第十五話 夜:眠れぬ夜に、私の内側から声がする
枢機卿ダレオン・ラミレスを葬った夜。礼拝堂から静かに立ち去った私は、神殿奥の仮眠室に身を沈めた。
だが、その夜はいつものように身体が眠りを許してはくれなかった。
蝋燭の明かりが消えた薄闇の部屋で、私はまどろみと目覚めの狭間をさまよっていた。
──ザザッ、ザザ……っ
耳元にかすかな音が混じる。風の音とは違う、言葉のような……祈りの残響のような……。
「……あなたは、聖女になれる」
誰?
思わず飛び起きたが、部屋には誰もいなかった。
周囲は静寂そのもの。だが、確かに聞こえた。声……それも、私の声にそっくりな。
私は寝台の上に膝を抱え、静かに呼吸を整えた。
「幻聴……じゃない。これは──記憶?」
次の瞬間、まぶたの裏に焼き付くように過去の光景が閃いた。
小さな家の奥座敷。白い布をかぶせられた小箱。誰かが私に向かって祈っている……それは、母の声……?
「リシェル……いい子にして。聖女様になれるから……」
母は泣いていた。小さな私の手を握りしめながら、震える声で祈りを捧げていた。
──この子は、神に選ばれるはずの子。
──この子さえ、“祝福された存在”として認められれば、家も救われる。
その思いが、祈りの言葉となっていた。
商家の娘である私は、裕福ではあったが、当時の商人は貴族たちに軽んじられ、常に見下されていた。母はそんな現実を打ち破るには、神の奇跡しかないと信じていた。
「神様、どうか……この子に光を。聖女の名を」
その祈りは、母の愛と、絶望と、野心の入り混じった複雑な響きを帯びていた。
私はそのすべてを、幼い心で受け止めていた。
──その記憶が、いま私の胸に蘇っている。
頭痛が走り、私は額を押さえてうずくまる。
突如、鏡台の奥で蝋燭がぱちりと灯った。誰も火をつけていないのに。
その揺れる炎に照らされた鏡の中、私が立っていた。
だが……それは“私”ではなかった。
──白い衣、穏やかな微笑。瞳の色が、わずかに淡く、澄んでいる。
「……はじめまして。リシェル」
その唇がそう動いた瞬間、私は凍りついた。
鏡の中の“私”が、私に向かって喋っている。
「誰……?」
「私は、あなた。けれど、もう一つのあなた。昼の顔──ユリシア」
私の胸がざわめいた。
「ふざけないで。私は……私よ。誰かに作られた仮面なんかじゃない」
「違わない。あなたも私も、“ひとつ”だった。祈りの中で分かたれ、夜と昼に裂かれた。けれど、もうすぐ……」
その瞬間、鏡が小さく音を立ててひび割れた。
中のユリシアの微笑が、ゆっくりと薄れ、闇に吸い込まれていく。
私は慌てて駆け寄った。
「待って。……どうして今、現れたの……?」
返事はない。ただ静寂と、月の光が差し込むだけ。
私はひとり鏡の前で立ち尽くした。
胸の奥に残る、奇妙な共鳴と共に。
“私は、誰なの?”
自分の名をつぶやこうとして、言葉が宙に滲んだ。
その夜、私はとうとう眠れず、夜明けまで瞳を閉じることができなかった。