第四話 仮面舞踏会と月下の取引
王宮の夜は、香水と嘘の香りに包まれていた。
仮面舞踏会。
それは身分も素顔も忘れて踊る夜。けれど私には、それ以上の意味がある。
「リシェル様、今夜の仮面を」
「ありがとう、シルヴァ。……ねえ、私って美しく見える?」
「はい。まるで夜の女神のように」
ふふ、と私は笑う。
深紅のドレス。漆黒の仮面。赤い唇。
“昼の私”には絶対に許されない装いだ。
「じゃあ、行ってくるわ。仮面の下の、本当の私として」
◆
舞踏会の会場には、無数のロウソクの灯りと、きらびやかな音楽が溢れていた。仮面をつけた貴族たちが、誰が誰とも知らずに手を取り合い、踊る。笑う。囁き合う。
「まるで夢の中ね……」
私はグラスを傾けながら、標的――ミラント公爵の姿を探していた。
だが、思わぬ男の声が背後から降ってくる。
「君のような女が“夢”であるものか。現実以上に鮮やかだ」
その声に、心臓が一度だけ跳ねる。
「……ずいぶんと口が滑らかなのね」
振り返ると、蒼い装飾の仮面をつけた男。
その姿を見ただけで、名を呼ばずとも誰か分かってしまう。
「エルグランド……偶然?」
「運命、と言った方がロマンがあるだろう?」
ふっと彼が手を差し出す。
「踊ってくれないか? 名前も知らぬ淑女よ」
私はその手を見つめ、仮面の奥で唇をゆるめた。
「……一曲だけよ」
◆
私たちはステップを刻む。
身体を預け、視線を交わし、手のひらの熱を通わせる。
「君、どこかで会ったことがある気がする」
「そう? よくある口説き文句ね」
「違う。……声も、仕草も。あの聖女様に似ている」
私は一瞬だけ目を細める。
「光しか知らない者には、夜は見えないわ。……それとも、あなたは、夜に迷い込む人?」
エルグランドは笑わなかった。ただ、まっすぐ私の目を見つめてきた。
「もしそうなら、君に連れられてもいい」
その言葉は冗談ではなかった。
私の胸の奥に、危うい熱が灯る。
「……あなた、簡単に口説かれると、後悔するわよ?」
「いいや。君に囁かれる言葉なら、どんな罠でも甘い」
その瞬間、私は彼から目を逸らすしかなかった。
目が合えば、仮面が剥がれてしまいそうで。
◆
ダンスの余韻を引きずったまま、私は庭園へと抜け出した。
ミラント公爵の取引相手は、やはりここにいた。
帳簿の受け渡し。その瞬間、私は記録石を起動させ、すべてを記録する。
(これで十分……あとは“昼の私”に引き渡すだけ)
そう思って振り返ったとき――
「……やっぱり、君だったんだな」
エルグランドが、月明かりの下に立っていた。
その表情は、踊っていたときよりもずっと真剣だった。
「仮面の下、全部は見えない。でも……心は見えることがある」
「やめて。私に“本物”を求めないで」
彼は一歩近づき、私の手をそっと取る。
「本物じゃなくてもいい。……君がここにいて、今、俺の目を見てくれるなら」
私はその言葉に、ほんの一瞬だけ息を止めた。
「……エルグランド。あなた、昼と夜の狭間に立つ人ね」
「じゃあ君は?」
「私は……夜の中で、誰かに光を見せてほしいと願ってる女。……それが叶わぬと知りながら」
そっと、彼の胸に手を置いた。
「これ以上近づいたら、きっと私、あなたに堕ちてしまうわ」
「なら堕ちろよ。俺が、受け止めてやる」
仮面越しのキスは、ほんの一秒。
それでも、心の奥が揺れたのは間違いなかった。
そして私は、彼の腕の中からすり抜けるように離れる。
「またね、エルグランド。……今度は、仮面なしで踊りましょう」
彼が何かを言いかけたが、私はもう背を向けていた。
月明かりの下、夜のリシェルとして。
それが、私の選んだ仮面の道だった。
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