第十六話 昼:聖女ユリシア、記憶にない祈りと奇跡
陽の高い昼下がり、神殿の中央広間には荘厳な鐘の音が鳴り響いていた。
今日は月例の祈祷祭の日だった。
祈祷祭とは、神殿に仕える神官たちが月ごとに捧げる感謝と奉納の儀式であり、その中心に立つのが聖女である。
聖女は神と人の間をつなぐ存在として、その清き魂と祈りを通じ、神の加護を下界に引き寄せる務めを負っていた。
また、国の安寧と豊穣を神に祈願する儀礼でもあり、聖女の祈りの成否は、領内に広く影響を与えると信じられている。
聖女の責務は、ただ神に仕えることにとどまらない。
彼女の言葉は民を導き、存在は秩序と信仰の象徴となる。
祭壇に立つたび、彼女は清らかな精神を保ち、己の欲や感情を抑え、神の御心に忠実でなければならない。
裏を返せば、聖女とは人でありながら“神に最も近い存在”としての理想像を演じ続ける者だ。
──だが、今の私は“まだその器かどうか”を周囲から疑われている。
広間に集う神官たちの視線は、冷たさと好奇の入り混じったものだった。
「身分も出自も薄い者が、聖女に相応しいとでも?」
「せめて祈りくらいは、形になるとよいがな」
そんな囁きが、絹の衣擦れとともに広間のあちこちから響いていた。
私は唇を引き結び、胸の内で神に問いかけるように息を整えた。
「ユリシア様、お時間です」
補佐の神官が控えめに声をかける。
「はい。……参ります」
ゆっくりと壇上に歩を進めると、広間の空気が緊張を孕む。
金と白を基調にした祭壇の前に立ち、私は自然と目を閉じた。
──祈らなければ。
だが、いざ祈りの言葉を心に浮かべようとした瞬間、喉から漏れ出たのは、自分でも知らない言語だった。
「……セリオ・メルア・ディスフェル・アナイエ……」
その響きは、古の大地の風が語るような、澄んだ調べだった。
私の声でありながら、私のものではない──そんな感覚に、身がすくむ。
「今のは……古代神語だぞ……」
「いや、まさか……聖典にも残っていないはず……」
ざわめく神官たち。
私は目を閉じたまま、なおも言葉を紡いでいた。
──すると、祭壇の上部に据えられた聖なる水がふわりと揺らぎ、次の瞬間、それは虹のような光となって天へと舞い上がった。
広間が、まるで夜の星空のように光の粒に満たされていく。
神官たちの衣が光を浴び、淡く輝いた。
「……奇跡だ……」
「ユリシア様が、あの光を……」
誰かの震えるような声が、広間を貫いた。
私は静かに目を開いた。
金色の光が私の手先から揺らめき、まるで私を守るように包んでいた。
だが。
「……あれ? いま……私、何を……?」
記憶が、なかった。
ただ祈りの終わった空白と、胸の鼓動だけがそこにあった。
「ユリシア様……」
側に控えていた老神官が、思わず跪いた。
その後ろで他の者たちも、次々と膝をついていく。
だが私はその光景に、歓びでも誇りでもなく、戸惑いを覚えていた。
──私は、何をしたの……?
聖女としての責務を果たしたのか?
それとも、何か“別の力”が私の中に目覚めてしまったのか……。
静寂の中で光だけが漂う神殿で、私はそっと目を伏せた。