第五話 聖女様、エルグランドの“嘘のやさしさ”に心がぐらつく
朝の神殿は、いつも通りに静かで清らかな空気に包まれていた。
私──聖女ユリシアは、朝の祈りを終えたあと、回廊の白い石畳をゆっくりと歩いていた。衣擦れの音すら神聖に思えるこの空間が、私は好きだ。
──が、その平穏は十秒で破られた。
「……ん?」
角を曲がった先から、じゃらじゃらと金属の装飾が揺れる音と、明らかに気だるげな足音が近づいてくる。見覚えのあるその歩き方に、胸が不穏にざわつく。
そして現れたのは──カイ・エルグランドだった。
……相変わらず、いや、今日はさらに“ひどい”。
シャツのボタンは三つも外れ、寝癖か無造作か分からない髪が乱れていて、ネクタイはしておらず、腰には飾りの赤いスカーフ。
清らかな神殿の朝に、まるで夜会の余韻を引きずって現れたような佇まい。
「おや、聖女様。奇遇だね、こんな朝早くに」
「……エルグランド、何ですかその格好は!」
思わず声が上ずった。周囲に神官見習いがいなくてよかった。聖女の品格を疑われるところだった。
「え、似合ってない? 鏡見たら意外とイケてた気がしてさ」
「そういう問題じゃありません! 神殿ですよ? シャツのボタンは閉めてください、それにその髪も──」
「おやおや、そんなにじっと見つめられると照れるなあ」
「見てません! というか、目に入っただけです!」
口をとがらせる私に、彼はまるで悪びれもせず笑う。その無遠慮な笑みに、イライラするのに……なぜか胸の奥がざわつく。
「ユリシア様、僕の寝癖、そんなに気になる? 直そうか?」
「そ、そんなことは……どうでもいいですっ!」
私はその場から足早に立ち去ろうとしたが──その後ろから、彼の柔らかな声が追ってきた。
「でも君に会うときは、ちゃんと整えようかなって思ってたところなんだけどな」
「……っ、いちいち、そんなことを言わないでください!」
◆
午後。
神官見習いの一人が体調を崩したと聞いて、私は祈りの短冊を届けに文庫室へと向かった。
そこでまた、彼と出くわすとは思っていなかった。
文庫室の一角、静寂の中に聞き慣れない鼻歌。そして──背を向けたまま、本を丁寧に整理している男の後ろ姿。
「……またあなたですか、エルグランド」
「やあ、また聖女様に見つかった」
軽く振り返る彼は、今朝とは打って変わって、髪を整え、シャツもきちんと着ていた。
「今日はまじめに見える、でしょ?」
「……最低限の身だしなみです」
「ほら、君の“好み”に合わせたんだけどな」
「違います」
またからかわれてる。そう思ったのに……今日は、どこか調子が狂う。
「ここで、何してるんです?」
「体調崩した子がいるって聞いてね。栄養茶を作って持ってきた。……神殿で倒れられたら困るだろ?」
「……あなたが、ですか?」
「僕、薬草ちょっとだけ扱えるんだ。昔、旅の途中で仕込まれてさ。まあ……その子、以前財布を落としててね。拾って届けてくれたのが、僕だった」
「恩返し……?」
思わず、彼の横顔をじっと見つめてしまった。
「……それを、なぜ黙っていたんです?」
「だって、君、僕のこと“最低の遊び人”だと思ってるでしょ?」
「……実際そうですし」
きっぱり言うと、彼は肩をすくめて笑った。
「うん、それはそれで否定しないけどさ。でも、たまには違う一面も見せたいじゃない」
彼はまた、黙って棚に本を戻し始める。
いつもより、少し静かな彼。
いつもより、少し素の彼。
「……少しだけ、見直しました」
「お、昇格? “ちょっとマシな遊び人”ってとこかな?」
「“遊び人”が取れる日は来るんですか?」
「君がそう言ってくれる日が来れば、ね」
まっすぐなその笑みに、私は視線を逸らした。
胸の奥が、少し熱い。
私が思っていたよりも、この人の“嘘”は……全部嘘じゃないのかもしれない。
◆
祈りの短冊を手に取りながら、私は小さく息をついた。
──次に神に願うなら、「どうか、私の心がこれ以上揺れませんように」とでも書こうかしら。
そんな祈りが、聞き届けられる気はしなかった。