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第二十三話 夜の帰路と、君が乱す襟元

 王宮の会議は、いつもながら無駄に長かった。


 真紅の絨毯に敷かれた会議室の空気は重く、蝋燭の灯りが揺れるたび、影もまた不安げに揺らいでいた。文官たちは細部の言葉尻を捉えて言い争い、貴族たちはそれぞれの派閥の利害をちらつかせ、俺は時折うんざりした視線を天井に投げていた。


 判を押し、会議室を出たときには、空はすっかり深夜の色をしていた。


 足音を忍ばせて裏庭へと出る。

 庭園の裏道は、王宮の中でもひときわ静寂に包まれた場所だ。


 夜風が草木をそっと撫で、甘い香がかすかに流れてくる。

 星はまばらだが、雲間から覗く月が濡れた石畳を照らし、まるで淡い灯火の道を歩くようだった。


 そんな幻想めいた風景の中に、ひときわ鮮やかな赤が見えた。


 「……リシェル?」


 深紅のマントを纏い、石の欄干に腰かけているその姿。

 彼女は左足を組んで揺らしながら、宙を見つめていた。風が彼女の黒髪をさらりと舞い上げる。


 俺の声に、わずかに肩が動いた。


 「王子こそ、こんな時間に徘徊ですか?」


 振り向いたその顔は、闇の中でもはっきりとわかるほど整っていて、唇の端に浮かぶ笑みはいたずらっぽくもどこか影を帯びていた。


 「会議が長引いて……ね。君は、任務の合間か?」


 「さぼりです」


 あっさりと言って、視線を夜空に戻す。

 沈黙。


 なのに、この静けさは居心地が悪くなかった。

 夜の冷気と、彼女が纏う気配が、なぜか溶け合っていた。


 風がもう一度、俺のマントを揺らす。

 その瞬間。


 「……服、乱れてますよ」


 彼女がすっと立ち上がる音がした。


 気づけば、彼女は俺の真正面にいた。

 その距離はほんの数十センチ。彼女の吐息が肌に触れそうな距離だった。


 リシェルの白く細い指が、俺の胸元へと伸びる。


 「じっとしてて」


 囁くような声に、思わず息を呑んだ。


 指先が襟元を整えるだけ──たったそれだけのはずなのに、なぜこんなにも心が騒ぐのだろう。


 彼女の指は、思ったよりも熱を帯びていた。

 否、熱かったのは俺の心の方かもしれない。


 「……ありがとう」


 やっと出せた声は、自分でも驚くほど掠れていた。


 彼女はほんの少し口角を上げて、静かに笑う。


 「服だけじゃなく、心も正してあげましょうか?」


 冗談とも本気とも取れないその言葉。

 俺の胸の奥に、小さな火種がぽっと灯る。


 「それは……怖いな」


 「ふふ、安心してください。今夜はここまでです」


 肩にぽんと触れる彼女の手の感触が、なぜか離れがたい。


 リシェルはまた石の柵に腰をかけ、夜風に髪を揺らす。


 俺はもう一度だけ彼女を見てから、静かに歩き出した。


 だが胸元には、彼女の指先の熱がまだ残っていた。


(触れられる、ということが、こんなにも心をかき乱すものだったとは……)


 誰かの仕草ひとつで揺さぶられる自分がいることに、驚きすら覚える。


 今夜の月は、妙に明るい。

 それはきっと、俺の心の輪郭までも照らし出してしまうからだ。


 俺は、今……

 ひとりの“女”としてのリシェルを、

 それ以上に──誰よりも強く、意識していた。



 馬車の中は、まるで世界から切り離された小さな箱庭のようだった。


 王宮から神殿へ戻る途中、任務を終えた俺は、リシェルと向かい合って座っていた。

 深夜、外は闇に包まれ、窓から見える景色は黒絵の具で塗りつぶされたように何も映らない。車輪の軋みと時折揺れる振動だけが、俺たちを現実に引き戻してくる。


 馬車の室内には、小さなランタンの灯が揺れていた。

 その微かな明かりに照らされた彼女の横顔が、いつもよりも穏やかに見える。


 それでも、どこか遠い。


 リシェルという存在は、いつも何かを隠しているようで。

 近づこうとすると、まるで仮面が一枚また一枚と貼り付けられる。

 だが──今夜だけは、違う気がしていた。


 「……今の君は」


 ふと、思ったままの言葉が口をついて出た。


 彼女は目を伏せたまま、微かに眉を動かす。


 「仮面をかぶっていないように見える」


 リシェルは、すぐには反応しなかった。

 それでも、揺れる車体のなかで、彼女の表情が微かに揺らいだ気がした。


 「いつもは、誰にも本心を見せないのに。今夜の君は……そうじゃない気がする」


 自分でも驚くほど落ち着いた声だった。

 けれど胸の内では、どうかこの距離が、いまだけでも近づいてくれるようにと、祈るような気持ちだった。


 「……ふふ、さすが王子。鋭いですね」


 軽く笑ってごまかそうとする声。

 だが、俺はその笑みにもう惑わされはしなかった。

 彼女が仮面をつけるときの目を、何度も見てきたから。


 今の彼女の目は、まっすぐで、少し戸惑っていて──そして柔らかい。


 「あなたは、仮面の下の私を怖くないんですか?」


 その問いは、彼女の内側からこぼれ落ちた本音のように思えた。


 「怖くないよ。むしろ……君がそうやって心を見せてくれることのほうが、嬉しい」


 リシェルがこちらを見た。

 その目に、言葉にできない何かが宿っていた。


 次の瞬間、馬車がわずかに揺れた。

 その反動で、彼女の手が俺の隣の座席に触れ、指先が、俺の手に──ほんの一瞬だけ、触れた。


 まるで雷に打たれたように、胸の内が熱くなる。

 互いに、すぐに手を引いた。


 「……すみません」


 「いや……謝ることじゃない」


 沈黙。

 だがそれは、心を塞ぐためのものではなかった。


 「リシェル」


 俺は、意識して名前を呼んだ。

 この距離で彼女を名で呼ぶのは、なぜか特別な響きを持っている。


 「君が、仮面をつけていないときの顔を……俺は、もっと見たいと思ってる」


 正直な気持ちだった。

 彼女の全部を知っているわけではない。

 むしろ、知らないことの方が多すぎる。

 でも、その知らない部分にこそ惹かれている自分がいる。


 リシェルは、驚いたように目を瞬かせた。

 だが拒むでも否定するでもなく、ただ視線を落として──小さく、呼吸を吐いた。


 その沈黙の向こうで、確かに何かが揺れた。


 仮面をかぶった彼女ではなく、仮面の下にいる“彼女自身”が、初めて俺の前に現れた気がした。


 ランタンの灯は、まだゆらゆらと揺れている。

 けれど俺たちの間にあった影は、少しだけ、薄くなった気がした。





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