第二十二話 昼:神殿市場と、手をつなぐ理由(わけ)
青空の下、神殿下の街区は賑やかだった。人々の笑い声と香草の香りが交差し、賑わいが空気を震わせていた。
その喧噪の中、俺はパンをかじりながら並んで歩くユリシアを見つめていた。彼女の肩越しに見える横顔は真面目そのもので、けれど、頬は少しだけ赤かった。
昔の俺なら、この状況を退屈と断じていた。
思い返すのも嫌になるが、かつての俺は、極悪非道の名をほしいままにしていた。高貴な令嬢の秘密を探り、それを利用して他家の縁談を破談に追い込み、手に入れたい女には嘘と財力と誘惑で迫った。女泣かせというより、もはや“破壊者”だった。
金にものを言わせて男の娼館を作り、好奇心で通わせた貴族令嬢の名を帳簿に記し、社交界にバラまいたことすらある。婚約直前の令嬢を舞踏会の晩にさらって、婚姻を破棄させた一件も、今思えば度を越えていた。
感情など玩具。口説き文句など呼吸と同じだった。欲しいと思えば奪い、飽きたら捨てる。それがエルグランド家の三男──この俺だった。
なのに。
(……本当に変わったな、俺も)
彼女の隣に立っていると、不思議と静かになる。心が、というより、俺の欲の音が。
「お、あれが例の香草屋だな。君が探してたやつ、あるかも」
指を差すと、彼女がそちらに視線を向けた。
その瞬間だった。
「きゃっ……!」
人波に押され、彼女の細い肩がよろけた。
(やばっ)
即座に手を伸ばし、その手を握った。
「っと、危ない。ちゃんと掴まってろよ」
小さな手だった。かつて、幾人もの手を握ったが、こんなふうに震える手に心が動くのは初めてだった。
「……っ、な、なんで手を……!」
「君、完全に迷子だっただろ。これは不可抗力、な」
軽口を叩くのも、かつての癖だ。だが今は、それが少しでも彼女の警戒を和らげたらと思ってしまっている自分がいた。
「……は、はなしてくださいっ」
震えた声。だが、彼女の手はまだ離れない。むしろ、握り返してきたようにも感じた。
(……まさか、俺に心を許したのか?)
錯覚かもしれない。けれど、その錯覚を信じたくなるほどには、俺も……変わってしまっていた。
「君、顔真っ赤だぞ?」
「っ……これは暑さのせいですっ!」
言い返す彼女に、つい口元が綻ぶ。
(可愛いな。壊したくないと思う女なんて、初めてだ)
俺の人生は奪うことばかりだった。笑顔も、純情も、信頼も──全部、自分の快楽のために使ってきた。
けれど今だけは、そうしたくなかった。
この小さな手を、彼女の無垢な笑顔を、
俺の汚れた過去で穢したくなかった。
そう思えるほどに、ユリシアは俺にとって……特別だった。
(君の手の温もり、俺の中にもしっかり封印しとくよ)
人波の中、手をつないだまま歩く。
永遠じゃなくていい。
でもこの一瞬が、偽りなく続いてほしいと思った。
ああ──
俺はもう、昔のエルグランドじゃない。
……たぶん。
■
昼下がりの神殿は、静けさに包まれていた。
厨房の隅に潜り込むようにして入った俺は、あの背中を見つけて自然と口元が緩んだ。ユリシアがエプロンを身につけ、真剣な顔で野菜を刻んでいる。鍋からは優しい香草の匂いが漂い、神殿というより誰かの家の食卓に来た気分だった。
「君の料理、味見してあげようか?」
驚いたように振り返る彼女。大きな瞳が瞬き、やがて頬が染まっていく。
「ど、どうしてここに……厨房は立ち入り禁止のはずです」
「俺は例外ってことで。ほら、君の手料理なんて貴重だからさ」
冗談めかして言いながら近づくと、彼女は明らかに戸惑っていた。
けど、嫌がってるようにも見えなかった──いや、そう信じたいだけかもしれない。
「へぇ、ちゃんと出汁とってる。意外と本格派だね、聖女様」
覗き込むと、香草と根菜のスープが湯気を立てていた。彼女の指先が震えていたのを見て、つい手を添えてしまう。
「塩の加減……うん、悪くない。でも──」
彼女の横顔が、熱で赤く染まっていた。
「塩じゃなくて、君の手の温もりが隠し味かな?」
……言った後、自分でも驚いた。
昔ならもっと過激なことを囁いていたはずだ。
けれど今は、彼女の頬が紅潮していくのを見守るだけで満足だった。
「っ……やめてくださいっ!」
彼女が振り払おうとした手は、わずかにためらいを含んでいた気がする。
もしかしたら──
彼女の中にも、俺と同じように何かが芽生え始めているのかもしれない。
「君の料理、胃袋に封印してもいい?」
「な……っ、勝手にしてくださいっ」
でもその震えるスプーン、そして逸らした視線は、確かに俺に向けられていた。
(このまま、少しずつでいい。君の世界に入りたい)
昔の俺なら、すぐに奪っていた。
今の俺は……ただ、一緒に食卓を囲みたかった。