第十九話 昼:ごはんと香草と、エルグランドの笑顔
春の陽ざしが神殿の庭園をやわらかく包み込んでいた。石畳の隙間から顔を覗かせるクローバーと、手入れの行き届いた緑の芝生。その中央には、香草を植えた小さな畑があり、そこに私はひざをついていた。
柔らかな土に指を差し入れ、苗の根元をそっと撫でながら、小さな鍬でまわりの土を崩していく。香草は繊細で、少しでも水はけが悪いとすぐに根腐れしてしまう。だから、こうして毎朝世話をするのが、いつしか私の小さな習慣になっていた。
「おや、聖女様が農業とは……ずいぶんと庶民的な景色だね?」
不意にかけられた声に、私ははっと振り返る。
陽の逆光の中、陽気な笑みを浮かべたエルグランドが立っていた。淡い金の髪が陽光を反射してきらきらと揺れていて、まるで舞い降りた蝶のように鮮やかだった。
「……エルグランドさん? どうしてここに?」
「ちょうど通りかかったんだ。神殿で用事ってやつ? で、見つけちゃったわけ。可愛い背中をね」
「なっ……!? か、可愛いって……っ」
私は慌てて袖を下ろし、顔をそむけた。頬がじわりと熱くなるのが自分でもわかる。
エルグランドはそんな私の反応に満足げにニヤリと笑い、芝生の上にゆったりと腰を下ろした。
「お昼、食べた? 俺、腹ぺこなんだけど」
「えっ……まさか、私に作れってことですか?」
「いやいや、そんなつもりはないけど、君が香草育ててるなら、料理も得意なんじゃないかって。期待してもいい?」
「……ちょうど煮込みを作ってたところですけど、あなたの分なんて──」
「やった。じゃあ、お言葉に甘えて」
彼は当然のように私の隣に座り、近すぎず遠すぎず、絶妙な距離感で笑っている。
私はため息をつきながら、庭の片隅に置いていた籠を取り出し、まだ温もりの残る陶器の壺を開けた。
中からは湯気がふわりと立ち上り、ローズマリーとタイムの香りが空気に溶ける。
エルグランドの目が、ぱっと輝いた。
木椀に煮込みを注ぎ差し出すと、彼は嬉しそうに手を合わせた。
「いただきまーす。……って、ああ、香りだけでもう優勝なんだけど」
一口食べたエルグランドの表情が一変し、子供のように目を見開く。
「うま……! これは……君の煮込み、俺の胃袋に封印したい」
「……封印って、魔術か何かじゃありませんから」
呆れながらも、私は笑みをこらえきれなかった。まるで陽射しのように軽やかなひととき。言葉の一つひとつが、芝の上に花を咲かせるように感じられた。
「まさか、あの遊び人のエルグランドさんがこんな顔で食べてくれるなんて……」
「ん? 今、俺のこと褒めた? 二度とないからメモっとこうかな」
「べ、別に褒めてません!」
口元をむくれさせながらも、心の奥がじんわり温かくなる。
上空を白い雲がゆっくりと流れていく。
春風が香草の葉をそよがせ、鳥のさえずりが遠くから届く。
「君さ、こんな風に笑うんだな」
「……え?」
「いや、神殿で見かけるときは、もっときっちりしてるから。なんというか、今のほうが……素直でいい」
「……それは、その、どういう意味で……?」
「俺が嬉しいって意味」
不意打ちのようなその言葉に、私は一瞬、息を呑んだ。
でも、彼はすぐに軽く肩をすくめて、いつものように軽口を叩く。
「ま、胃袋を掴まれた男のたわごとってことで」
「……もう、ほんとに調子がいいんですから」
だけど、その調子のよさに救われている自分もいる。
忙しない日常の合間に、こうして誰かと心を交わす時間は、想像以上に貴重なのだ。
私は視線を落とし、木椀の中のスープをすくいながら、ぽつりと呟いた。
「……また、来てもいいですよ?」
「ん? 今の、記録しとこうか?」
「記録も封印も禁止です!」
そう言って、私は彼に向かって微笑んだ。
心のどこかに小さな芽が根付いた気がした春の午後だった。