第十七話 夜:封じられた記憶と“もうひとりの私”
月明かりが差し込む夜の部屋で、私は一人、眠れずにいた。
香炉の煙が静かにゆらぎ、窓辺には夜風が冷たく吹き込んでくる。
身体は疲れているはずなのに、まぶたの奥が冴えて仕方がなかった。
頭の中に、さきほどの光景が何度もよぎる──昼の祈祷祭、あの“奇跡”の瞬間。
私が唱えた言葉も、手から放たれた光も、まったく覚えていない。
あれは本当に……私だったのか?
私は立ち上がり、寝台の脇に置かれた鏡台の前に座る。
白銀の縁飾りがついたその鏡は、神殿から正式に与えられたものだ。
日々の化粧や祈祷前の身支度のために使われるそれに、私は今日ほど恐れを抱いたことはない。
そっと顔を上げて鏡を見る。
映っているのは、確かに自分──黒髪、赤い瞳、整えた笑み。
けれどその瞳の奥に、見覚えのない何かが揺れていた。
「……誰?」
自分でも思わず呟いた。
次の瞬間、鏡の中の“私”が、わずかに笑った──。
「ようやく……気づいたのね」
ぞくり、と背筋が凍る。
声は私のものだった。
けれど私の唇は動いていない。
鏡の中の“私”が、まるで他人のようにこちらを見ていた。
その瞳は紅ではなく、優しい淡金色。
微笑みは柔らかく、まるで──
「聖女ユリシア……?」
声にならない問いに、鏡の中の彼女は頷く。
「私はあなた。そして……あなたは私」
「そんなはず……私は、リシェル・ヴァレリア……」
「ええ、でもそれは“今のあなた”。昔のことを……少し、思い出して?」
その言葉とともに、私の頭に鋭い痛みが走る。
意識が引きずられるように深く沈んでいき──
次の瞬間、私は“夢”の中にいた。
白く霞む空間。香の匂い。祈る少女の姿。
長い金の髪。清らかなドレス。穏やかな声で、祈りを捧げる少女──ユリシア。
それは他人の記憶……ではなかった。
私はそこにいた。
彼女として、祈っていた。
けれど、その穏やかな夢の中に、黒い霧が忍び寄る。
燃える家。泣き叫ぶ声。押し殺した怒り。
名もなき少女が、夜に沈んだ街を一人歩いていく──その姿は、確かに“リシェル”だった。
二つの記憶が、私の中で激しくぶつかり合い、溶け合っていく。
「……私たちは、ひとつだった」
夢の中のユリシアが、私に向かって手を伸ばす。
その手を取ろうとした瞬間、私は現実に引き戻された。
「──っ……!」
息を荒げて、私は鏡台にしがみついた。
額から汗が滴り、指先が小刻みに震えている。
けれど、今ならわかる。
あれは、幻ではなかった。
鏡はただの鏡ではない。
私の内側に封じられた、もうひとつの人格──“ユリシア”の記憶と存在が、ようやく目を覚ましはじめている。
私たちは、かつて一つだった。
何らかの力で分かたれ、表と裏のようにこの身体を共有していたのだ。
「……目覚めるの? 本当に、私の中に……聖女が……?」
呟く私の声は、どこか震えていた。
それは恐れではなく、予感──確かに、この世界が変わる前兆だった。
そしてそれは、私という存在そのものの在り方を揺るがす“夜の始まり”だった。