第二十一話 昼:エルグランド、なぜか働く神殿の庭先
春の光が優しく降り注ぐ神殿の中庭。香草畑の葉が風にそよぎ、清らかな空気を運んでいた。
私はいつものように香草の様子を見に来たつもりだったのに、そこには予想外の人物がいた。
「……え?」
畑の中央で、エルグランドが鍬を持ち、土と戯れていた。
袖をまくり、額にうっすらと汗。見た目は真剣、でもその目元には、どこか遊び慣れた余裕の笑みがちらついている。
「お、おはようございます……何を……されてるんですか?」
「お、ユリシア。ちょうどよかった。ここのローズマリー、根が混んでてさ。ちょっと間引きしてるとこ」
「え……?」
思わず言葉を失った。なぜこの男が、私の香草畑で植物と対話しているのか。
(まさか……彼、また女の子を口説くつもり?)
そんな疑念が頭をよぎる。彼の噂は、耳にしていた。城下町では『昼は貴族、夜はプレイボーイ』などと陰口を叩かれている彼。実際、何人もの貴族令嬢たちが、彼の巧みな話術に骨抜きにされたと聞く。
「神殿に用事があるって言ってたのに……これは、まさか」
「いやあ、それは半分ホントで半分ウソ? 目的は……君に会うこと、かな」
振り返ったエルグランドの笑みは、まるで芝居がかった舞台の役者のようだった。完璧な表情で、軽やかに、そして確信犯的に私の心を揺らす。
「……やめてください」
目をそらすのが精いっぱいだった。けれど──
(本当に困った人。でも……嫌じゃない。なんで?)
「えー? まさか、照れてる?」
「違います!」
声を張ったはずなのに、自分でも気づく。どこか頬がゆるんでいたことを。
彼は、軽く土を払って立ち上がると、籠の中のハーブを覗き込んだ。
「俺って案外、家庭的でしょ?」
「……自分で言わないでください」
そう言いつつも、胸の奥がまたふわりとした。
(本当に、困った人。なのに……この時間が、少しだけ愛おしい)
■
神殿の裏手に広がる神区の街では、今朝から活気ある市が立っていた。空は澄み渡り、陽射しは柔らかく、色とりどりの布が風に揺れ、香草や果実、織物に木工品──賑わいとともに香りも目も心も満たされていく。
私は神殿の使いで、儀式に使う香草や果実を買い出しに来た──はずだった。
「ほら見てみろよ、あの屋台のパン、焼きたてだぜ。香ばしい匂いがそそるよな?」
隣では、なぜかエルグランドが満面の笑みでパンをかじっている。なぜ。どうしてあなたが隣にいるの。
「……案内なんて、お願いしてません」
冷たく返したつもりだった。けれど、足取りは彼に合わせていて、肩がふと近く触れそうになった瞬間、慌てて一歩下がる。
(なにやってるの、私……)
拒むことも、逃げることもできたのに、そうしなかった自分がいる。それが何より、悔しい。
「言う割には、しっかりついてきてるじゃん」
「神殿の命令です」
(違う、言い訳……でも、それ以上の理由は、言えない)
エルグランドが先を歩きながら指をさす。
「お、あれが例の香草屋だな。君が探してたやつ、あるかも」
私はそちらに顔を向けた。
その瞬間だった──人混みがどっと押し寄せた。
「きゃっ……!」
屋台の間を縫うように人々が流れ、体が押し流される。視界が遮られ、方向感覚を失う。
(エルグランド、どこ……?)
胸が締めつけられ、喉がひゅっと鳴った瞬間。
「っと、危ない。ちゃんと掴まってろよ」
右手に伝わった、あたたかい感触。
私の手を、彼がしっかりと握っていた。
「……っ、な、なんで手を……!」
「君、完全に迷子だっただろ。これは不可抗力、な」
余裕の笑みを浮かべる彼。
(ずるい……)
そう思いながらも、私は彼の手を振りほどけなかった。
手のひらがじんわりと熱を帯び、心臓が早鐘を打つ。
「……は、はなしてくださいっ」
精いっぱいの声だったけれど、震えていた。
「えー、せっかく仲良くなってきたのに?」
(もう……!)
まるで子ども扱いするその口ぶりが、腹立たしい。けれど嫌じゃなかった。
むしろ、その言葉にどこか救われた気がしていた。
人波に押されながらも、私たちは手をつないだまま進む。
(どうしてこんなにも落ち着かないの……なのに)
なのに、不思議と──心地いい。
「君、顔真っ赤だぞ?」
「っ……これは暑さのせいですっ!」
誤魔化したつもりだった。
けれど、彼の目は私の心の奥を覗いているようだった。
「はいはい、不可抗力ってことで」
からかうようなその口調に、また心が騒ぐ。
(本当にもう……ずるい人)
私は彼の手をそっと、でもしっかりと握り返した。
それがたった一瞬の気まぐれであっても──
今だけは、許してもいいと思った。