第十話 夜:星降る庭園、王子とリシェルのすれ違いの距離
夜の王宮。誰もいないはずの中庭には、月明かりと静寂が支配していた。
私は闇に沈んだ庭園を、音もなく歩いていた。濃紅のドレスは月光を吸い、まるで闇夜に咲く毒の花のよう。人払いは済ませていたから、こんな時間に誰かと鉢合わせることなどないと思っていた。
──けれど、あの声がした。
「……リシェル?」
振り返ると、噴水の影から現れたのはユリウス王子だった。
金の髪が夜風に揺れて、月の光に包まれるその姿はまるで幻想そのもの。でも私は、その裏に潜んだまっすぐな視線に、少しだけ身構えた。
「まあ……偶然ですね、王子」
「君こそ、こんな時間に?」
彼は私の隣に立ち、ためらいもなく噴水の縁に腰を下ろす。
「眠れなくて。あなたも?」
「同じだ。……でも、君がいると静けさも少し変わる気がする」
軽い一言に、私は仮面の笑みを浮かべる。
「相変わらずお上手。……私に気を許すなんて、王子も甘いんですね」
「そう思う?」
「ええ。私は誰にでも微笑みますけれど、本音を晒すことなんて滅多にありません」
わざと唇に笑みを浮かべて、挑発するように彼を見つめる。
「君は、夜になると別人のようだ。誰かの仮面を被っているように見える」
「仮面? ふふ、それはあなたもじゃないですか?」
私は足を組み替え、指で髪をゆるく撫で上げた。その仕草がどんなふうに映るかなんて、わかっている。
「私は偽るのが得意なんです。昼は敬虔な令嬢、夜は甘い毒を持つ女。どちらも演じてきた私です」
「君の仮面の下にあるものが、見てみたい」
「……怖くないの?」
思わず零れたその問いに、彼は穏やかに笑って答えた。
「怖くなんかない。君の仮面は鋭くて美しい。でも、その奥にある本当の君も、知りたいと思ってる」
その真っ直ぐな言葉に、私は目を逸らした。
「私のような女を、どうするつもりですか? 気まぐれで心を惑わし、手のひらで踊らせる女を」
「君を手のひらに乗せるつもりはない。ただ、君をそのまま知りたいだけだ」
「……変わった方ね、本当に」
私は静かに立ち上がり、王子に背を向ける。ドレスの裾が音もなく石畳を撫でる。
「この夜のことは、忘れないで。忘れてくれたほうが、都合がいいこともあるけれど」
「忘れるわけないだろう。君が初めて、ほんの少しだけ本音を見せた夜なんだから」
その言葉に、私はふっと笑った。
その笑みが、悪女の仮面だったか、それとも素の私だったか──それはきっと、私にもまだ分からない。
そして私は、月影の中へと音もなく去っていった。