第四十九話 昼:帰還の鐘と、あなたの名を呼ぶ朝
一突きの鐘の音が、神殿の朝に静かに溶け込んだ。
香草畑の上を春の風が撫で、小さな黄色い花がふわりと舞い上がる。鳥のさえずりがこだまするなか、私は畑にしゃがみ込み、静かに土をすくっていた。
「……あの鐘、まさか」
思わず手を止め、顔を上げる。
神殿の鐘楼が鳴るときは、特別な意味がある。戦地に向かった王子の帰還、あるいは……いや、そんな不吉な予感は振り払う。
私は手のひらに握ったままの香草の種を見つめた。これは『カレリア・セージ』と呼ばれる香草。彼が「なんかスパイシーでカレーみたいな香りがする」と言って、妙に気に入っていた品種だ。
彼──エルグランドが、ここに来なくなってから数日。
牢から逃げ帰ってきてすぐ、神殿に戻ったものの、怪我の治療のために姿を見せてはいなかった。……そう、香草畑であんなに騒がしかった彼が、ここ数日まったく顔を見せないのだ。
「まさか、本当に悪い病気だったとか……いや、でもあの人がそんなに繊細な体とは思えないし……浮気? いや、いやいや……それはもっとない。きっと、ただ治療が長引いてるだけ……だと思いたい……!」
小声でぶつぶつと呟きながら、私はカレリア・セージの苗を植える穴を掘っていた。
「……おい、香草番。さぼってないか?」
突然背後から聞こえた、聞き慣れた声。
振り向けば、そこに立っていたのは埃っぽい緑のマント姿のエルグランド。
スコップを肩に担ぎ、口元に例のニヤけた笑みを浮かべている。
「な、なんで……!? え、え? どうしてここに?」
「おっと、噂をすればってやつ? それとも君が俺を呼んだのか? 心の中で『来てほしい』って」
「そ、そんなこと、思ってません!」
冗談みたいに軽い口調。でも、その瞳の奥にあるものは、本物の安堵だった。
戦地から戻ってきたのだ。しかも、私と一緒に、あの牢から必死で逃げて帰ってきたエルグランドが──この香草畑に帰ってきたのだ。
「怪我……は、大丈夫なんですか」
「かすり傷さ。ほら、見て。いつも通り、イケメンだろ? ……って、何その顔」
「呆れてるんです」
「嘘、ほんとは感動してるでしょ」
彼はマントを翻し、大げさにポーズをとる。
あまりにエルグランドらしくて、胸の奥がじわりと温かくなる。
「まったく……そんな軽口が叩けるなら、本当に無事なんですね」
私がそう呟くと、彼はすっと近づき、私の手元を覗き込んだ。
「カレリア・セージ、育ってるな。……一緒に、植えるか?」
差し出されたのは、彼の手の中にある小さな香草の苗。
私は頷いて、彼の隣にしゃがみこむ。
「……その場所、私が植えるつもりだったのに」
「じゃあ、ここは俺が植えて、君は次の場所に苗を置いて。チームワークってやつ」
彼の手が私の手に軽く触れる。
土の感触。風の匂い。そして、彼の体温。
「……おかえりなさい、エルグランドさん」
たったそれだけの言葉が、胸の奥に溶けていく。
こんなにも、その存在を待っていた自分に気づく。
「ただいま、ユリシア。で……俺がいない間、俺のことどれくらい思い出した?」
「べ、別に……その……五回くらい?」
「五回だけ? 嘘でしょ。俺は一日五回は夢に出てきたって想定だったのに」
「そんな変な自信、どこから来るんですか!」
「それが俺の持ち味だよ。で、次は何の香草を植える? 君の笑顔が咲くやつ、ないかな」
「……もうっ!」
笑い声が交差する春の朝。
彼の声が、光のなかに優しく響いた。
そして私は、思う。
エルグランドとこうして帰ってこられた奇跡に、どれほどの言葉を重ねても足りない、と。
香草の香りに包まれながら、私の心はやっと、彼と同じ場所に戻れたのだ。
──ようこそ、おかえりなさい。




