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第六話 リシェルと王子、雨宿りと心の距離

 雨は、静かに、けれど確かに空から舞い降りていた。

 それはまるで、誰にも気づかれぬように忍び寄る、記憶のかけらのように。


 夜の任務。それは表に出ることのない“聖女の影”としての仕事。

 私は深夜の回廊を、音もなく駆け抜けていた。貴族の書庫に忍び込み、極秘裏に集められた魔導書の写しを回収し、魔力の痕跡を残さぬよう一文ずつ封印を施していく。


 この国の神官たちは知らない。

 昼、聖なる祈りを捧げる聖女が、夜は国家の機密を支える暗部にいることなど──誰にも。


 手にした革の鞄の中には、重厚な紙束。

 それを抱えたまま、私は王宮の裏手、納屋の軒先へと急いだ。


 ──けれど、その前に思い出すことがある。

 ユリウス殿下との最初の出会いを。


 あれは、まだ私が“影”として任務を始めて間もない頃だった。


 魔術の密取引が城内の一角で行われているとの密命を受け、私は夜の王宮庭園に潜入していた。

 藍黒の木々の隙間をすり抜け、指定された東塔近くの小部屋へと忍び込む。その扉の前で、私は“彼”と鉢合わせたのだった。


 背筋を伸ばした衛兵姿の男──と、思ったその人物は、近づいてきた私に声をかけた。


「……そちら、どちらの部署の警備兵ですか?」


 その低く静かな声に、私はとっさに言葉を飲み込んだ。


 彼の視線はまっすぐで、どこか冷たくもあり、しかし同時に、こちらの心の内を見透かすような鋭さを秘めていた。


 私は即座に別任務中の衛兵を装ってその場を切り抜けようとしたが──


「待ってください。貴女のその印、神官見習いのものですね」


 右手にちらりとのぞいた刺繍を見て、彼はあっさりと私の仮面を見破った。


「……何者ですか?」


 剣を抜くこともなく、ただ淡々と問いかけてくるその様子に、私は即座に判断を変えた。


 無駄に誤魔化すよりも、最低限の情報で納得させ、やり過ごす方が得策だ。


「書庫から持ち出された魔導書の追跡任務です。神殿直属。身元照合が必要であれば後日、書面で応じます」


 彼は数秒黙したのち、小さくため息をついた。


「……了解しました。貴女の動きは明らかに素人ではなかったので、害意はないと判断しました」


 そして、そのまま通路の奥へと視線を移し、扉の前から静かに身を引いた。


「……御武運を、神殿の影の方」


 その時の彼の目は、どこか寂しげで、そして優しかった。


 ──それが、私とユリウス殿下の出会いだった。

 互いの素性を多く語ることはなかったが、あのとき私は彼の静けさに、妙に心を揺さぶられた。


 それから数日後、彼が第二王子だと知り、私は言葉を失った。

 あの夜、命令に忠実で冷徹なだけの王族と思っていた男が、実はあの優しい目を持つ人物だったと知ったからだ。


 以来、私たちは何度か偶然を装って言葉を交わすようになった。

 そのたびに、私は彼の中にある「静かな真摯さ」に心を引かれていった。


 ──だから。

 今夜のこの雨の下、彼の気配を感じたとき、私は少しだけ、あの夜の続きを見たくなったのだ。


 そして──降り出した。

 静かに、確かに、雨が私の肩に降り注いだ。


 漆黒のマントを肩に羽織り、濡れた足元を隠すように体を縮める。石畳を打つ雨音が、心の奥底にまで沁み込んでくる。


 空は深く、低い灰雲が月をすっかり覆い隠している。空気はひんやりと湿っていて、首元から入り込んだ風が冷たく背筋をなぞった。


 ふと、気配が動いた。

 それは雨音にまぎれるほど静かで、それでいてはっきりと分かる──特別な足音。


「……こんなところにいらしたのですか、リシェル殿」


 静かな、しかし芯のある声が背後から降ってくる。

 振り向かずとも分かる。私の名を呼ぶこの声の主は──


「ユリウス殿下」


 声に出すと、それだけで胸の奥に小さな波紋が広がった。


 振り返ると、そこには、しっとりと濡れたマントに身を包んだ第二王子ユリウスが立っていた。

 金の髪は雨に濡れて艶を帯び、額に貼りついた前髪の隙間から、深い蒼の瞳がまっすぐこちらを見ていた。


 彼の立ち姿は変わらず端正で、まるで雨など意にも介していないようだった。


「偶然、ではなさそうですね?」


「偶然です。……と、言い張るには少々説得力に欠けるでしょうか」


 淡く笑う王子の横顔に、私は思わず目を奪われた。

 その笑みは、凛としながらもどこか揺れていて、まるで凍った湖面に射す朝日のよう。


「どうしてこちらに?」


「君がこの辺りにいると聞いて……つい、足が向きました」


「“つい”で来るには、ずいぶん濡れていらっしゃいます」


 彼の肩から滴る雨水が、静かに石畳に吸い込まれていく。


「そうですね。……雨具を、持ってこなかったので」


 ──嘘。

 この人が、そんな失態をするはずがない。

 その事実に気づいた自分が、少しだけ誇らしく、そして……胸が苦しくなった。


 私は無言で、軒先のわずかな空間に体を寄せ、彼のための場所をつくる。


「どうぞ。ここなら濡れずに済みます」


「……感謝します」


 彼が隣に立った。

 距離はわずか──それでも、互いの体温がわずかに届く。

 しん、とした沈黙の中に、雨音と心臓の鼓動だけが重なった。


「……静かですね」


「ええ。こういう夜も、悪くない」


「同感です」


 ただの形式的な言葉のやり取り。なのに、どこか心地いい。

 言葉よりも、こうして共に同じ空気を吸っていることのほうが、大切な気がした。


「王子は、よく夜の散策を?」


「昔は、母とよく歩きました。月を見るのが、好きだった人で……」


 彼の声が少しだけ揺れた。

 その名残に、亡き王妃への深い愛情がにじんでいる。


 私は、そっと視線を落とした。


「……その記憶、今も大切にされているのですね」


「ええ。時折、こうして夜空を見上げると、昔のことを思い出します」


 雨にかき消されそうなその声が、やけに近く感じられた。


「貴女には、そういう夜がありますか?」


 問いかけられ、私はわずかに躊躇う。


 ──だが、なぜかその夜は、口を閉ざせなかった。


「……私には、忘れたい夜のほうが、多いです」


 口にして、思わず唇を噛んだ。


 けれど、彼は責めなかった。驚きもせず、ただ、そっと目を細めて言った。


「では……その夜の代わりに、これから“忘れたくない夜”を重ねていけたら、どうでしょう」


「……え?」


「君が、それを望むなら。僕も、その夜に付き合います」


 私は言葉を失った。

 心の奥にしまい込んでいた“何か”が、ふいに息を吹き返した気がした。


「……王子は、優しすぎます」


「リシェル殿は、他人を遠ざけるのが上手すぎる」


 その言葉に、胸が少しだけ、痛んだ。


 沈黙。


 けれどそれは、気まずいものではなかった。

 あたたかく、包み込むような、やわらかい沈黙だった。


 雨はまだ止まない。

 だが、冷たい水音の向こうで、確かに心の何かが溶けていく音がした。


 王子の隣にいるこの時間が、ずっと続けばいいと思ってしまった私は──


 きっと今夜、ほんの少しだけ、“素直”になれたのだろう。


 雨が止むまで、あと少し。

 この軒先の静寂が、心の奥に残り続けますようにと、密やかに願いながら。



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