ルーミアの冒険
深夜。
焚き火は赤く熾りを残し、ココは苔の上に荷を枕代わりにして体を丸め、膝を抱え込んで浅い眠りについていた。
少し離れた石畳の崩れの上では、シンが背を壁に預けて目を閉じている。
……そのとき。
ルーミアの鼻先がふいに震えた。
濃い湿気に混じり、胸をざわつかせる、不思議な匂い。何か…特別なものを感じる。
ルーミアは、ぱちりと目を開き、しばしココとシンを振り返り、それから静かに立ち上がった。
角の先の光球が淡く揺れる。
そのかすかな光に導かれ、ルーミアは森の奥へと歩みを進めていった。
……
夜の森は異界だった。
湿った地面の隙間から、白く細長い虫がにゅるりと這い出しては、また苔の下へ潜り込む。
太い枝の上では、羽音を立てない黒い蛾が、何十匹もじっと翅を震わせていた。
倒木の影からは、形を持たぬ柔らかい光がふわりと浮かび上がり、ルーミアの足元をまとわりついて消えていく。
森は静かではなかった。だがその音は、どこか遠くから響いてくるかのように掴みどころがない。
ルーミアは時折、ぱちりと瞬きをしながら進んだ。耳を立て、鼻をひくつかせ、前へ前へと。
やがて――
そこにいた。
純白の雌のアグリ。
しなやかな体躯、透き通るような毛並み。
その角は細くしなり、先端に宿る光球は揺れることなく澄んで輝いていた。
ルーミアは立ち止まり、ぱっちりと目を開く。
胸の奥で何かが強く脈打つ。
雌も一瞬だけこちらを振り返った。
だがすぐに背を向け、音もなく歩き出す。
ルーミアは慌てて追いかけた。
けれども次の瞬間、雌は後ろ足で湿った土を蹴り上げ、彼の顔に浴びせかけた。
「……!」
土の粒が目に入り、ルーミアはぎゅっと瞬きをする。
再び目を開けたとき、雌の姿はもう見えなかった。
残された彼はしばらくその場に立ち尽くし、やがて伏せて頭を垂れる。
寂しさが、胸に重くのしかかった。
ココとシンから逸れてしまったことへの不安が、ひときわ強くなる。
瞼を閉じ、じっと動かない。
……
そのとき――
澄んだ鳴き声が闇を裂いた。
ルーミアはぱちりと目を開き、耳をぴんと立てる。
間違いない。確かに聞いたあの声は、彼女のもの。
ルーミアは立ち上がり、全身で声の方へ駆け出した。
……
そこにいたのは、必死に逃げ惑う雌のアグリ。
ザッ、ザッ、ザザッ!
その背後を追うのは、木々を押し倒しながら進む巨大な影。
ズシィィン!ズゥゥゥン!
――ワニのような怪物。
だが体躯は彼らアグリの倍以上、鱗は鉄を思わせるほど硬質で、口を開けば鋭い歯列が光る。
メリメリッ、バキバキィィン!
大地が揺れ、森が裂ける。
ルーミアの目が大きく見開かれた。
ぱちぱちと瞬きをしながらも、逃げる彼女を見捨てることはできない。
ルーミアは咄嗟に地面の石を咥え、勢いよく放り投げた。
石は怪物の鼻先に鼻先を直撃し、鈍い音を響かせた。
「グルルアアアアアッ!!」
怪物の黄色い眼がぎろりとルーミアを捉えた。
次の瞬間、巨体が地鳴りを響かせながら突進してくる。
ルーミアは身を翻し、木々の間をすり抜けた。
ドドッ、ドドドッ!
細い幹を盾にし、倒木を跳び越え、狭い岩の裂け目をすり抜ける。
だが巨体はそれをものともせず、木をへし折り、大地を砕きながら執拗に追ってくる。
――このままでは追いつかれる。
ルーミアの瞳がぱちりと閃いた。
彼は森の奥に聳える朽ちた巨木へと駆けた。
根は地面を盛り上げ、幹の一部は空洞になっている。
ルーミアはそこを潜り抜け、一直線に駆け抜ける。
追いすがるワニの怪物もまた、口を開けて空洞に頭を突っ込む。
――今だ!
ルーミアは空洞を抜けた瞬間、幹に背を向けて後ろ脚で蹴り飛ばした。
衝撃で巨木が軋み、積もっていた苔と土が一斉に剥がれ落ちる。
そして――
「メギャアアアアッ!!」
巨木が音を立てて崩れ落ち、空洞に首を突っ込んでいた怪物を丸ごと押し潰した。
ドガァン!ガシャァァン!
轟音。大地を震わせる衝撃。
骨が砕け、鱗が裂け、血と泥が四方に散った。
ルーミアはぱちりと瞬きを繰り返す。
自分が思っていた以上に、怪物は口を閉じ、酷い有様になっていた。
しばらくその場に立ち尽くし、息を詰めて動けない。
……
やがて、静かな足音が近づいた。
純白の雌のアグリが姿を現した。
彼女は震える鼻先でルーミアの首筋に触れ、そっと擦り寄せた。
ルーミアの胸に、熱いものが込み上げる。
孤独も、不安も、今はもうなかった。
――
森はまだ、夜の深みに沈んでいた。
けれど、あたりには闇を押しのけるように、無数の光虫が舞っていた。
淡い粒子のような光が、静かに漂い、やがて二つの影を浮かび上がらせる。
ルーミアと、純白の雌のアグリ。
二頭は並んで駆け抜け、寄り添うように跳ね、茂みの間を軽やかに抜けていく。
しなやかな体が交差し、鼻先が触れ合えば、光虫たちは一斉にその周囲を取り囲む。
まるで祝福するかのように。
茂みの影から、その光景を見つめる二人の姿があった。
ココとシン。
「……すごい音がして、飛び起きたけど……」
「巨大な口で相手を威嚇し、丸呑みする怪物だ。だがああなっては……二度とその口は開かないだろう」
「ルーミア、ほんとにすごい……。ル――」
ココが思わずルーミアを呼ぼうとしたそのとき。
「しっ」
シンが指先で制し、静かに息を吐く。
二頭の戯れを見守りながら、シンは低く、しかし確かな声で言った。
「……あいつはもう、一人じゃない。つがいを見つけたらしい。惜しいが、ここに置いていこう」
その言葉に、ココの瞳が揺れる。
「ルーミア……新しい家族を見つけたんだね」
目尻に淡い雫が浮かび、ココはそっとシンの袖を掴む。
胸に込み上げる寂しさを抱えながら、それでも瞳を逸らさなかった。
二頭は、ただ自由に駆けていた。
苔を蹴り、崩れた石畳を越え、森をまるで舞台のように駆け巡る。
光虫の光が尾を引き、跳ねるたびに輪郭を金糸のように縁取る。
ココはその光景を、深く心に焼き付けた。
別れは寂しい。けれど、それは終わりではなく――新しい生の始まり。
二つの影はやがて森の奥に消え、残された光虫の群れだけが、淡く漂い続けていた。
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