混戦
トゥルアは窓辺に腰を下ろし、うっすらと曇ったガラス越しに庭を眺めていた。
色とりどりの花々が揺れている。けれど、心は少しも落ち着かない。
「……お父様ったら。帰られたばかりだというのに、またお仕事だなんて」
ぽつりと零す声は、部屋の静寂に溶けて消える。
指先で膝の上のリボンを弄びながら、彼女は深くため息をついた。
「今日が一体何の日か……お忘れなのでしょうか」
わずかに潤んだ瞳が、テーブルの上に置かれた花束へと向けられる。
淡い色の花弁が整えられ、細やかに飾り付けられている。
それは彼女が朝から用意していたものであり、待ち望んでいた「特別な日」を象徴する小さな証だった。
けれど、その花に目を向けるたびに胸の奥が締め付けられる。
外に出ていった父の背中が、今もなお鮮明に焼き付いていた。
――
シンとグレイブは坑道の違和感に気づき、振り向く。
グレイブの目が見開かれ、汗が頬を伝う。苦しみながら這い出てくる労働者たち、そして異音を放つ送風機。それらを見た途端、彼の脳裏には次の展開が予測できた。
「いけない、助けなきゃ!」
ココは思わず駆け出した。
だが、その腕をグレイブが素早く掴み、採掘場全体に聞こえるような鋭い声で言い放った。
「動くな――伏せろ!」
怒号と同時に、彼は庇うようにココの肩を押さえつけ、地面に伏せさせる。
シンを含め、その場にいた誰もが、その言葉に従った。
次の瞬間、地の底から――
ドォォォンッッッッ!!
地の底から爆ぜる轟音が咆哮し、坑口が眩い赤黒い光に呑み込まれた。
炎が獣のように唸りを上げて吹き荒れ、熱波が砂と小石を巻き込みながら大気を切り裂く。
大地そのものが跳ね上がったかのような衝撃が、耳をつんざき、胸を叩きつけた。
焼け焦げた空気の匂いが鼻を突き、砂塵が雨のように降り注ぐ。
グレイブの厚い背中に守られながら、ココは地を這う衝撃波に全身を震わせ、ただ必死に息を殺した。
視界の端で、這い出た労働者のひとりが爆風に弾き飛ばされ、土煙の中に呑まれていく。
やがて、爆炎は衰え、坑口は黒煙を噴き上げる裂け目と化す。
キィィィィィン……
甲高い耳鳴りだけが鳴り続けていた。
轟音も、労働者たちの悲鳴も、熱波の余韻すらも、すべてその一音にかき消されている。
「……動くな。様子がおかしい……」
グレイブは周囲を睨み、ココに覆いかぶさっていた身体を起こし立ち上がる。
ココは耳鳴りの中、震える体を傾け、ゆっくりと坑口を見た。
黒煙の奥で――何かが、動いた。
最初に見えたのは、土を掴む細長い“指”だった。
指先は鋭く湾曲し、刃物のように長く伸び、鉤爪となっている。
煤にまみれた地面から、ぬうっと手首が伸び、その爪が、地面をガリガリと削りながら這い出す。
その腕は不自然に震え、まるで生まれたての子鹿のように、関節の意味を忘れてしまったかのような震え方だった。
次に、肩……そして顔らしき影が現れる。
だが、それは顔とは呼べない何かだった。
煤に焼けた皮膚のような質感が生々しく、
目に見える場所には眼球らしきものはなく、
ただ窪んだ穴の奥で、赤黒い光が砂粒のように燻っている。
膝が揺れ、脚は逆関節のように折れ曲がり、バランスを崩しながら、
まるで糸に引かれる操り人形のように、よろめき立ち上がった。
その動きは、人のようで――決定的に人ではない。
「……ぁ……ぁ……」
音とも呼べない音が漏れた。
呻きと呼吸と、不完全な発声がごちゃまぜになったような、言葉の欠片。
続いて、二体目。
三体目。
影が次々と這い出し、煤けた地面の上で、生まれたばかりの獣のように震えている。
その全てが同じように首を垂れ、同じように膝を震わせ、
同じように、ゆっくりと頭を持ち上げた。
コツン、とひとつが首を傾けると、
遅れてその無数の頭が、一斉にココたちのいる方向へ向いた。
灯を、探している。
嗅ぐように空気を震わせ、焦点の合わない目の穴で宙を彷徨い、
それでも確かに――灯の在り処を視認しようとしている。
その姿は、迷子の子供のように弱々しく、
同時に、飢えた獣のように執念深かった。
「灯喰いだ! 採掘場の全記録官に告ぐ!労働者達の人命を最優先!その上で――戦える者は私に続け!」
グレイブの咆哮が、耳鳴りと黒煙の中を貫いた。
その声音に、怯えていた労働者たちの視線がわずかに持ち上がり、記録官たちの背に力が宿る。
「ココ!」
シンが低く言う。
「お前は怪我人の救援を!……ただし、俺の目の届く範囲にいろ!」
そう告げると、シンは仮面の奥の目を鋭く光らせ、グレイブと並び立った。
「……フン。一時休戦だ。今は争っている場合ではなさそうだな」
グレイブが戦斧を構え、シンは剣を抜き放つ。
「――ああ。守るべきものは同じだ!」
黒煙が揺れ、人型の灯喰いが一斉に咆哮を上げて突進した。
「ギシャァァァァァァァッ!!」
その叫びは、生物の声ではなかった。
掠れた金属が悲鳴をあげたような、干からびた喉が無理やり絞り出したような、
おぞましい音の渦だった。
「来るぞ!」
「ああ」
最前に飛び出した一体を、グレイブが斧で正面から受け止める。
ガキィィィィィィン…!
衝撃で大地が揺れたその隙を突き、シンが背後に回り込み、一閃――。漆黒の身体を、剣が鋭く切り裂いた。
二体目が腕を振り上げた瞬間、グレイブの戦斧が唸りをあげて振り下ろされ、分厚い肉を裂き、腕を切断する。血とも煙ともつかぬ赤黒い光が噴き上がった。
そこへさらにもう一体。咆哮を上げ、闇を割って飛びかかる。だがその影を、シンが剣を横薙ぎに振り抜き、火花を散らすように弾き返す。
「君のような裏切り者と、共に刃を振るうとはな…」
「話している暇はないぞ…」
連続する斬撃と斧撃。まるで呼吸を合わせた舞踏のように、二人の動きが繋がっていく。
「す、すげぇ……!」
「これが……上級記録官の力……!」
戦いながら、周囲の記録官たちは呆然と声を漏らした。凄まじい連携に、ただ圧倒されるしかなかった。
だが、坑口に口を開けた黒煙の裂け目――そこから、不吉なざわめきが再び溢れ出す。
「……まだ、来るのか……!」
崩れた岩壁の隙間、揺らぐ残り火を押し分けるようにして、影がぞろぞろと這い出してくる。
呻くような音を漏らし、ただ「灯」を求めるかのように両の腕を伸ばし、這い進む。
数は一体や二体ではなかった。
じわり、じわりと闇の底から湧き上がるように、幾重にも重なり合って姿を現す。
それは、まるで底なしの穴から溢れる黒い波のようだった。
空気が震え、記録官たちの誰もが息を呑む。
「まだ終わらない……!」
シンとグレイブは互いに一瞬視線を交わし、再び武器を構えた。
その一方で――。
ココは必死に周囲を見回し、自分にできることを探していた。戦うことはできない。ただ祈るように手を伸ばし続けるしかなかった。
「た…助けて…」
視界の端で、瓦礫に足を挟まれた労働者がもがいていた。血が滲み、呼吸は荒い。
「大丈夫……!今、癒すから!」
震える手でミュレットの書を開き、灯を呼び出す。温かな光がほとばしり、労働者の裂けた肉を繋ぎ、血を止めていく。
その刹那――。
背後から、空気を切り裂く影が忍び寄る。音もなく、闇に溶けて迫る灯喰い。
「……っ!」
振り返る時間すらなかった。
――ズバッ!
鋭い音が空を裂いた。次の瞬間、赤い光が灯喰いの胸を貫き、黒煙が破裂するように散る。異形は悲鳴を上げる間もなく、崩れ落ちた。
振り返ったココの目に映ったのは、弓を引き絞る一人の影だった。
炎のような赤髪を翻し、鋭い眼差しを放つ女の記録官。
「記録官フレア! 加勢するッ!
門を開放せよ!労働者たちを外へ避難させよ!」
彼女の叫びが、戦場をさらに熱く燃え上がらせた。
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