第八話 夜:リシェル、王子の護衛任務で心がざわつく
夜の回廊は静謐に包まれていた。高窓から射す月光が、大理石の床を銀色に照らし出す。壁には古の織物がかけられ、風の音にわずかに揺れている。足元の赤い絨毯は、歩みの音すら吸い込むように静かだった。
私は黒の礼装に、肩まで覆う深紅のマントを羽織り、影のようにその場に溶け込んでいた。
昼の私は、聖女ユリシア。
柔らかな光を纏い、祈りを捧げ、民に慈愛を注ぐ存在。
だが、夜の私は──リシェル。
神殿の奥深くで鍛えられた観察者にして、必要ならば毒を忍ばせる女。
心の奥を見透かし、言葉で人の首を絞める術を知っている。
裏の任務に足を踏み入れたのは、偶然だった。
封印された文書庫の奥、埃を被った木箱の中に眠っていた、古い文書。
そこには神殿がかつて王国の諜報中枢であった証が記されていた。
それを手にした私に声をかけたのは、大神官だった。
「夜のドレスを着る者は、神の裏面に通ずる者。その目は、嘘を暴くためにある」
拒む選択肢など最初からなかった。
私は、人の“内側”が視えてしまう女。
嘘、虚飾、偽りの愛情……それらを幾度も見てきた私は、いつしか“他人を信じない”という仮面を纏うようになっていた。
愛されることを求めるより、恐れられることのほうが容易だと知ってから、私は変わった。
リシェルとしての私は、冷たく、そして強い。
目的のためには笑顔も涙も使いこなす。媚びも誘惑も厭わない。
欲望に満ちた男たちの心を弄び、秘密を引き出すことなど、今や日常茶飯事だった。
悪女と罵られる? それがどうした。
私は、国家の影として機能する女。美しさも知性も、刃となり得るのなら、それでいい。
今宵の任務は、第二王子ユリウス・セレスタ殿下の護衛だった。
王族間の極秘会談があるという。殿下直々の指名で、同行を命じられた。
(……なぜ私なのか)
夜の庭園を抜け、石造りの小門をくぐる道すがら、私は殿下の背を見つめ続けた。
燭台の灯りが遠のき、月光だけが彼の影を伸ばしていく。
その背筋は端正で、ひとつとして隙がなかった。
ふいに、王子が立ち止まった。
「風が強くなってきた。冷えるね」
振り返ったその表情は、まるで月光そのもののように静かで美しかった。
心のどこかが、小さく震えた。
「私は慣れております。王子こそ、お体に障ります」
努めて冷静に答えたつもりだった。
だが、彼の返す言葉は──
「君がそばにいると、なぜか安心できるよ」
風の音が消えた。
月も星も、すべてが一瞬静止したように感じた。
その声音はあまりにも自然で、温かく、私の心の防壁を優しく撫でた。
……揺れてはいけない。
私は夜の女。心を許してはならない。
「……そんな顔、誰にでも見せていらっしゃるのですか?」
唇から漏れた言葉は、氷のように冷たく尖っていた。
だが彼は、少しも揺るがなかった。
ただ、目を細めて──柔らかく、微笑んだ。
その微笑みに、言葉はなかった。
けれどその沈黙が、私の胸を締めつけた。
私のような女が、こんな微笑みに心を奪われるなんて。
(……どんなに演技が巧くても、この人の前では無力だわ)
王子は再び歩を進める。
私はその背を静かに追いながら、無意識に己の胸元を押さえた。
(このざわめきは、ただの任務の一環。そうでなければ困る)
けれど──
(……もしあの微笑みが、私だけに向けられたものなら。利用すべきか、それとも……)
夜風が髪を揺らし、マントの裾がひるがえる。
石畳に鳴る靴音が、遠ざかる鼓動と重なるようだった。
リシェルという名の私の心は、今宵もまた静かに、しかし確かに揺れていた。