけた。
そして、お前たちと同じように……王の言葉に心を打たれた。
灯を信じ、人々に手渡した。村を巡り、笑顔に触れ……それが正しいと、心から思っていた」
ココの瞳が大きく見開かれる。
けれどその続きを聞いた瞬間、その光は揺らいだ。
「……だが、それから半年過ぎたある夜。ひとつの村に“灯喰い”が現れた。
ほんの一夜で、村は滅びた。誰も彼もが喰われたんだ……。
それが……“ウィズの夜事件”だ」
空気が重く沈む。
フレアが震える声を漏らす。
「……まさか……あんたが……?」
シンは苦しげに目を伏せた。
「……俺が導いた光が、村を滅ぼした。
その直後から記録官たちによる管理が始まったんだ。
人々を救おうとした俺の行為が……結果として、人々の自由を奪った。
……だから俺は、ミュレットの書を手放した。
灯を配る資格が、俺にはないと……そう思った」
言葉は鈍く、だが刃のように鋭く胸を抉る。
長い沈黙。
シンは目を上げ、かすかに揺らぐ声で続けた。
「……だが、ココ。お前がミュレットの書を手にして現れた時……
俺はもう一度、信じてみようと思ったんだ。
人の心に寄り添う優しさを持つお前なら、
俺とは違う選択を……お前なら未来を変えられると」
その告白を受け、フレアは顔を伏せ、小さく震えた。
「……あんた、ひどいよ。全部隠して……人に押し付けて……」
だが、その声には怒りだけではなく、哀しみと共感が滲んでいた。
「すまん……」
シンは深く呟いた。
ココは長い沈黙ののち、静かに石版へと手を伸ばした。
冷たい石の感触を掌に受け止めながら、震える唇を固く結ぶ。
やがて彼女は、涙に濡れたままの瞳をシンへ向けた。
その視線は迷いながらも、強い意志の光を帯びていた。
「……私は進むよ。
たとえまた、誰かを傷つけることになったとしても……
それでも――灯を信じたい。信じ続けたい」
言葉は石の壁に吸い込まれ、静かに反響する。
だがその声には、灯だけでなく目の前に立つ男――シンそのものをも信じたい、という想いがこもっていた。
その眼差しを受け止めたシンは、しばし息を詰めたまま動けなかった。
彼の胸に長く絡みついていた黒い鎖が、ほんの一瞬、解けていくような気がした。
――
三人は長い階段を登り切り、石の扉を押し開いた。
軋む音と共に外気が流れ込み、ほの暗い地下道の空気が一気に揺らぐ。
だが、その先に広がっていた光景に、三人は息を呑んだ。
「おやおや〜……やはり、ここでしたか。さすがはヴァルター殿のお言葉どおり」
低く冷ややかな声が響く。
開かれた扉の外には、大勢の記録官たちが整然と陣を敷き、通路を塞いでいた。
冷たい光を放つ槍や剣の刃が、三人へ一斉に向けられている。
その中央に、一際目を引く男が剣を持ち、立っていた。
白銀の刺繍が施された純白の装束をまとい、胸元には上級記録官の証たる紋章が燦然と輝いている。
その佇まいは、聖職者のように穏やかでありながら、背後の記録官を従える威圧感を纏っていた。
『灯の断章 〜ココと記録の塔〜』を読んでいただきありがとうございます。よろしければ、ブクマ、評価をお願いします。励みになります。
『灯の断章 外伝 〜赤い髪のフレア〜』も投稿しております。合わせて楽しんでいただけると幸いです。
→ https://ncode.syosetu.com/n8441lj/




