夜の帷で
森の奥は、まるで時間そのものが止まったかのように静まり返っていた。
踏みしめた湿った土が、足裏にひやりとした感触を残す。そのたびに微かに立ち上る腐葉土の匂いが、深く深く澱んだ空気に溶けていく。
ココは喉の奥がひりつくほど緊張しながら、シンの背中を追って歩いていた。
ふいに——。
背後の草むらが、風の音とは違う気配をまとって揺れた。
シンの体が反射の速度で動く。
肩を掴まれたと思う間もなく、ココの身体は彼の背後へとさっと引き寄せられた。
「動くな」
その声は低く、刃物のように鋭かった。
空気が凍る。
木陰から現れたのは弓を構えた女。
赤い炎のような髪が揺れ、仮面の下から覗く瞳がまっすぐにシンを射抜く。
「……追ってきたのか」
シンは一歩も動かずに言った。
声は穏やかだが、剣を持つ腕には緊張がこびりついている。
女の矢先は微動だにせず、二人の視線がぶつかり合った。
フレア。
かつてシンと肩を並べた記録官。
彼にとっては、戦場で互いの呼吸さえ知り尽くした“唯一の同僚”と言ってもよかった。
ココはあまりの迫力に、息を飲んだ。
彼女の矢の狙いはまったく揺らがない。
矢羽が震えることさえなく、ぴたりと二人に焦点を合わせている。
「……確かめに来ただけよ。あんたの真意を」
彼女はそう言うとふいに空気が変わった。
仮面を外し、凛とした素顔を露わにした。
あまりに美しく、あまりに冷たい炎のような眼差し。
だが、その声には揺らぎがない。
「まだ灯を配る気?
禁断の森にまで入り込んで……。今度こそ、ただでは済まないわよ」
澄んだ瞳が、どこか痛みを押し殺すように揺れた。
しかしシンの答えは、さらに揺るぎなかった。
「そうだ。だが、今の制度のままでは、民は緩やかに死んでいくだけだ。
灯を独占し、配給も減らし、希望を与えず、人々を支配している……。
それが正しさとは、俺は思えない」
フレアは小さくため息をついた。
その指はまだ弓を放つ構えを崩していない。
「……じゃああんたは何になるつもり?
ただの反逆者? 裏切り者?」
彼女の声がわずかに揺れる。
「俺は人を救いたい。
たとえ灯を配ることで灯喰いを呼び寄せたとしても…。
記録官は人を守るためにあったはずだ」
森に冷たい風が吹き抜ける。
フレアの指が弓を引き絞ったまま、わずかに震えた。
シンの言葉が嘘ではないことを、誰よりも知っているのは彼女だった。
シンは一歩も退かず、彼女の瞳を真っ直ぐに見返した。
森の葉がさやさやと揺れ、矢羽だけが時間に置いていかれたように静止している。
その長い沈黙に、フレアは息を詰まらせた。
やがて、矢がゆっくりと下ろされた。
彼女はほんの一瞬だけ目を閉じ、そして呟く。
「……黙って行かせはしない。けど——この先に何があるのか、見届けさせてもらう」
「わかった……」
森のざわめきが二人の間を通り抜ける。
赤い髪が風に舞い、ココはその姿を見つめながら、自分の心臓が早鐘を打つのを止められなかった。
——―
道は次第に傾斜を増し、足元は不安定になっていく。
「はぁ…はぁ…」
ココの息が荒くなる。
「ここからは坂になっている。気をつけて進め」
シンの声が前から響く。
かつて人々が登ったのだろう、石造りの階段。しかしほとんどが土に埋もれ、苔むして原形を失っていた。
シンは迷いなく先を進んでいく。
ココが足を取られそうになった時、背後から声がかけられた。
「大丈夫。ゆっくり気をつけて進んで。私が後ろにいるから」
フレアが周囲の森を見渡しながら言う。
ココは小さく頷いた。
「ありがとう…ございます」
礼を言いながらも、視線は合わなかった。
やがて道はさらに険しさを増し、登るというよりは這い上がるような急斜面となる。
「ここを越えたら今日は休もう」
シンが振り返らずに言った。
ココは必死に木の根や幹を掴み、体を引き上げる。
高い段差ではフレアが後ろから手を押し上げてくれた。
心臓は早鐘を打ち、汗が首筋を伝う。
そして——。
ココがある太い根を掴んだ瞬間だった。
ググ……グググググ……!
土中に埋まっていた根が引き抜け、斜面が崩れ落ちる。
大小さまざまな石が頭上から雪崩のように降り注いだ。
「きゃああッ!!」
ココは思わず伏せ、目を強く閉じる。
その瞬間、フレアが弓を構えた。
シュバッ…ヒュン! シュバッ…ヒュヒュン!!
放たれた矢は矢継ぎ早に石を撃ち抜き、軌道を逸らし、次々と粉砕する。
落石の破片が飛び散る中、一本たりともココには当たらなかった。
やがて崩れは収まり、森に静けさが戻る。
「……あ、ありがとう…ございます」
ココは震える声で言った。
フレアは矢を収め、無言のまま顔を逸らした。
——
坂道の中腹には、崩れた柱や苔むした石畳が残されていた。
かつてここに立派な建造物があったことを物語るように。
崩れた柱の影で、シンは焚き火を起こしていた。
乾いた枝が爆ぜ、小さな火の粉が闇の中に舞う。
炎の揺らめきが三人の顔を照らし、長い旅の疲れをやさしく包む。
シンは傍らに剣を置き、すぐに眠りについた。
フレアは少し離れた石壁の上に腰をかけ、弓を膝に立てかけたまま炎を見つめている。
目を閉じても眠る気配はない。
その姿を見て、ココはおずおずと近づいた。
火の温もりが頬をなで、胸の鼓動が早くなる。
「…あの、隣いいですか?」
フレアは一瞥をくれるだけで、肩をすくめた。
「好きにしな」
促されるように、ココは遠慮がちに腰を下ろした。
それでも少し距離を空ける。焚き火の赤い光がふたりの影を地面に長く落とし、炎がはぜるたびに顔を明滅させた。
沈黙が続き、ココは膝に重ねた手を見つめながら、ちらちらとフレアの横顔を盗み見る。
フレアは目を閉じていたが、眠ってはいない。
「…その、さっきは助けてくれて、ありがとうございます」
「別にあなたのためじゃないわ。記録官として当然守っただけ」
「うん、でも…もうダメかと思って……。フレアさん、すごくかっこよかった…」
フレアは目を開け、横目でココを一瞥した。
その視線には、どこか探るような色が混じっていた。
「へぇ、あなたが灯の巫女だなんて。全然巫女って風には見えない。泥くさいし…」
「泥くさい…ですか?私、小さな村でおじさんと二人暮らしで…。
ずっと畑仕事ばかりで、こんなことになるなんて、夢にも思わなかった……
灯の巫女なんかじゃないです。……私、ただの村娘なんです」
ココは少し笑うようにして、言葉をつなぐ。
「私、本当はこわいんです。灯を配ることが、ほんとに良いのかって…」
「灯を配れば、灯喰いが現れる。それを恐れているのね?」
フレアの言葉に、ココは口を噤んだ。
やがて言葉を選ぶように、ぽつりと続ける。
「はい、怖いです。でも…喜んでくれた人の顔が、頭から離れなくて…。
私、ただ…あの笑顔をもう一度見たいだけかもしれない」
「……」
焚き火がぱちりと爆ぜる音だけが響く。
フレアは黙ったままだったが、その横顔がほんのわずかに緩んだように、ココには見えた。
「フレアさん…、その、私のこと、良く思ってないですよね?」
ココの小さな声が、夜の森に溶けていった。
フレアは返事をせず、炎を見つめる。燃える木片が崩れ、火の粉が宙に舞う。
「話してみると…あなたは普通の女の子なのね。悩んで、迷って、怖がって…でも笑っていたいって思ってる。…そういうの、ちょっとズルい」
「ズルい…ですか?」
「うん、そんな風に、自分のままでいられるのって、私には…ちょっとできなかったから」
その言葉に、ココは目を見開いた。
「私も…ほんとは迷ってばかり。あなたと同じ」
焚き火の明かりがふたりの間を穏やかに照らし続ける。
炎が揺れるたびに、影が近づき、また離れた。
「ありがとう、フレアさん。話せてよかった」
「何の礼よ?私は見届けに来ただけよ」
そう言いながらも、その横顔はどこか柔らかかった。
ココはふと、思いついたように微笑む。
「もしかして…フレアさんて、シンのこと、大事に思ってます?」
フレアがびくりと肩を揺らす。
「な、なによ、急に!」
「いや、なんか、そんな気がして…」
「思ってないわよ!あんなやつ!私たちはただ、一緒に戦ってきただけ。シンが無茶して、私が尻拭いする。それだけの関係!」
「ふふっ、怪しい〜」
「うるさいッ!」
火の粉が弾け、夜空に舞い上がる。
焚き火の明かりが、ふたりの影を重ねた。
ぎこちなく始まった会話は、少しずつ距離を縮めていく。
互いの迷いを知り、同じ光の下にいることを知った。
——それだけで、きっと意味のある夜だった。
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