第四十三話 昼:戦場の静寂、血よりも深い決意
炎の匂いが、乾いた大気のなかに染みついている。
辺境の砦。その石壁に身を隠しながら、俺――ユリウス・セレスタは小さく息を吐いた。
陽は高く、空は晴れているのに、何もかもが灰色に見える。
この数日、補給は途絶え、援軍も来ない。
目の前には敵軍の陣営、背後には荒れた渓谷。
選択肢は、ほとんど残されていない。
(退くか。いや、それはない)
騎士団の面々は既に疲弊しきっていた。
矢傷を負い、満足な水も食料もない。それでも彼らは俺の言葉を信じて、ここに踏みとどまってくれている。
「王子。斥候が戻りました。敵は今夜にも動く様子です」
そう告げたのは副将、セドリック・ローデン。
やや長めの銀髪を後ろで縛り、頬に古傷をもつ精悍な男。
四十路を超えているが、その鋭い目は戦場において誰よりも冷静で、頼れる軍人だった。
重厚な胸当てに刻まれたライオンの紋章は、彼が歴戦の騎士であることを物語っている。
「ありがとう。……それで、負傷者は?」
「十名以上が戦闘不能です。特にD小隊は盾兵が半数倒れました。武器も、防具も……もう限界です。せめて矢が一本でも多くあれば……」
セドリックは血に滲んだ布で巻かれた左腕を気にしながらも、最後まで毅然とした声を崩さなかった。
「状況は厳しいな」
「はい。しかし……王子がいる限り、我らは戦えます」
俺は小さく笑った。彼の言葉に励まされたのは、俺の方だった。
「……お前は、そういう男だったな。愚直にして忠義の騎士。頼もしい」
「それが、わたしの生き様ですので」
──彼女の言葉が、ふと脳裏に蘇る。
『あなたは、誰かを殺す人じゃない』
戦地に出る前、リシェルがそう言ってくれた。
その言葉の重さが、今になって胸に刺さる。
俺は、何かを証明したかったのだ。
剣に生きる男ではなく、人を救うために戦う騎士として。
「ユリウス様、目が赤い。せめて少しでも、目を閉じてください」
若い衛生兵が薬箱を抱えてやってくる。
気遣いの言葉に微笑み返しながら、俺は視線を天に移した。
(リシェル……お前は、今どこで何を思っている?)
月夜の庭で、襟元を整えてくれた細い指先。
声を荒げることもなく、ただ静かに俺を見つめる瞳。
いつからだろう。俺の心の中に、お前が根を張るようになったのは。
「王子、夜が来ます。焚き火の準備を」
「いい、俺が行こう」
俺は剣を置き、代わりに薪を手に取る。
騎士たちと共に火を囲む夜。疲れきった仲間に、せめて温もりだけでも分け合いたかった。
だがその時、不意に空気が変わった。
風が止み、空の色がわずかに暗くなる。
「……今のは?」
誰かが呟く。
俺にはわかっていた。これは、自然の変化ではない。
何か――遠くで、力が動いた痕跡だ。
奇妙な感覚が背筋を走る。だが、それは不安ではなかった。
むしろ、どこか懐かしい。
胸の奥が、ふっと温かくなる。
(まさか……)
俺は心の中で、その名を呼ぶ。
──リシェル。
戦場の只中、俺は確かに感じた。
遠く離れた夜の都で、誰かが俺のために祈っていることを。
それがどれだけ禁忌であろうとも、命を削る行為であっても。
……守られている。
その事実だけが、俺の背を押した。
「……もう少しだけ、立っていよう」
薪に火を灯しながら、俺は小さく呟いた。
この夜を越えて、生きて帰るために。
誰かの手を、もう一度取るために。