第二十話 夜:リシェル、王子と月を眺める距離感が近い
月の光が、しんと静まり返った庭園を淡く照らしていた。神殿裏手の噴水は夜の気配に包まれ、水音を小さく奏でている。白いバラの花が月光に濡れ、まるで宝石のように輝いていた。
私はベンチに腰を下ろし、夜風にさらされた肩を小さくすくめた。今夜は、任務も諜報も投げ出して、ほんの少しだけ、自分の時間を過ごしたかった。
誰にも気づかれずに、一人で月を眺める。
それだけでいい──そう思っていたはずだった。
「珍しいな。君が、こんなところで一人なんて」
その声に、私は反射的に振り向いた。
月明かりの下に立っていたのは、王子ユリウス。
夜風に金の髪をなびかせ、静かな眼差しを向けていた。
「……サボり中なの。王子様には内緒にしておいてもらえる?」
私が唇を歪めて笑うと、彼もまた肩の力を抜くように微笑む。
「秘密にする代わりに、隣に座ってもいいかな」
私は無言で、ベンチの右側を指先で軽く叩いた。
ユリウスは、何の躊躇いもなく私の隣に腰を下ろす。
夜の空気が二人のあいだを撫で、わずかに肩が触れそうな距離で止まる。
言葉はなくとも、不思議と居心地は悪くなかった。
「昔、母がよく言ってたんだ。月には記憶が宿るって。人の想いが映る鏡だって」
「ふぅん……ロマンチストなのね、王子は」
「そうでもないさ。ただ……君が月を見上げてる姿を見たら、そんな話も信じてみたくなった」
まっすぐな声だった。
飾り気も、冗談も混じらない、本当にただ思ったことを口にしたような声音。
私の心のどこかが、小さく揺れた。
私たちは、並んで月を見上げた。
銀色の光が、王子の睫毛をなぞり、静かな影を作っていた。
彼の横顔は、あまりにも穏やかで、遠い夢のようだった。
「少しだけ……こうしていてもいいかな」
ふと、彼が言った。
「ええ。ほんの少しだけなら」
私は、背中をそっと預けた。
肩がほんの少し近づく。
でも、決して触れ合わない。
その距離が、心地よかった。
近づきすぎない優しさと、遠ざからないぬくもり。
風が、白いバラの間をくぐり抜けた。
夜露がきらめき、夜空には満月が、私たちを見下ろしていた。
静かな夜。言葉も少なく。
でも確かに、心だけは寄り添っていた。
■
王宮の回廊に、夜の帳が静かに降りていた。
淡く光る魔石のランプに照らされた石造りの廊下。私はひとり、足音を忍ばせるように歩いていた。
──この時間帯、王子の執務室付近に誰もいないのはいつものこと。
今日も静かに終わる。そう思っていた。
だが、前方に見慣れた後ろ姿を見つけ、私は思わず足を止めた。
「……ユリウス様?」
王子の金の髪が、月光の差す窓辺でふわりと揺れている。
彼がこちらを振り返ると、その顔はどこか疲れていて、そして──無防備だった。
その瞬間、私の視線は自然と彼の襟元に落ちた。
衣服が乱れて、シャツの第一ボタンが外れたまま、わずかに胸元が覗いている。
「……だらしない格好。王子として、もう少し見た目に気を遣ってください」
いつも通りの言葉を投げかけながら、私は自分の鼓動がわずかに速くなるのを感じていた。
ユリウスはきょとんとした顔で立ち止まり、照れたように笑った。
「え、そうかな……気づかなかった」
「まったく……」
私はため息をつきながら彼に近づき、迷いなく胸元へと手を伸ばした。
布地の質感。そして、そこから伝わる、ほのかな体温。
……近い。
こんな距離で顔を合わせたのは、いつ以来だろう。
指先が彼の肌にわずかに触れた瞬間、びり、とした感覚が全身を駆け抜けた。
──まるで、火が灯ったような。
(なにこれ……)
心臓が強く跳ねる。彼の香りが鼻先をくすぐる。
こんなにも静かなのに、耳鳴りのような自分の鼓動だけがうるさい。
「……」
顔を上げれば、彼のまっすぐな瞳が、私を捉えていた。
焦りも、照れもない。ただ、穏やかな光だけを湛えて。
目が合った。すぐに逸らそうとして、でも動けなかった。
(なんでこんなに、落ち着かないの?)
手を引こうとした瞬間、彼の低い声が落ちてきた。
「ありがとう。……君に触れられると、不思議と落ち着くよ」
落ち着く……?
そんな言葉に、私は完全に動揺した。
(冗談……じゃない、の? 本気? それとも、私の顔に何かついてた?)
頭の中で思考がぐるぐる回る。
「……整いました」
やっとの思いで手を離し、私は一歩、後ろに下がった。
でも、距離を取っても、鼓動は静まらなかった。
(自分で罠にかかってどうするのよ、私)
これは誰の策略でもない。
彼が罠を仕掛けたわけでもない。
──ただ、自分の気持ちが、自分を捕まえただけ。
ふと見上げた月が、どこか寂しげに見えたのは、気のせいだろうか。