第三章:交渉の魔術師と街の目
「ミヅキ、ケンタロウ。応答しろ。状況はフェーズ2に移行。地下への侵入経路を確保する」
カノンの声は、止まった時間の中で、研ぎ澄まされた刃のように響いた。その直後、まるで待ちかねていたかのように、俺の脳内に、また別の声が滑り込んできた。それは、アヤトとは異なる、柔らかくも芯のある女性の声だった。
「了解でーす、カノンさん。あたし、準備万端ですよぉ」
それは、ミヅキ・イトウの声。彼女はギルドの交渉役。心理学を応用した話術は、どんな鉄壁の人間でも、彼女の前では心を許してしまうという。その才能はまさに「魔術」の域だ。渋谷の喧騒の中でも一際目を引く、トレンド最先端のファッションに身を包み、常に笑顔を絶やさない。だが、その目の奥には、獲物を見定めるような冷徹な光が宿っている。指先には、計算されたかのように美しいネイルアートが施されていた。
「ケンタロウさんも、ちゃんと動いてますよね?」ミヅキの声は、ふと、隣の男に確認するように変わった。
すると、少し間があって、ガサガサと砂っぽい、どこか楽天的な声が聞こえてきた。
「おうよ、ミヅキちゃん。俺ぁいつでもシャッターチャンス狙ってるからな。それにしても、こんなド真昼間っから渋谷が止まるなんて、とんでもねぇスクープだぜ!」
それは、ケンタロウ・オオツカの声。彼は表向き、フリーのジャーナリストだが、ギルドの情報収集のプロだ。好奇心旺盛で、どんな危険な場所にも躊躇なく飛び込んでいく行動力を持つ。日焼けした肌と、人懐っこい笑顔が特徴的で、首からは使い込まれた一眼レフカメラがぶら下がっている。常にカジュアルなアロハシャツを着こなしているのが、彼のトレードマークだった。アロハの柄は、今日の渋谷の混沌とは真逆の、南国の風景だった。
「ターゲットは、渋谷駅地下二階、緊急避難通路Cブロックのゲート。そこから通信ケーブル集積地帯へのアクセスが可能だ」カノンが指示した。
ミヅキは、止まった人混みの中をすり抜けるように、優雅に、だが素早く移動していく。彼女のしなやかな動きは、まるでバレリーナのようだった。彼女の視線が、ターゲットである緊急避難通路のゲートに向かう。そのゲートは、分厚い鉄扉で、通常時は固く閉ざされている。
ケンタロウは、その間も周囲を観察し、カメラを構えていた。止まったスクランブル交差点の、誰も気づかないような細部に、彼の視線は向けられている。彼はただ写真を撮るだけでなく、その写真から「情報」を読み取る。例えば、止まった人々の指先が指す方向、誰かの視線が向かっていた先、あるいは、足元に落ちた小さなゴミ一つからでも、彼は何かを読み取ろうとする。
「このゲートは、通常なら警備システムが厳重ですよねぇ。でも、今は時間も止まってるし……」ミヅキが独り言のように呟いた。
「アヤト、ゲートのシステムをハッキングしろ」カノンが簡潔に命じた。
「既に着手済み。だが、強力な暗号化が施されている。従来のパターンとは異なる」アヤトの声に、僅かな苛立ちが混じる。彼ほどの天才をもってしても、一筋縄ではいかないらしい。
ミヅキはゲートの前に立ち、その分厚い鉄扉にそっと指先で触れた。そして、彼女の美しい唇から、囁くような言葉が紡ぎ出される。それは、物理的な鍵を開ける呪文ではなく、システムを騙し、人の心を揺さぶるような、不思議な響きを持つ言葉だった。
その時、ケンタロウが、スクランブル交差点の中心で、奇妙なものを発見した。止まった人々の足元に、まるで何かが蒸発したかのように、わずかに濡れた跡が残っているのだ。それは、水でも油でもない、独特の、光を反射する液体だった。
「おいおい、なんだこりゃ?」
ケンタロウの視線が、その液体を辿る。それは、まるで、時間停止の中心にある「歪み」から、微かに漏れ出したかのように、アスファルトの上を不規則に走っていた。そして、その液体の終点には、まるで誰かが落としたかのように、小さな「古びた木片」が落ちていた。それは、まるで鳥居の一部のような形をしていたが、表面は異様なほど滑らかで、不自然な光沢を放っている。
ケンタロウは反射的にカメラを構え、その木片を撮影した。その古びた木片が、後の物語で重要な意味を持つことになるなど、今の彼には知る由もなかった。彼は、ただ、ジャーナリストとしての本能で、奇妙なものにレンズを向けただけだった。
「ゲート、開きますよ」ミヅキの明るい声が、地下から響いた。
静かに、そしてゆっくりと、緊急避難通路の重い鉄扉が、音もなく開いていく。その奥には、都市の深淵へと続く、暗く湿った階段が口を開けていた。