第四十一話 夜:リシェル、眠れぬ夜の告白
王都の夜は、どこか取り残されたように静かだった。神殿の奥、誰も足を踏み入れない地下の書庫──秘止の物語館。
燭台の火はとっくに消え、唯一、窓越しに差し込む月の光だけが床を照らしていた。
「……寝るのが、怖いなんて……」
私は呟いた。黒のローブを肩に掛けたまま、月明かりに浮かぶ書棚の影を見上げる。
眠りにつけば、夢を見る。
夢の中で、私は何かを失い続ける──そんな気がして。
夜だけの存在。
昼の“聖女ユリシア”が眠る間、私はこうして目を覚まし、ひっそりと息をしている。
……まるで、誰にも知られない影法師のように。
「ユリウス様に……会いたいな」
ぽつりと漏らした言葉が、石壁にかすかに反響する。
そんなはずではなかったのに。
この身は“悪女”の役割を担う、冷酷で賢しく、誰より計算高い女のはずだったのに。
ふと、私は書架の影に埋もれた古い魔導書に触れた。
その表紙をなぞりながら、声にならない溜息を吐く。
「ねぇ……私が“リシェル”として生まれた意味って、何だったんだろう」
ユリウス様に出会って、少しずつ変わっていった。
最初はただの興味だった。
彼の正義、優しさ、愚直なほどまっすぐな視線──それらすべてが、いつしか私の中の空洞を埋めていた。
「……私ね、笑われると思うけど」
誰に向けるでもない言葉。それでも口にせずにはいられなかった。
「“悪女”だって、恋ぐらいするのよ? しかも、本気で」
窓から吹き込む風が、カーテンを揺らす。月の輪郭がわずかにぼやけ、私の目にも涙が滲んでいたのかもしれない。
そのときだった。
胸の奥で、昼の人格──ユリシアの声が微かに響いた。
(リシェル……それ、本当に、あなたの望み?)
私は目を伏せた。
「望んじゃいけないの? 私だって、人を好きになっていいはずでしょ……」
(でも、それは……あなたの立場を、壊してしまうかもしれない)
私は唇を噛んだ。
昼の私は正しい。清らかで、優しくて、まっすぐだ。
でも私は、違う。闇に手を染め、王子の背中を遠くから見守ることしかできない存在だ。
「それでも……私の気持ちは、消せないの」
言葉と共に、胸に刻まれた黒の紋章がうっすらと光を放つ。
命を削る魔法の契約。あの人を守るために、私は自分の寿命を捧げた。
(それが代償……なの?)
「そうよ、ユリシア。あの人が無事に戻るなら、私の命なんて、どうだっていいの」
(それでも……それでも、あなたが苦しむのは……)
「ねえ、優しいあなたに、これ以上心を乱されたくないの」
私は胸元を押さえて立ち上がった。
誰にも知られず、心に秘める恋。
けれど、この痛みは確かに生きている証だった。
その力──闇の魔法。
それは“穢れ”として人々に恐れられ、忌避される力。
だが、それに比べてユリシアの聖なる祈りは、誰もが感謝し、手を合わせる光だった。
同じ魂を持ちながら、この違い。
どちらが正しく、どちらが美しいとされるかは、もう明白だ。
「でも、私は闇のままでいい。あの人を、影からでも守れるなら……」
私はひとり、夜の帳に包まれながら、静かに告白を繰り返す。
「ユリウス様……会いたいです。ほんの、少しでいいから……私という存在を、覚えていてください」
その夜、私は眠らなかった。
月明かりが消えかけるまで、窓辺に佇み、心の声を抱きしめていた。
そして、東の空が白みはじめる頃、私はゆっくりと目を閉じる。
いつものように、聖女の時間が始まる。
私の代わりに、“彼女”が目覚める時間──
(それでもいい。私は、私のままで)